『七五調のアジア』出版!2011/02/07 00:11

 土曜は学会の例会で出校。入試期間だが、試験をしていない校舎で学会の例会会場の教室を借りることができたので、勤め先で例会をやることになった。学会会場校としては私の勤め先は交通の便もよくほんとに理想的な場所にある。そのためか、私も会場校の責任者としていつも重宝されている。ありがたいのか、負担なのか…

 例会発表は、日本書紀雄略天皇の遺詔が、随の高祖の遺詔のほぼコピーであることを論じたもの。なるほどほとんど同じだということを知っただけでおもしろかった。いずれも遺言として、後を継がせたい皇子を指名し他の皇子は排除せよ、という内容で、それに后もかかわっている、というところが共通している。随の高祖は皇位継承に失敗して二代で滅ぶが、雄略天皇後も天皇制は続くから日本は成功したということになる。成功した日本が、失敗した隋の高祖の歴史をどうしてコピーしたのか、と問うのが発表のテーマであったが、あえて皇位継承に失敗した例を取ってきてこっちはうまくいっているぜ、と日本書紀はいいたいのか、それとも、雄略の記事を書くのに参考になる記述がそれしかないので、都合の悪いところは参考にしないでコピーしただけなのか、ということになるが、まあ、普通に考えれば後者ということになるのではないか。前者でないと面白くないので発表は前者をとっているが、やや自信なげな発表ではあった。

 土曜例会後にいつもの飲み会。いつものイタメシ屋だが、今週は三回目である。ゼミの打ち上げで学生を二回ほど連れてきた。さすがに、三回目になると飽きた。ただ、久しぶりに学会の古い仲間と話ができて楽しかった。

 家に帰ったら、大修館から『七五調のアジア』が届いていた。やっと出来上がったか、というところである。この本を私が企画してから、何年経つだろう。2006年から企画を経て、2007年と08年にシンポジウムを開き、その成果を単行本にするために出版社と交渉し、原稿を集めようやくここまできた。苦労したが形になってみると感慨深いものがある。アジアの歌文化を音数律という視点から見てみようという画期的な試みの本である。話題になって欲しいなと思う。私たちの地道の努力の成果がこういう形で世に出るのは、うれしいことである。

 日曜は一日原稿書き。アジア民族文化研究に載せる学会報告を書いたり、去年の雲南シンポジウムでの兄妹洪水神話の聞き書きのテープを起こしたりと、あっという間に一日が終わる。明日はわが学科の入試。授業は終わったが、めまいかするほど忙しい日々は続いている。
寒明けやコートの袖に肌着見ゆ

押井守と宮崎駿2011/02/11 14:41

『七五調のアジア』大修館書店より刊行。定価2100円。アジアの歌文化を音数律という切り口でこれだけ広範囲に取り上げた本はいままでに無かった、という意味で画期的です。まずは宣伝。

 成績もほぼつけ終え、原稿書きも一段落。次の原稿はこれからいろいろ資料を調べて書くことになる。一つは、雲南省の白族のシャーマンについてだが、取材記録をこれから引っ張り出してまとてめいく作業になるだろう。ただ何処まで論としてまとめられるのかそれが心配。とりあえず、この連休は原稿を書くことはなしですみそうだ。

 四月からの授業のためにアニメ関係の本を読んでいるが、岩波の『アニメは越境する』を読んでいる。上野俊哉が中心の論集だから、けっこう難解。ただ、現代のアニメ現象を思想として言説化しようとする意気込みはよく伝わる。上野俊哉の「アニメ的オートマン」押井守論だが、井筒俊彦の思想との類似として論じている。分節化できない対象を言説化する試みとでもいえばいいのだろうが、そこにアニメ特に押井守の深さがあると論じていく。井筒との比較はやや強引とも思えるが、ただ、アニメを思想として論じるなら、こういうのもありだろう。

 そもそも、アニメが日本で流行るのは、幼児的な表象文化をわれわれが好むからだが、その幼児性とは、世界の分節化以前の混沌とつながった領域へのシンパシーである。「かわいい」もある意味ではそういう領域への親和的な接近の方法だ。幼児がリアリズムの映像よりアニメの表象を好むのは、曖昧を排除する映像秩序についていけないからである。日本人はどうもまだこのような感性を持ち続けている。この幼児性を、アニミズム的感性と言い換えてもいい。そこまで行くと日本のアニメ文化は、日本の古代性をある意味では表象する文化と言えそうだ。

 押井守の「ビューティフルドリーマー」を見て、物語の新しい定義を一つ付け加えた。それは「物語とは誰かの夢にとらわれることである」ということ。「ビューティフルドリーマー」では全員がラムちゃんの夢にとらわれた。誰かとは、自分ではない。これが大事だ。一般的には集合無意識のようなものになる。が、現代の物語は、この定義を更に次のように発展させる。「物語とは複数の夢の横断である」。夢から逃れることの夢、ということである。「アバター」もそうだが、夢は階層化され、その階層を馳せ渡ることにリアリティを持たせる工夫が、現代の物語と言えようか。夢をある種の秩序と置きかえれば、横断は秩序から逃れる行為となる。が、逃れる先は何処か。その答えがないのが、というより、それもまた夢でしかないのが、現代のリアリズムである。

 幼児性の持つ世界の輪郭の曖昧さは、異次元への馳せ渡りを容易にする。だから、アニメは、現代の現実とヴァーチャル的世界との横断を描くのに最適なのだ。映画「マトリックス」は確かにそのように試みはしたが、やはり「攻殻機動隊」の方が、横断することのリアリズムというかその虚無もしくは徒労感を伝えていたと思う。

 一方でジブリの物語は、かたくなに、幼児性を担保しようとする物語なのだと言えるだろう。押井守が、物語の横断というそれこそ際限のない悪夢に現代を象徴させているのだとすれば、宮崎駿は、幼児性を担保する物語に執着している。現代が抱えている分節化以前の混沌、に物語の快楽を求めている、といっていいか。

 物語の評価としては押井守が高いが、「スカイクロラ」を見終わって救いが無いなあと感じるように、あまり積極的に見たくはない。現代に答えがないように答えがない映画なのだ。その点、評判はよくなくてもジブリのアニメは、われわれの快楽の原点を押さえている。学生にどちらを教えるかといえば、当然ジブリになるだろう。圧倒的に人気があるし、女子学生はみんな見ているからだ。本当は、押井守のアニメの方が教え甲斐があるが、かなり難しくなりそうである。どちらかといえば「となりのトトロ」のメイが大きくなったような女子学生がまだ多い。少なくとも、草薙素子のような女子学生はほとんどいない。いるとすれば、心を病んでいる学生である。草薙素子を論じるのはまだ早いなと感じるのである。

                     ON・OFFで夢かうつつか春浅し

うまく生きられなさ2011/02/15 01:04

 成績をやっと全部つけ終え、ウェブに登録。今は便利な時代になった。いちいち採点簿を学校に持っていかなくても、自宅でウェブを使って記入が出来る。成績は付けられる側にとっては、ずしーんと心に来るものだから、それなりに手間暇掛けて記入というのもありだとは思うが、これも時代というものだ。クリック一つで、今は何でもすましてしまう。それこそ、お金を払うのも借りるのも、就職を決めるのも、クリックするだけでいい。手書きで契約したり申し込んだりする、その手間暇に、ほんとうにこれでいいのかという躊躇や、決意までの心理が凝縮され、その手間暇がとても特別な行為に思えたりする。そういう特別さが、今の、ウェブ上で何でもクリック一つで(むろん、何度もクリックさせるようにはなっているが)決めてしまう行為にはない。

 日常の生活の行為というのは、考えて見れば、クリックとは縁のない手間暇の世界だ。クリックで歯は磨けないし飯も食えない。生きている、というのは、手間暇そのもののことである。現代をうまく生きていくことがこのクリック的世界に順応させていくことだとすれば、順応できないものは、結局、日常の手間暇の世界にしか居場所がないことになる。

 そのように見ていけば、日常のちょっとしたふるまいやことばに面白さを見いだして、それを表現する行為というのは、うまく生きられない自分の情けなさの吐露という面がある。最近読んで面白かったのは、せきしろ・又吉直樹『カキフライが無いなら来なかった』(幻冬舎)である。これは自由律俳句と言えば言えるような句集もしくは短詩集である。ここに並べられていることばは、まさに、うまく生きられないような情けなさのなかで生まれたことばである。けっこう面白い、というか、笑える。
      落ちた歯磨き粉ここで一番白い
      目を開けていても仕方ないので閉じる
      手羽先をそこまでしか食べないのか
      喧嘩しながら二人乗りしている
      転んだ彼女を見て少し嫌いになる
      すまないが狐の影絵しかできない
      自動改札機にも無視された
      祖師ヶ谷大蔵と言いたかっただけ
 こんな調子のことばがたくさんある。これらのことばの担い手は、クリック的世界に絶対に順応していないだろうなと思う。クリックとは無縁な些細な日常の中の、うまく生きられなさ、といったものを、ことばにしている。「うまく生きられなさ」はこれらのことばのゼロ記号である。つまり、それを表出するためのことばになっている。

 かつての自由律俳句の山頭火や尾崎放哉もまた「うまく生きられなさ」をことばにした。ある意味でその系譜であるが、この二人と違うのは、日常に背を向けてしまうのではなく、うまく生きられない日常の生活そのものにしか居場所がないことであって、その「とほほ」感が、山頭火や尾崎放哉と違うといえるか。

 穂村弘が先日の朝日の書評で『まさかジープで来るとは』を取り上げていたが、これは
『カキフライが無いなら来なかった』の第二弾。けっこう売れたみたいだ。

                     誰からもかかってこないAUの新機種

チビ歯を抜く2011/02/23 23:53

 今わが家はみんな歯を煩っている。私の歯はいつものことだが、奥さんも歯医者に通っている。ところがだ、チビが今日全身麻酔で歯を5本抜いた。さすかにぐたっとしていて、食事もせずに寝ている。

 しばらく前から餌を食べる時にキャンと痛がることがあった。たぶん、歯が痛いのかなとは思っていた。そのうちに医者に見せなきゃと思ってはいたのだが、ごくたまになく程度だったので、忙しさにまぎれ、そのままになっていた。ところが、二、三日前からなく頻度が多くなり、みるからに具合悪そうで元気が無くなった。そこで、21日に医者に連れて行ったところ、奥歯の2本が炎症を起こしていてこれは抜いた方がいいという。それで、今日の午前中にチビを医者に連れて行き医者に預けた。午後に手術をして抜いてもらうことになった。

 午後に医者から電話があり、どうも他の歯もだめになっている。このままではすぐ抜かなきゃならなくなる、どうしますか、という。仕方なく、抜いてください、と答えるしかなかった。結局5本抜く羽目になったのである。

 犬は歯垢がたまりやすい。歯磨きをしなきゃいけないのだが、いやがるものだから、ついそのままにしてしまった。結果的にそれがよくなかったようだ。それにしてもこんなに重篤になるとは、思ってもいなかった。チビを迎えに行くと、両頬が腫れていて、元気がない。まだ出血しているので、餌は食べさせないでくださいという。こんなに歯を抜いても餌は食べられるのかと聞くと、大丈夫だという。結局、家で飼われている犬の歯は、もう本来の役割を果たしていないということのようだ。柔らかいペットフードばかりを食べているのだから、歯は鍛えられず、おのずと悪くなっていくということだ。そこは人間と同じだ。

 歯が無くても、柔らかいペットフードを食べることにそれほど差し障りがないのだという。でも、抜かれたのは奥歯で、前の歯はまだあるので、何とか見た目は犬らしい。チビがわが家にやってきて、初めての病と言っていい。小さい犬なものだから可哀相になる。明日になれば元気になると医者は言う。もとのように元気になるとは思うが、やはり心配である。こういうのを情というのだなあと改めて思う。

   かたわらの犬を撫でつつ雪も解け

チビの顔が…2011/02/28 00:30

 土曜は研究会。若手が中心になって雲南の「南詔徳化碑」を読んでいる。この碑文は、唐の時代に建てられた。自国の文字を持たない人々が漢文で自国の歴史を記述した碑文で、日本語訳は今のところ無い。とりあえず、読みくだし文と訳文を作ろうという試みである。

 古事記とちがってほぼ正統漢文なので、意味はとりやすい。注釈もあるので、「山花碑」よりもスムーズに行きそうである。其の後いつもの飲み会。

 今日は、友人が水上温泉にリゾートマンションを購入し、そのマンションに一度行こうと誘われていたので、それで、日帰りで友人夫婦と私ども夫婦で水上温泉のそのリゾートマンションに出かけた。

 バブルの頃に温泉地やスキー場近くにたくさんのリゾートマンションが作られ、バブル崩壊とともに、ほとんどのマンションに買い手がつかず価格が暴落した。友人は3500万円で購入した人から380万円で買ったという。湯沢のマンションなどは50万円でも買い手が見つからないという。

 水上インターからすぐのところで、駅にも近い。大浴場と露天風呂、室内プールもある。友人の部屋から谷川岳がよく見える。いいところである。水上温泉の有名だというそば屋で昼食を食べ、リゾートマンションの温泉に入り、帰途に就く。帰りは大渋滞。行きは埼玉の友人の家から一時間半だが、帰りは四時間近くかかった。

 私の家に帰ってきたのが、夜の十時近く。ドアを開けたら私たちの帰りを待ちわびていたチビが飛びついてきた。恐らく、わたしたち二人がチビを家に置いてこんなに遅く帰ってきたのは初めてだろう。チビも心配したのではないか。

 チビもかなり元気になった。ほぼ元に戻ったが、顔が少し老けた。というのも、手術後に両目の下にぽこっと膨らみが出来ていた。ただ腫れていてしばらくすると治ると思っていたのだが、医者は、これは歯を抜いた影響でできたもので、ずっとこのままだという。チビの自慢は顔の美形だったのに、これでちょっと美形でなくなった。まあ、とにかく元気になったのだから、仕方がない。

 久しぶりに友人と世の中のこと、老人問題や政治のことなどいろいろしゃべりながらドライブした。最近、こういう話をすることもめったにないので、私などはただ聞き役に回るだけだったが、それにしてもこの世の中どうなるんだろうか。

足行かず足行かずわれら春の道