在中日本人の可能性2008/12/28 22:41


 寒波も過ぎてようやく天気もよくなる。八ヶ岳が白くなり、冬!っていう感じが出てきた。チビは寒がりだが、さすがに柴犬だけあって、寒波であろうと外に出ればぐいぐいと飼い主をひっぱって前に進む。

 年賀状の印刷も終わって郵便局にだしに行く。たぶんみんな同じだと思うが、これだけメールでやりとりしていて、まして、ミクシーなどで近況などがわかるようになっている現在、年賀状を出す意味がだんだんとなくなってきているのではないか。

 私も毎年100枚ほど出しているが、教員だとどうしても枚数が多くなる。これだけの枚数だと印刷というあじけないものになってしまうのはいたしかたない。ただ、年賀状でしか近況を知り得ない人もいるし、ふだんお目にかからない人とのコミュニケーションの貴重な機会でもある。そういう意味で、年賀状というのもありがたいものだと思わないわけではない。

 筆無精の私にとって手紙を書くのは気が重く、贈呈本の礼状などもついつい書きそびれてしまう。できれば年賀状もほんとに少なくしたいのだが、これも私が世間の中にいるということの一つの証のようなものなのだろう。それはそれで私もまだ何とかやってますというメッセージというわけだ。

 昨日、NHKハイビジョンで満州開拓団の引き上げに関するドキュメントをやっていた。再放送だが、見逃していたものである。私の母は満州開拓団の引き上げ者で、少女の時に親と満州に渡り、敗戦時にかなり苦労して引き上げてきた。引き上げの途中両親を亡くしたという。

 この番組で知ったことは、終戦当時の日本政府は満州に残っている150万人の民間の日本人に、現地に定着しろという方針を出していたということ。150万人を日本に帰還させる輸送手段も、また荒廃した日本に受け入れる余裕もなかったというのが理由である。

 ところが、ソ連や中国共産党が留用と称して、現地の民間日本人、特に技術者を徴用した。共産党は国民党との内戦への徴用である。国民党もまた徴用した。これに危機感を抱いたのがアメリカで、ソ連や共産党の発展に日本人の技術が流用されるのを防ぐために、満州に居留している日本人を帰還させる作戦を立てたのである。

 居留日本人は葫蘆島という港へ集められ、そこでアメリカ軍の船で日本に帰還した。葫蘆島まで多くの日本人は命からがら逃げてきた。途中であるいは葫蘆島で多くの者がなくなった。帰還したものは100万人ほど。

 私の母もこの帰還者の一人である。もし帰還していなかったら、私はこの世に存在しなかったことになる。アメリカが帰還作戦を立てなかったら、母は中国で暮らしたろうから、私は生まれてなかったか、あるいは中国人として育っていたのかもしれない。

 それにしてもなぜ数百万人の日本人が満州に渡ったのか。これは日本が発展途上国だったからである。近代以降、欧米以外の国で植民地もしくは占領地を持ったのは日本だけである。アジアに植民地を持ったのは欧米の脅威に対抗するために欧米の植民地政策を模倣したのである。

 が、欧米と決定的に違っていたのは欧米に比べれば日本はまだまだ発展途上国であるということである。つまり植民地を持つ国力もなかったし、その理念も何もなかった。ただ、強い欧米に対抗するために自分より弱い国を併合し自分を強く見せたということである。台湾も朝鮮も日本にとっては経済的な利益よりも国防上の理由によって占領したということらしい。

 実は台湾も朝鮮も植民地政策ではなく日本化政策をとった。対外的には台湾人も朝鮮人も日本人であるとした。こういう同化政策は欧米では植民地に行っていない。イギリスはインド人をイギリス人とみなしていない(例外はアメリカのハワイの合衆国化政策である)。ここいらへんのことは小熊英二『〈日本人〉の境界』に詳しい。この文章もこの本に依拠して書いている。

 要するに、欧米のように植民地を自国の経済利益のために利用するという植民地主義をとれるほど日本は成熟していなかった。植民地というのは、軍事権と政治的支配権である権最高権力者だけを握って、あとは現地の自治にまかせるというものである。イギリスのインド統治がその典型である。これはかなり経済的な統治システムであった。が日本にはこれをやる余裕がなく、台湾と朝鮮は植民地ではなく同化政策をとった。この方式は、経済負担が多く、そして抗日運動を激しくするだけで、実質的には何の益もない政策だった。

 だが傀儡政権による満州国建国によってようやく日本も欧米並みの植民地を持ったということになるが、現実は違った。多くの日本人は貧しかった。だから、満州国に今よりましな生活を求めて大挙して移住したのである。欧米で自国の民を何百万も植民地に移住させた国はない。なぜなら、植民地とは、自国と比べて文明的に劣る野蛮な国であったからである。そんな国に移住することは考えられないことである。

 ところが、日本の貧しい農民にとって、満州は野蛮な地ではなく理想の楽園に見えたのである。それは貧しい農民を抱えていた政府にとっても都合のいい政策だった。満州が理想の地だとして宣伝し、移民による未開地の開拓を進めたのである。が、行ってみると、理想の地などというものはどこにもない。結局、中国人の土地を接収して日本人に与えるという強引なことをやり、結果、土地を奪われた中国人は匪賊となって日本人を襲い、引き上げ時に多くの日本人が殺されたのも強引な移住政策がもたらしたものである。

 満州開拓団の悲劇は、発展途上国が身の程知らずに植民地を持ったことの結末ということになる。欧米のような植民地政策をとればよかったなどというつもりはない。歴史の評価をするつもりはないが、欧米の植民地政策に対抗しようとした日本の過ちは確かだろう。ただ、言えることは、アメリカの帰還作戦がなかったら、150万人の日本人が中国にそのまま定住したはずだということだ。

 少なくとも日本政府の政策はそうだったのだ。そうなったらどうなっていたのか。その方が悲劇だったのか、それともその方が悲劇を防げたのか。わからないが、たぶん差別されながら中国に根付き、かなり苦労したはずだ。そして、私もこの世に誕生していなかったか、それとも今頃在中日本人として生きていたかもしれない。

  年の暮れどこへ行っても年果つる