物語ではない2011/03/19 00:37

 こちらは真冬なみの寒さ。昨夜はマイナス11度まで下がった。今日はとても天気がよくて、昼間は暖かくなった。締め切りの論文を書くために、少数民族調査のビデオを見て、必要なところは文字に起こすなどし始める。が、なかなかはかどらない。何となく、論文を集中して書く気になれないというのがある。体調も芳しくない。疲れが出て来たようだ。

 ついテレビを見てしまう。福島原発も気になる。一週間経って、被害の実態がだんだんわかってきて、悲しい話もあれば、良い話もある。様々な物語が語られている。悲しい話は山ほどだが、良い話は少ない。釜石市の小中学校で、普段から津波の避難訓練をしていた生徒たちが、訓練の時のように指定された避難場所に逃げたが、そこも危ないと判断しさらに高台に逃げた。逃げた30秒後に津波が押し寄せたという。日頃から、中学生が小学生を助けながら避難する訓練をしていてその通りに行動したことが全員助かることにつながったという。こういう話がたくさんあるとこちらも救われる。

 釜石では危機管理の専門家のもとにハザードマップを作り、津波の避難訓練を何度もやってきたが、今回の津波は想定された歴史上記録(明治三陸地震津波)のあるもっとも高い津波をはるかに上回った。生き残った人たちは、こんなに何度も訓練したのに無力だった、と嘆く。

「遠野物語」99話に、津波で妻と子どもを亡くした男の話がある。男は、生き残った子どもと一緒に海岸に小屋を掛けて暮らしていた。ある月夜の晩、便所に行ったところ、深い霧の中から男女二人がやってくるのを見る。その女は津波でなくなった妻であった。妻は、同じ津波で死んだこの男と今は夫婦になっている。生き残った夫が妻のところに婿入りする前に、妻が思いを交わしていた男なのだという。夫は、生き残った子どもは可愛くないのかというと、妻は悲しそうな顔をして去っていった。

 この物語の津波は釜石市が対策のモデルとした明治三陸地震津波(1896)だろう。悲しい話であるが、あの世で好きな男と一緒になれたということは、この物語の語り手の死者への想いがくみ取れる。おそらくこのような話が当時はたくさん語られたのに違いない。この物語は、津波から一年後ということである。生き残った人々が死者と出会うのはこの位の月日が必要なのだと言うことだ。

 今、津波にあって生き残った人々にとって、行方不明者は死者ではない。生きていることを信じて必死に探している。今語られている物語は、ノンフィクションである。その意味では物語ではない。

 山折哲雄が新聞のコラムで、今私に出来るのは「無常観」を共有することだ、と書いていた。私もまた同じである。

様子見の危機管理2011/03/19 13:45

 福島原発事故で、当初、冷却に海水を入れろという管首相の打診に東電は断ったと伝えられている。海水を入れると廃炉になるからで、東電としては、最初の段階で経済的損失を抑えることを危機管理より優先していた、ということがわかる。だが、次第に冷却が不可能な事態に海水を入れることを決断する。そのことで、対応が後手後手になっている、と批判されている。東電の危機管理に何も言えなかった政府にも当然責任があろう。

 東電の対応は、災害に直面したときにすぐに逃げないで、貴重品をなるべく持って逃げようとして逃げ遅れる、というのと良く似ている。避難訓練の原則は地震が来たら即逃げることで、それで大勢の人が助かっている。つまり、東電はこのような訓練をやっていなかったということになる。住民の原発不安を打ち消すために自ら作り出した安全神話に逆に縛られてしまったということだ。訓練をすれば必ずしも安全でないことを伝えてしまうからだ。だから、地震が来たときに最悪を考えて行動する原則対応が出来なかった。廃炉になることの経済的損失にとらわれてしまい、危機を増大させてしまったのだ。

 アメリカは日本の対応にいらだっているという報道がある。情報が一元化されていないし、対応も生ぬるいということのようだ。アメリカのメディアは、水素爆発が起きたときに、東電が原発から職員を避難させたという記事について、通訳のミスではないかと、書いていた。アメリカでは、そういう時こそ国民のために現場は自分を犠牲にしてでも留まる、という精神論が当然な国である、ということだ。

 日本にそういう精神がないとは思わない。現に、現場の人たちはそういう精神でがんばっているだろう。たぶん、この違いは、危機感の違いのように思われる。この原発事故について、海外の方がかなりの危機感を持っていて、東電はどうもそれほどではない。たぶん、アメリカは最悪を予想してそれを防ぐ行動モデル通りに動こうとしている。日本は、そういう危機管理モデルを持っていない。最悪になるかどうかは様子を見ないとわからない、とりあえず、今できることをやってみて様子を見ようと、いうのが基本的な危機管理モデルのようである。

 この違いの理由は、危機管理に対して、当事者の責任を問う社会とそれほどの責任が問われない社会の違いが一つにはある。アメリカが過敏なのは、最悪を想定して行動すれば、責任は問われない。もし、最悪を想定せずに行動して最悪になったら、大統領もみんな責任を問われる。日本は、そもそも誰が責任者かよくわからない。だから、誰かが最悪を想定して直言しても、だれかがまだ大丈夫と言えば、すぐに引っ込めてしまう。今度もそうだったようだ。

 アメリカの80キロ圏内避難勧告はそういう危機管理の考えから来ている。問題は日本だが、東電の情報を信ずればそれほどの事態ではない。が、本当のところはどうなのか、危険度が良くわからない、というのが大方の見方であろう。テレビでも専門家が出て来て、原発の構造や現在起きていることを何度も何度も繰り返し説明しているが、決して踏み込んだ発言をしない。だから、メディアも何度も同じ事を聞く。

 これは、最悪を想定して動くという危機管理モデルが我々にないことをあらわしている。つまり、様子見なのである。その意味で、東電も曖昧な情報を流しているわけではない。基本は様子見である。明日になってみないと最悪になるかどうかはわからない、というのが基本スタンスである。アメリカはこれにいらだっているのだ。

 危機管理としてはアメリカのようにやるべきなのだろう。ただ、最悪想定の根拠というものもある。様子見でも大丈夫な根拠があるなら、様子見でもよいだろうが、そこのところの情報がない。今みんないらだっているのは、その情報が伝わってこないということにあると思う。