自己紹介2011/03/07 01:22

 土日は、FDフォーラムに出席のため京都へ出張。去年も今頃行った。今年は、初年度教育のシンポジウムに出席。私は、勤め先の初年次教育の責任者だから、興味深くシンポジウムを聞いた。いくつか学ぶところはあった。

基礎ゼミの授業で最初に自己紹介をやらせるのだが、このシンポジウムでも、参加した教職員が授業形式で自己紹介をさせられた。これには参った。授業のシミュレーションというわけである。まず、両隣に坐っている参加者と、お互いに名前と勤め先と専門を紹介し、何故この専門を目指したのかその理由を語らなくてはならない。自己紹介が終わったら、そのグルーブの一人が他のグループに行って、自分のグルーブのメンバーを紹介する、ということをやる。他のグルーブもこちらに来て紹介する。

 学生にやらせる自己紹介のやり方だそうだ。最初は戸惑ったが、やっているうちに面白くなってきた。右隣の人は東北の芸術系の大学の先生で、私がAさん知ってると聞いたら、この1月に辞めた、という。ええーっ、とさすがに驚いた。途中で辞められるのか。東京の大学に決まったらしい。亡くなったNさんの後任ということらしい。初耳である。こんなところでAさんの情報を聞くとは。ちなみに、隣の人は私の名前を知っていた。何度かその大学に行っているので彼の勤め先に行っているのでその縁でらしい。世の中は狭い。

 基礎ゼミの成績の付け方でいつも悩むのだが、シンポジウムのある発表者は、合格か不合格で付けているという。つまり、ABCでつけていない。授業の性格からすればありだなと思う。わが校も考え直さなくてはならないだろう。基礎の基礎、つまり、大学生にするための授業なのに、ABCを付けるということは、大学生にするための教育に最初から失敗しているということを教員が示しているようなものである。全員Aにするか合格にするのが、この授業の本来の目的であるはずである。

 帰りの新幹線のなかでH氏の論文を3本ほど読む。彼は秋のシンポジウムで一緒に環境のテーマでやることになっている。さすがにいつものように博覧強記のなかなか読ませる論文なのだが、ただ、環境と文化の問題については、歯切れが悪い。というより、解答の出ない隘路にあえて自らを位置させている。それは、人間は自然に負荷をかけていることにたいして罪業観をもっているはずだ、という、一種の倫理的とも言える態度を決して外さないからだ。彼のえらいところは、安易に例えば、西欧的な環境権とか(私の言い方で言えば新しいアニミズム)の主張を人間中心主義の裏返しだと与しないところで、一方で、アジア的な、自然神への贖罪的行為も単純には自然を穢すことへの罪の意識だと結論づけない。つまり、倫理的な解釈への誘惑を断ち切りながら、自然や動物に対する人間の罪の意識は(罪の意識という言い方ではあらわせないものかも知れないが)それでもある、とそこは決して譲らない。が、彼の出す歴史上の資料は、必ずしも罪業をあらわすものではないので、なかなか難しいところにいる、というのが感想である。

 たぶん、自然への儀礼や、神話的、もしくは呪術的言説をどう読むのか、という問題になるのだろう。一方で、人と自然との関係そのものの、あるいは、その連続と断絶の、歴史的な表象の問題、それをどう論じるのか、ということにも関わる。例えば彼は「情動」を問題にする。それを慈しみや哀れみまで広げると、倫理的解釈だが、それ以前の身体的な動きとして、自然に対する人間の関わり方の回路がある、というようなこととして、とらえ返す必要があるのではないか、というのが、感想であり、秋のシンポジウムの問題にもなるだろうなあ、と感じたところである。

 土曜の朝京都行きの新幹線はから富士山がとてもきれいに見えた。その写真をのせておく。

三月の真白き富士を眺めけり