辺境の普遍性2011/04/17 01:18

 某大学の大学院での初めての授業。受講者は一人、つまり、一人の院生のために、私が担当となったということらしい。まさか授業も一人とは思わなかったが、一日二コマ講義と演習があるが、一人の学生(男子学生です)と1年間つきあうことになったというわけだ。女子学生でなくてよかった。女子学生だとさすがにいろいろ気を遣うので。

 考えようによっては気が楽である。対話しながら常に授業が出来るし、場所も何処でもいい。去年、風土記をやっていたので、続きを今年やるとうことになった。それから、日本霊異記を読んで見たいというので、霊異記も勉強することにした。最初なので、お茶を飲みながら、2時間近く、古代文学の何処が面白いのか、ということなどを雑談風に語って終わった。まあ、家庭教師みたいな感じである。研究者志望ではなく、高校の先生になりたいとのことで、とすればあまり専門的なことをやらなくてよさそうだし(専門的ことを教えるのは苦手なので)、この時間が重荷にはならなそうで助かった。でも学生が一人だと、学生が休んだとき授業はどうなるのだろう。休講にしたら補講しなきゃならなんし、それでも出校しなくてはならないのか。彼は教育実習で何週間か休むと言ってるので、その時どうしたらいいのか、そんなことが不安である。学校に聞けば、原則として授業はやってください、と答えるだろなあ。

 あのサンデル教授が、日本や中国アメリカの学生たちを集めて討論をNHKでやっていた。大震災がテーマだが、これからも原発に依存すべきかどうかとか、個人主義とコミュニティとの折り合いをどうつけるか、とか、国家を超えた人道主義は成立するのか、といった、簡単には解決できないジレンマ問題を取り上げていた。熱心に見ていたわけではないが、さすがにこういう番組に出てくる若者は、きちんとある立場に立って発言していて、自分の中で悩んで支離滅裂にならないところに感心した。とりあえず、相手の立場に対しても一定の理解を示しながら、自分の選んだ立場に立って自分の中でジレンマ状態を作らない、というのが、こういうときの賢い発言のスタンスである。だめなのは、どっちの立場も大事だし…と悩んでしまって、何も言えなくなることだ。

 サンデル教授は、リベタリアンではなく、カント的な理性的立場をよりどころとしつつ共同的な関係的世界に生きることの重要さを排除しない、という矛盾した立場をいろんなジレンマ例で語り続ける現実的な哲学者である。その立場からすれば、今度の大震災の東北の人々の行動は、サンデル教授のテーマにぴったりだったと言えるだろう。

 東北の人々の中には津波にあって自分を犠牲にして人を助けようと行動してなくなった人がけっこういた。この行為自体はとても立派であるが、冷静にこのような犠牲的行為を評価するとこれが難しい。カント的理性主義者からいえば、このような行為は、個人の人間の本性としての理性に基づくことではじめて意味がある。そこに人間の本質があらわれるからである。かりにそれが本能的な行為だとしたら、それは評価されない。それは非理性的な行為だからである。だから、おぼれた子供を助けようとする親の行為は、人間的な行為なのかどうかという論争が起こるのである。

 が、一方で、あの犠牲は、国家や共同体のために自分を犠牲にすることと同じで、とても立派で尊い行為だと評価したらどうだろう。実際中国の学生がそのように評価していた。だが、それに対して、日本の作家は、あれは地域の人たちのために自分を犠牲にしたのであって、国家とかいうようなもののためではないと反論した。何処までが地域のためであってどこからは国家になるのか。この線引きは明確ではかならずしもない。戦争で死んだ兵隊達は、お国のためにと言うが、実質は家族や地域のために戦ったのである。が、お国のためという言い方はそれをも含む言い方になってしまう。

 ここで問われているのは、東北の人が自己犠牲的に振る舞ったのは、公共的に生きる道徳心が他の国あるいは地域の人々より強かったからなのか、それとも、地域共同体の関係の内実によっては、その地域共同体に属す人は誰でもそのようにふるまうのものなのか、ということのようだ。前者は公共のために犠牲を厭わないという普遍的な理性を持つ個人を前提とした評価であり、後者は、むしろ共同体的人間のその画一的な在り方の長所への評価ということになろうか。

 現代社会は、理性的に行動を律する個人を主体として社会と、家族や地域の共同体的関係が生きていく上での強い規範となっている社会との両方が、重なり合いながらまく機能することによって成り立っている面がある。その意味で、ある一人の英雄的な自己犠牲的行動が、前者によるものなのか後者によるものなのかと判断するのは困難だろう。というより、それは社会や人間の一面しか見ないことによる判断だということだろう。

 それは、西欧的な意味での理性的精神を持たない、西欧から見て遅れた文明を持つ民族であっても、東北の人が見せた自己犠牲的な行動は取り得る、ということである。そんなの当たり前だろうに、何故、そこに西欧的な思想をからませてジレンマ問題を作らなければならないのか。問題はこっちにある。

 たぶん、東北の人々の自己犠牲的な行為が世界の人々のスタンダードな振る舞いになれるのか、という期待がそこにあるからだということだろう。つまり、スタンダードになるためには、普遍的な言説によって説明されなくてはならないのだ。その普遍的な言説とは、西欧思想がかたくなに守ってきた、プラトン以来の人間の普遍性に対する信仰のような哲学である。この人間の普遍性とは、実際は西欧的な価値観の押しつけであって、中東では戦争をすすめる理由になっている。そういう状況のなかで、東洋のある地域で、尊い自己犠牲的な行動の実際が、一挙にメディアによって世界中に拡がり感動を与えた。この優れた人間の行動を世界のスタンダードとして語るためには、どういう価値観に基づくのか、つまり、どういう言説がよいのか。別の言い方をすれば、西欧的な言説はこの東北の人々の自己犠牲的な行為の持つ普遍性を評価出来るのか、たぶん、それがサンデル教授のテーマであるようだ。

 相変わらず西欧中心主義であることにかわりはないとしても、このことは、世界のある辺境の人間の行為が一挙に世界のスタンダードな行為として論じられる、というグローバリズムの世界の在り方を象徴的に示しているだろう。「仕方がない」ということばが今世界で注目を集めている。このように外国人にはとてもわからないだろうと思われていたことばが、突然、世界のスタンダードなことばになってしまう、ということもあり得る時代になったのである。  
                     
                          春の残がい漁師は黙祷する