無知の神2011/04/13 01:19

 今日は会議で出校。午後は学会の大会準備で封筒の印刷などを行っていた。二時半頃だったか、突然研究室が揺れはじめた。研究室でこれだけの揺れを体験するのは今回がはじめてである。横揺れがけっこう長く続いた。15階ということもあるようだ。3.11にはここにいなかったが、かなり揺れたのだろうと想像できた。不思議なもので、これだけ余震が続くと、体も慣れてきて慌てない。好いのか悪いのか。

 帰りに、頼まれていた原稿を神保町の郵便局から送る。締め切りから一ヶ月遅れたが、知り合いの古希記念論集の原稿で、たぶん、私は早く送ったほうではないかと思っている。白族の巫師(シャーマン)について調査記録などをもとにまとめたもの。調査記録はけっこうたくさん資料としてあるのだが、忙しいのと、いろいろと他の原稿を頼まれるのでなかなかまとめる機会がない。今回は、まとめるいいチャンスであった。

 『国文学 解釈と鑑賞』五月号が送られてきた。古代文学研究の現在という特集で、私も書いている。他のそうそうたるメンバーの文章にくらべると、私のはかなり真面目に書きすぎている気きがして、もう少し、評論的な文章にしておけばよかったと反省。益田勝実著作集を五冊も読んでの文章なので、つい、益田勝実をきちんと定義してやろうと力が入ったか。

 大澤真幸『量子の社会哲学』も読み終わった。こういう本は授業が始まると読めない。今のうちである。後一冊くらい哲学系を読みたいと思っているが、間に合うかどうかである。

 なかなか知的な刺激を与えてくれる本で面白かったのだが、大澤のその非常にわかりやすい論理にどうもうまくまるめこまれているのではないかという疑念が最後までつきまとう。これは、私の理解力の問題もあるかもしれないが、量子力学という対象を、思考のある型ととらえて、その型に適合する歴史上の様々な言説や理論を説明していく。大澤にかかれば、不確定性原理が、19世紀から20世紀の実に様々な歴史上の人物の言説に対応すると、されてしまう。

 読んでいる時は感心するが、読み終わるとほんとかいなと思う、その連続である。不確定性原理の思考の型とはこういうことである。個別的な事象が成立する説明として本質があるから、と考えるのが古典的な型である。つまり、本質としての神がいるから、個別な人間がいる、ということになる。この場合リンゴが木から落ちるのは、重力という本質があるからというのと同じである。

 相対性理論は、重力というのは絶対的に不変な本質とは言えないことを証明した。その根拠となったのは、光である。光は、実は物理的にとらえられる事象である。ところが、この世のあらゆる事象は光を超えられない。誰も光速を超えられない、というのと同じである。ということは、物理的事象である光を超えられない(その向こうに行けない)という否定的な態度において、その向こうを見ているということになる。その向こうとは神である。こういうのを否定神学というそうだ。相対性理論は、誰も神の領域には行けない、というその否定性において、神の領域を描いている、ということである。

 量子力学では、物質というのは決して厳密に観察出来ない。観察しようとすると、対象は輪郭を曖昧にしてしまう。観察者に対して対象は常に揺らぎとして存在する。それは時間的な原因結果についても同じであり、ある事象を観察することで原因が決まる。つまり、原因は揺らぎとして存在している。原因を本質とするなら、本質は常に不確定である、ということである。この論理訳がわからなくなるのでこれくらいにしておく。

 物質、もしくは事象を、個別の側で生きている人間の事象と見なすとする。すると、生きている人間の事象そのものを探求してもそこに見えてくるものは不確定そのものということになる。この不確定そのものの事象が、本質としてのこの世の原因だとすれば、「存在していないわけではない」という程度によってしか、本質は存在しない。むろん、この世は無ではないとすればそう考えるしかないということである。つまり、生きている人間の側の事象のその不確実なありかたに本質は随伴する、というのが量子力学の思考の型ということになる。絶対的な神がいることによつて個別的な人間の生が決定されるのではなく、生きている人間の様々な生のその不確かなありかたが、神という本質を決めてしまうのである。

 これはある意味でアニミズム的思考とも言えるだろう。アニミズムは自然の事物に神が宿るという思考の型である。あらかじめ個別的な事象を超越した神がいるわけではない。自然の事物をその輪郭を曖昧にしていくほどじっと見つめれば、その事物の存在は揺らぎはじめる。恐らくそこに本質を投影するのがアニミズム的思考である。

 こう考えてもいい。生の現場というものは常に量子力学的なのだと。われわれは、本質を想定して動いているわけではない。動いていることつまり生きていることが先にある。その自分が生きていること自身はいつも不確定でとらえどころがない。こういうとらえ方によって、例えば誰かの思想を理解したとする。必ずその思想家の生きている不確定な事象があるはずだ。とすれば、その不確定な生に付随する形で本質があるので、その思想家がその事象を無視して作り出した抽象的な理屈に本質があるわけではない、ととらえると、その思想の量子力学的な理解ということになるのである。大澤はこのようにして、量子力学的な思考の型を、レーニンを初めとする様々な思想から取り出してくる。

 結論としては、われわれの生きて入る事象そのものは量子力学的にしか説明出来ないと言うことだ。でも、われわれは古典的な本質を求め、あるいは想定する。大澤は、それは、個別的な事象そのものに無知であることによって、そういう本質が生まれるという。それは無知の神なのだという。つまり、量子力学的な時代にあつて、神は無知であることによってしか神たり得ない、といことである。難しい。何となくわかる気はするが。  

不確定なこの世のままで桜咲け