悲哀の仕事2008/12/04 00:04

 学長が昨日決まった。わが大学はずっと学長代行という形でやってきたのだが、さすがに、こういうイレギュラーな形は良くないということになり、学長を決めるということになった。やはり、学長を決めるというのは大変なことで、私も管理職にあるからいろいろとかかわらざるを得なかったが、何とかレギュラーな学校運営の体制が整いほっとしたというところである。

 授業の準備も大変なのだが、こういう人事の問題もあって、また、わが学科では来年度二人の採用を計画していて、その候補者選考もあり、私はここんとこいろいろと心労が重なる時を過ごしている。

 今日の自己開発トレーニングの授業では、小此木圭吾の『対象喪失』の説明。ストレスによる哀しみから立ち直るプロセスを「悲哀の仕事」というが、悲哀の仕事には、感情の自然な流れに身を任せる事が大事だと説明。下手に逆らって、失ったものを心の中に遺そうとするとずっと哀しみにとらわれて、ストレスから回復できない。

 人の生きる力とは、忘れる力である。どんなに辛い悲しい出来事、失恋とか、肉親の死とか、でも人は必ず忘れることが出来る。心はそういう仕組みになっていて、それが生きる力なのである。ところが、人間は、哀しみを後生大事に心に遺そうとする。実は、それも人間が人間であることの根拠であって、だから、人に哀しみの感情を引き起こす文学作品を書く事ができるのだ。

 とすると、人間は、哀しみを忘れ去ろうとする本能的な力と、哀しみを心に遺そうとするこれまた人間であることを証明する働きとの二つの力に引き裂かれていることになる。この危ういバランスの上で生きている、というのが本当のところだ。

 このバランスを失うと、だいたい失うとは哀しみを遺そうとする側が過剰になってしまうことで、心の病になる。一方、忘却の側に過剰に傾斜すれば、それは自分の心を封印するか鈍感になることで、自分や他者の心に無関心になることだ。これも不自然である。

 泣きなさい、笑いなさい、という歌がある。これは悲哀の仕事のことを歌った歌だ。このように、感情を豊にして自分の哀しみと付き合いながら、その哀しみを克服していくというのが、理想的な悲哀の仕事である。そう解説しながら私自身、泣くこともあまりないし、笑うことも余りないなあ、と思う。そういう意味では私は悲哀の仕事の下手な人間である。

 「自分さがしの心理学」というテキストに載っている、自己分析の心理テストで、学生達のストレス度の平均が、ほとんど健康に害があるという高いレベルであった。みんなかなりストレスを抱えていることが数値に出ているのだが、どう考えても、明るいし、よくしゃべるし、悩んでいるようには見えない。隠れたストレスがあるのか、それとも、いい加減にテストをやった結果なのか、不思議である。どうもこの子達は、私よりはるかに悲哀の仕事が上手なのは確かなようだ。

                         冬ざれも笑いなさあい泣きなさい