紅白を見る2009/01/01 01:25

 いつも年越しは、茅野の柏原村のお寺で除夜の鐘をつくというのが決まりになっていた。小さなお寺だが村の人たちと一緒に焚き火にあたって除夜の鐘をつき、厄除けのお札をもらって帰るのである。

 ところが、今度の年越しは、東京の家でということになった。実家(宇都宮)の母親が入院したため大晦日に急遽見舞いに行くことになったためである。茅野から佐久へ出て高速で藤岡ジャンクションを高崎方面に曲がり北関東自動車道に出る。太田・桐生インターを降り、50号線で佐野まで。そこで東北自動車道に入り宇都宮というコースで、正味3時間半で着いた。北関東自動車道がかなり出来上がっていたせいかかなり早かった。

 母はもう八十を過ぎているので心配だったが、思ったより元気でしっかりしていたので一安心。夕方には宇都宮から東京の自宅へ戻る、という一日であった。

 思いがけず東京で大晦日を過ごすことになった。明日の正月はまた茅野の山小屋へ戻る予定。仕事の資料とかは全部山小屋に置いてあるので戻らないと仕事が出来ないのである。

 昨日から基礎ゼミのテキストを書き始める。授業の受け方とノートの取り方まで進む。正月休みのうちに書き上げなくては。

 E君からアジア民族文化研究の原稿の催促が来ていた。春の大会で私が発表した彝族の祭祀についての報告を私が書く予定になっている。ちょっとまて、この報告はアジア民族研究には書かないという前提で発表をしたのだが、それをE君にきちんと伝えていなかったようだ。いずれにしろ、秋のシンポジウムと夏のワ族神話調査の報告は書かなきゃいけないのだが。

 紅白歌合戦を炬燵に入りながら何となく見ていたのだが、これも初詣と同じで年中行事の祭りのようになっているのがおかしい。今までは他局が視聴率を少しは稼ごうと紅白にいろんな企画をぶつけてきたものだが、今年はほぼあきらめたようで裏番組は見る気のしないものばかりである。国民的年中行事になってしまうとかなわないということだ。

 姜尚中が審査員で出ていて、崖の上のポニョの歌にあわせてあの人形を振っていた時は笑ったが、仕事にあぶれた人も紅白の歌で元気になって欲しいというコメントはいただけなかった。しかしよくもこの暗い政治学者を紅白の審査員に選んだものだとNHKに感心した。

 紅白を見ていて日本の演歌はなかなか滅びないものだといつも感心する。「おふくろさん」を歌った森新一はほとんど絶叫のような歌い方だったが、この歌を歌えてよかったと万感胸にせまる思いだったのか。こんなに力を入れすぎるとかえって歌は届かなくなるのではないかと思うのだが。森新一は歌の前の口上で「歌の力」という言葉を口にした。

 演歌が滅びないのは「歌の力」なのかもしれない。ただ森新一にかつてのような歌の力があるとは思えない。白組のトリは氷川きよしだったが、初めてのトリで感動して泣いていた。歌い終わって今までトリを歌っていた大物演歌歌手が祝福に来ていたが、内心、時代の流れというものを感じていたはずだ。

 氷川きよしには演歌歌手につきものの情念をこぶしにのせてうなる、というところがない。実に軽やかに華やかにこぶしをきかせる。そこが受けているのだろう。大物演歌歌手にはない花がある。

 「情念」をいかにもという感じで伝える演歌の手法では「歌の力」は成立しないということだろう。ジェロの「海雪」もいかにもという演歌だが、黒人が歌うことで逆にそのいかにもらしさが新鮮に見える。歌における「情念」は力を失ったわけではない。ただ、そのいかにも的な伝え方が力を失っただけだということだ。

 森山直太朗の「生きてることが辛いなら」の「生きてることが辛いなら、いっそ小さく死ねばよい」という言葉は物議を醸した詩だったということを知ったが、聞いてみるとそんなに悪い詩ではない。どうせみんな死ぬんだからと続くのだが、逆説的に語っているんだろうとは思う。だが、素直に、辛いんだったら死んだら、というのもありだ。

 一年を通して歌番組を真面目にみるのは紅白だけである。こうやってあれこれ言いたいことを言って見るのも楽しいものである。

                        大晦日親の齢(よわい)を数えけり

よい年でありますように2009/01/02 15:07

みなさんあけましておめでとうございます。

私は一日には山小屋へ戻って参りました。

さあ仕事をしなきゃと思っているのですが、新年早々もう疲れてしましました。

今年はこんな調子で過ぎていきそうです。

 白血病で闘病中の知り合いのブログを読み、知り合いの自分の命を冷静に観察する態度に感動し、私のブログのぬるさが身に沁みました。昔のブログの文章を読むとけっこう世の中に対して鋭いことを言っていたのに、最近、そういうのがなくなってきたようで、人からもそう言われます。

 でも別にいいんです。鋭くなくても。こういう時代、わたしなどより鋭いことを言う人がたくさんいます。世の中の矛盾が鮮明に見えて来たからです。私も鋭いことを言わなくてはなどと思うのはもう卒業して、そろそろ持ち時間の計算もしないと、と思っています。  
 今の持ち時間では出来ることはそんなに多くはないようです。が、がんばれば何とかまとめられそうな本は何冊かはありそうです。今年は無理そうですが、何とか本を出そうかと思ってます。

 今日、二日は、別荘地の新年会でした。この別荘地には定住者が30軒ほどあって自治会を作ってます。つまり一つの村になっていて、その他長期滞在者たちもふくめてオーナー会という組織があり、その親睦会の一つが新年会なのですが、他の別荘地と違って、住民同士の互助会的なネットワークがしっかりしていて、おもしろいところです。

餅つきがあり、こどもたちも餅をついて楽しそうでした。

 定年後に別荘地に定住する人が増え、高齢者率はかなり高いので、こういう互助会のネットワークがあるとみなさん助かります。ただ、別荘地には他の人と関わりたくない人も多くいて、なかなかみんなが参加するというわけにはいかないようですが。

 雪のない暖かい正月ですが、いろんな意味で厳しい世の中になっています。お互い、互助会ではないですが、もう少し助け合うような社会になればいいのにと思うこの頃です。それではみなさん今年がよい年でありますように。

           餅をつく小さな腕を讃えけり

吉本隆明の講演2009/01/06 01:21

 今年の正月は雪のない暖かな正月である。来訪者もなくそれなりに仕事にかかれた正月であった。正月に仕事が出来たことを喜んでしまうのは悲しい話であるが。

 4日E君一家が来訪。一晩泊まっていった。二人の女の子がいて、二人ともとても可愛い。特に下の子は2歳半なので一番かわいらしい頃だろう。知能はうちの犬と同じくらいだから、何をしてもみんなから可愛いと言われる。逆に小学生になったばかりのお姉さんは、そういうときはちょっとおもしろくなさそうな顔をする。明らかに大人たちは自分より妹を注目しているからだ。こうやって世の中は自分中心ではないことを知っていくというわけだ。

 夜、NHKで吉本隆明の講演を特集で放映していた。たぶん、テレビでは初めてではないか。仕掛け人は糸井重里である。吉本は83歳になった。糖尿病であまり目が見えないことは知っていた。言葉も老人らしい発音になっていて、さすがに年をとったなあ、という印象。テーマは「言語芸術論」。

「言語にとって美とは何か」を下敷きにした話であった。要するに芸術的価値とは何かという話で、結論としては経済的な価値とは違うのだということになる。たぶん遺言のような講演なんだろうと思うが、なぜ、言語の芸術的価値を今強調しなければならないのだろう、ということに興味がわいた。

 それはおそらく吉本が徹底してたたいたつもりでいた、マルクス主義芸術論のような機能主義的立場の思想が今隆盛を極めていて、自己表出という言い方で強調していた芸術的価値が顧みられなくなっていることに、危機感を感じているのだろう。

 何となくわからないではない。たぶん今隆盛を極めているのは、資本主義的芸術価値論である。つまり、売れるか売れないか(消費的価値)、というところから芸術性が判断され、それ自体意味のない芸術的価値を評価することが出来なくなっているというのだろう。それはとてもよくわかる気がする。

 言語の根幹は沈黙なのだと言い切るところに、吉本の変わらない思想を感じる。こういう思想は私がかなり影響を受けたところだ。沈黙はきっと売れない。だからそれを価値とする思考をとらないのが現代的な価値論ということになる。

 あと、言葉とは人間と自然の交通路であるという言い方はなかなかおもしろかった。1時間半の番組だったが、思わず見てしまった。

                        一つ家に幼子もいる三が日

眼の中の蚊2009/01/07 00:02

数日前から目の前で蚊のような虫が飛び始めた。はじめはほんとに虫だと思ったが、そうではなく、どうも目の病気らしいことがわかった。飛蚊症(ひぶんしょう)というらしい。生理的な原因と重篤な眼病の場合とがあり、普通は生理的な場合が多く、多くは加齢によるものという。どうも治らないものらしく、なれるしかないという。対策としてはあまりパソコンの画面など見てはいけないとあった。ということは、私の場合パソコンの画面の見過ぎということか。ただ、奥さんは子供の頃から飛蚊症で子供の頃は蚊と遊んでいたという。今の私はとても遊ぶ余裕なんてない。

 ただ、重篤な眼病につながることもあるということなのでとりあえず医者に行かねばならないようだ。年をとるといろいろある。

 今日は和田峠に水を汲みに行く。飲み水はいつもここの和田村の湧き水を使っている。とてもおいしいし、この水は健康にいいと知られていて、遠くから汲みにくる人が多い。癌が治ると信じている人もいる。いついっても必ず水をくみに来る人がいて、しかも水のボトルやタンクをたくさん持ってきている。

 一月に一度は水を汲みに行く。だいたい40リットルくらいタンクにつめて家で毎日飲むのだが、この水は夏一月常温で置いといても悪くならない。この水を飲むと浄水器を使ったとしても水道水の水は飲めなくなる。

 ようやく基礎ゼミのテキストの原稿「レポートの書き方」をほぼ書き終える。だいたい原稿用紙で六十枚くらい書いたか。私は小論文のプロだと自負しているから、書くのにそんなに苦ではなかったが、参考書と違って、教科書の原稿であるからそれなりに責任が伴う。

 書いていて、これは学生向けではなく教員向けに書いているのではないか、と思うようになった。レポートをなぜ書くのかというところで、「レポートを書くということは、学問を通してよりよい社会を作ろうと努力している人たちの一員になること」と書いた。

 自己中心的で社会のことなでどうでもいいと思ってる人はレポートは書けない。だから社会ではレポートを書ける人は書けない人よりも評価される。ということなのだが、そのようなことを書いていて、読ませたい教員がけっこういるなと思った。

 ここまで書くレポートの書き方はたぶんないだろう。その意味で自信はあるが、ただ、他の教員がテキストの文章として評価してくれるかどうか。

 明日帰るが、今度は東京に帰ってまた仕事。たぶん、私の目の中の蚊はこれからずっと飛び続けるに違いない。

             年あらた大地に水を貰いけり

東京モダンを見る2009/01/09 01:09

 6日から8日まで、NHKハイビジョンで外国のドキュメンタリー監督による、日本・日本人を特集したドキュメンタリー作品を3日連続で放映していた。東京モダンというタイトルでそれぞれ二時間番組だったが、これがけっこう面白くついみんな見てしまった。

 二日目の作品は、56歳のナオキというフリーターと29歳の女との同棲生活のドキュメントで、これが一番面白かった。ナオキは山形で、保険の集金のアルバイトをしている。収入は少なく同棲している女性が水商売をしながら何とか生計をたてている。ナオキは、元全共闘の過激派。バブル期は会社の社長で羽振りもよかった。バブル崩壊のあと落ちぶれて離婚もしている。今は、子どもほどの年の女性に助けられて何とか路上生活者にならないですんでいる。身寄りもなく孤独である。

 ナオキは英語が話せる。元左翼らしく弁も立つ。が、あまり真面目に働く男ではない。この俺が日本の貧乏の象徴だといいながら、女に頼って生きている。一方で捨てられたら俺は生きて行けないとも語る。女は精神安定剤や抗鬱剤をのみながら必死に働いている。ういう二人を見ているとやるせなくなるのだが、見ていて何となく笑ってしまうところがおかしい。

 監督の手腕なのだろうが、感じたのは、人は一人では生きていけないということ。どう見ても女はナオキと別れた方がいい。ナオキは女の父親と同じ年である。もっとましな男はいくらでもいるだろうにと思う。

 が、こういう男でも、たぶんましなところがあって、生活はしんどいが別れられないものなのであろう。それは女が一人で生きることの怖さを知り抜いているからで、ナオキもまたそうだ。そういう孤独の怖さを了解した関係は、相手のほんの少しでもましなところを探してそれを口実に一緒にいようとするものである。

 このドキュメントを見て、人と人とがつながる必然のようなものを確認した気がしてほっとさせられた。ナオキというどうしようもない男をちゃんと救う女がいる。それだけで世の中悪くはないものだと思う。

 今日の10時からフジテレビで山田太一脚本のドラマ「ありふれた奇跡」が始まり、これも見たが、ホームで電車に飛び込もうとしていた中年の男を、たまたまその場に居合わせた二人の若い男女が飛びかかって押さえ込む。それで二人の男女は知りあいになるという展開なのだが、後日、中年男は二人に礼を言い、あの時、私はホームから離れて立っていた、どうしてあなたがたは私が自殺すると見抜けたのか、ひょっとするとあなたがたは自殺しようとした経験があるのではないですか、と話す。

 そこで第一回は終わるのだが、今の時代、人と人とが関係づけられていく確かな方法が、自殺の衝動だというメッセージは、なかなかうまいと思う。

 人を救うのは金やモノではなく人でしかないという当たり前な事実が、さすがにこういう不況の時代にはクローズアップされる。悪くないことである。今日のクローズアップ現代では、過疎の地方を助ける支援隊という仕事を紹介していた。過疎の地域のお年寄りを助けたり地域を活性化させるために若者が雇われて支援する、というシステムである。金とモノをつぎ込んで地域振興をやってきた政治が残したものはさらなる過疎、つまり人と人との切断である。ようやく自治体も、金やモノでなく人の支援が必要だと自覚し始めた、と解説があった。これも当然なことだろう。

 派遣社員が仕事を失ったとたん住居もうしない路上生活者になるのは、彼等に返る地方がないからである。かつての期間工は出稼ぎだったし、親がいて実家に帰る事が出来た。失業して生活のあてがなくても、親類縁者だれかがそういうものの面倒をみた。昔は居候という言葉が当たり前のようにあった。

 派遣村の報道を見ていると居候という言葉も死語になり、彼等を受けいれる共同体がもう崩壊したことを知らされる。せめて、ナオキが救われたように、に腐れ縁でいいから、彼等を面倒見る切ない縁があればいいのだが、その縁すらも貴重なものになっているのが、今の社会の現実なのだろう。

 が、見方を変えれば、ようやくわたしたちはより深いところで人とつながる方法が見いだせるようになったとも言える。徹底して孤独になったとき、たぶん強固な縁が生まれる。そうでなければ人間は社会などというものを作ってはこなかった。とっくの昔に滅んでいたと思う。テレビをみながらそんなことを考えたが、おかげて仕事はかなり遅れてしまった。
  
    読み初めや人の孤独と向かいけり

百年後からの批判2009/01/11 11:59

 昨日は、昼から学校の新年会。後援会主催で私は役職なので来賓の一人。水道橋のホテルで毎年恒例の行事である。壇上で鏡開きをさせられた。これも仕事のうちである。不況下の厳しい時代、こういう行事が続けられることは実にめでたい限りである。

 正月の運動不足で少しウェストが太くなったようで、スーツのズボンが窮屈である。それと寒さと、そして新年会でフルコースの料理を食べる。それで持病の腹痛になる。お腹が張って痛くなる。重篤な病気ではない。これも恒例なのである。我慢をして夕方に学校に戻り研究会に顔を出す。若手の研究者中心の研究会なのだが、すでに発表は終わっていた。今日は学会の例会もあったが、新年会と研究会とで出られなかった。 

 大塚英志『公民の民俗学』を読み始める。昨日一時間ほど早くホテルにつきロビーで80ページほど読んだ。近代以前の養子制度の話から貰い子幻想までを扱い、捨て子の習慣とそれを拾って育てるシステムが江戸時代にはあったと論じる。ここから、母性の強調、ひいては伝統の強調などは、近代国家形成によって作られたものにすぎいなと論じていく。

 確かに、母子心中が、近代以降の家長の権威や長子相続を絶対化した家族制度を確立した近代以降の現象であり、かつては家族というありかたにそれほどの血統の幻想はなかったという指摘はその通りである。

 大塚英志の言いたいことは、民俗学で扱う伝統なるものなどそんなに古いものではなく近代以降に形成された産物にすぎないと、権威化された民俗学を批判的に相対化することにある。いわゆるカルスタ的なスタンスなのだが、確かに、こういうこういう相対化は必要だと思う。が、一方ではそろそろ飽きてきたというのも確かだ。

 なぜ飽きてきたかというと、こういうカルスタ的認識方法は、きわめて一元的に現象を裁断してしまうからである。例えば、母子心中は近代以降の現象だということと、近代以前にはなかったということとは違う。しかし、こういう裁断は、近代以前にあり得た母子心中を論じる契機を奪ってしまう。伝統もまた同じである。近代国家の意識形成によって伝統は作られていくというのがわかるが、それ以前に、あるいは国家にかかわりのないところで、伝統という認識方法がなかったとは言えないはずだ。が、それを言えなくしてしまう雰囲気がある。

 こういうカルスタ的一元的論理は楽だし、気持ちがいい。多くの研究者がこれを使いたがるのはよくわかる。しかし、一度裁断したら二度目は当然色褪せる。二度目は、その論理が押し隠した対象の多様性が逆にせりだしてくるからである。  

 こういうカルスタ的方法が教えるのは、今の私たちが現実やこの世界を把握しようと用いている認識の方法や枠組みが、私たちの時代や社会の極めて大きい観念の枠組み、例えば国家や権威ある思想などによって作られたものに過ぎない、と百年後に批判される、ということである。その批判の根拠は、たぶん百年後には、今の時代のわたしたちの認識の方法が無力だったと証明するような歴史的展開(例えば日本の敗戦のような)があるからで、それを根拠に無力だと批判している。

 さて百年後から批判される私たちはどうしたらいいのか。思想とは未来を想定してのものだが、一方では、確実な未来など分からないということも思想にとっては大事だ。絶対にこうなる、こうなるべきという思想は、ハルマゲドンを信じたり、イデオロギーの強制になる。

 大きな観念の枠組みなしに確かに認識の方法を生み出すのは難しいだろう。が、現実の多様さは常に意外性に満ちていて、そういう大きな枠組みによって与えられた言説を飛躍させたりあるいは大きな枠組みでは捉えられない現実を掴むものだ。百年後からはそういうものは見えないかも知れないが、それは見ようしないだけであって、目をこらせばみえるだろう。

 カルスタ的方法とは、実はそういう見えないものを見る方法であるはずでもある。大塚英志の論じた方は、確かにカルスタ的だが、一方で資料を駆使して、現象の多様さを見ようとしているところもある。そこがのところが読んでいて面白い。

                         壇上の翁嫗や鏡割り

男女の違い2009/01/14 10:04

 昨日は会議日。今年最初の会議となる。学長も決まったことだし、わが大学も何とかこの厳しい時代を乗り切っていってくれればいいがと願う。私もそれなりに生活がかかっているので。

 私の属する学科は何とか学生も集まり今の所順調である。学科長として、少しは欲が出て、こうなったら理想の学科を作ろうかなどと思わぬこともない。むろん、私一人では出来ないことだし、教員のモチベーションを高める努力が必要だが、今の所そこまでやる気力がないし、たぶん能力もない。

 理想の学科とは、英語コースなら英語が話せるようになり、日本文学コースでは文章がうまくなり、心理学なら心理の知識に通じるということだが、それだけではつまらない。何のために英語がうまくなりたいのか、何のために文章が上手くなりたいのか、なんのために心理の知識が必要なのか、個人のモチベーションではなく、全体のモチベーションとしてそういう目標が定まると面白いと思う。

 例えば英語コースなら教員も学生も一緒に英語がうまくなってこういうことをやろうぜ、という目標を一つ設定できればいい。日本文学コースも心理学コースも同じだ。心理学コースなら、学生の心の悩みをみんなで研究しようぜ、でもいい。

 つまり教える教えられるという関係でない関係を教員と学生がどう作れるか、という一つの試みである。こういう関係が少しでもあると教員も学生も生き生きとするのではないかと思うのだが。だいたいいつも教える、というのは飽きるのだ。学生だっていつも教えられているのは飽きるだろう。

 というようなことを考えながら、まあ無理か、と思いつつ、今の自分の立場を愉しんでいるというわけです。

 12日の夜、NHKで男女の性差考えるシリーズがあり、興味深く観た。授業で柳田国男の「妹の力」を取り上げていて、女性の力を回復しなければならないと語る柳田の言葉をどう考えるのか、と学生に問いを投げかけているところなのだ。柳田の言う「女性の力」はある意味では非日常的な力とでも言うものだが、そういう非日常性がこの現代社会でどう有効なのか、という問いであるだろう。

 MHKではジェンダー論ではなく、男女の能力の違い身体構造の違いを客観的に把握し、その違いに適応した仕事や教育、あるいは薬などを用いるという取組が今アメリカなどで進んでいることを紹介している。例えば、男女の性格や能力の違いなどを考慮した男女別々の低学年教育が今アメリカで試みられているという。

 男女平等でなくなったというわけではなく、違いが本来あるのにその違いを無視した強引な平等は帰って不幸な結果を招くということに気づき始めたということだ。例えば、薬でも男も女も同じだろうと思っていたものが男女によって副作用に差が出ることがわかってきた。

 差別とした語られてきた男女の役割の違いについても、男女の何万年もの生活の仕方の違いによって生まれていて、その違いを平等という理念で無視したはならないということである。例えば、男は狩に出て獲物を追いかけながら自分の家から離れてしまう。そのとき最短距離で家に帰らないと獲物の肉は腐り、自分も家に帰れなくなる。だから、自分の位置を空間的に把握する力が身についたということらしい。女性は、家の近くの木の実や植物を採集するとき、目印によってその位置を覚える。その覚え方に空間的把握は必要なく、むしろ、目印を言葉で語れればよい。

 だから男は空間的な地図の読み方は得意だが女は不得意だ。だが、目印を言葉で語りながら目的地点に到達する能力は女性が優れていて、逆に男は不得意である。男と女とでは地図の読み方が違うので、女が地図が読めないというのではない、ということらしい。

 そういう違いを把握して役割分担しないと結果的に差別なくならないということであろう。男女の違いを個性として役割分担しながら補いあったほうが、真の意味での平等ということになる、とこの番組は語っているように思える。性差は作られたものだから、そういう性差は無くしてしまえというフェミニズム的主張とは一線を画した、いかにもアメリカ的な合理的で機能主義的男女論だとも言えるが、フェミニズムを推し進めてきたアメリカがここまで来たか、ということを知ってなかなか面白かった。
  
 ひょっとするとこういう時代の流れが女子大の存在価値を見直すことになるかも知れないなどと、思いながらつい観てしまった。
 
      成人の日女ばかりで祝いけり

青い心2009/01/16 00:49

 最近テレビもけっこう面白い。14日日テレの安田講堂攻防戦のドキュメント形式のドラマは、佐々何とかという警察官僚を褒め称えるような作り方で其処が面白くなかったが、まあまあよくできていたのではないか。ヘルメットのセクト名もちゃんとだしていたし、それなりに調べたらしいことはわかる。立て籠もった学生の会話などはいかにも作ったなあという感じだったが。

 わたしは、安田講堂の時はまだ大学生でなく実家でテレビを観ていたほうなので、実際に詳しいことはしらない。その年に大学に入ってから、安田講堂のことはいろいろと聞いた。全共闘運動は安田講堂を境に後退局面に入っていった。その意味では私などは後退局面の活動家だった。

 安田講堂に籠もった一人があの頃は熱に浮かされているような感じで気が付いたら逮捕されていた、というようなことを語っていたが、その感覚はよくわかる。時代の熱気というのは今から思えばすさまじいものだった。あの頃の振る舞いは、青春を振り返るとみっともなくて恥ずかしくなるのと同じで、とてもまともには語れないが、その時は正義だと思ってふるまっていたのは確かだ。革命と言う言葉を何回言ったことやら。革命なんて無理なのは誰だってわかっていたが、とりあえずそう叫ぶことが時代の熱気を共有することだったのだ。

 それにしてももう40年たっているのである。当時の学生はみな定年退職の年齢だ。その40年前の光景がまざまざと蘇るのは、わたしたちの世代の宿命みたいなものだろう。もっとも皆がそうだというわけではないが。

 今日のNHKのハイビジョンで、言葉の起源について考古学や生物学、脳科学という視点から解明する番組をやっていてこれも面白かった。動物レベルの言語からホモサピエンス人間の言語の間にはかなりの飛躍がある。この飛躍の起源をどうやって説明するのか、そこにこの番組の焦点があったが、いろんな説があってかなかな面白かった。

 飛躍説というのではないが、人間の言語の起源を歌とする生物学者の説があって私はこれが一番気に入った。コミュニケーションに歌を用いる、ということだが、小鳥のさえずりも歌としての構造を持っていて、ある程度の複雑なコミュニケーションが可能になるという。歌は、音と音とを区別できること、そしてある法則性によって音が並べられることほ条件とする。その法則性がある意味を構成するのでコミュニケーションが可能となる、というのだ。歌の掛け合いの研究者としてはけっこう面白い説であった。

 もう一つは、言葉がどのような構造を持ったときに言葉は飛躍するのかというシミュレーション実験があって、それは文の再構成にあるという。こういうことだ。青い空、青い川、という文から、青いという概念が成立していることがわかるが、これを見えるものの形容に使っているうちは言語は飛躍しない。ところが、「青い心」と使うと言葉は飛躍の条件を手に入れる、というのである。つまり、それ自体存在しないものを言葉が生み出していくとき、ということである。

 人類が「青い心」とどういうきっかけで言えるようになったのか、その説明は難しいという。偶然説もあり、長い進化のプロセスの結果という説もある。子どもが「青い心」と言い始めるのは、たぶん言葉の遊びからだと思う。言葉を勝手につなぐと一つの新しい意味が生まれる。この発見の面白さというのは、人類の進化の中にもあったのではないか。それは好奇心というものかも知れない。好奇心は未知のものに近づこうとするリスキーな態度のことだが、この態度があってこそ、「青い心」が生まれ、その「青い心」に見合う心というものが人間には見えるようになったのではないか。そんなことを考えたのだが、どうも仕事もしないでテレビばかり観ていることがばれてしまったようだ。

                   猿回し猿は言葉を封印す

男は消滅する2009/01/19 01:29

 昨日今日とセンター試験。私は昨日がセンター試験の担当で仕事。毎年の事だがいつも緊張する。今年も1分早く終えたということで、再試験になったと新聞に出た。1分ずれただけで新聞に出る。受験生にしてみれば1分でも許せないというのはわかるが、新聞にまで出すほどの事件かよ!と言いたくはなる。とにかくほんの些細なミスでも大きな出来事のように扱うのがセンター試験なので、現場ではいつも大変である。

 昨日は仕事が終わってから夕方に南部線の加地駅の駅前にあるレストランに奥さんと行く。友人のOさんに、近くに引っ越してきたのだから来ないかと招待されたのである。そこは、地域のフリースクールや障害者のための店だったのだが、レストランをはじめたということで、Oさんがそこにかかわっていて、まあ物見遊山で出かけたのである。

 Oさんは兵庫の出石町出身で、親の介護で一年の半分は帰郷しているそうだが、最近、その出石の環境保全と観光に関わっていて、まったくいろんなことにかかわる人なのだが、その出石は、コウノトリの生息地で野生のコウノトリはもういなくて放鳥したコウノトリがいるそうなのだが、それで今環境に力を入れていて、そこで獲れたお米の銘柄に「コウノトリのお米」というのがあって、そのレストランでそのお米で炊いたおにぎりがふるまわれた。これがたいそうおいしかった。

 但馬の地酒「香住鶴」が出されたがこれもうまかった。実は、この地酒は成城学園駅前にある何とか三郎という名前の酒店で買えるものだそうで、その酒屋、いつも前を通っていたが入ったことはなかったのだが、今度行ってみることにした。

 世間にはどうやって暮らしているのかよく分からないがとにかく定職につかずお金にはならないようなことばかりを楽しそうにやって生きている人がいて、夏目漱石は高等遊民なんて呼んでいたが、Oさんもそういう人の一人である。人と知り合うことが好きな人で、実にいろんな人と知り合っている。私との付き合いも17、8年になる。最近は時々何年かぶりで会う程度だが、その都度いろんな人を紹介してもらうので、こちらもそれだけで楽しくなるのである。

 ワープロを打ちすぎたせいかまた首の頸椎が痛くなって、気分の悪くなる日々が続く。これも時々出る。

 18日、NHKの特番「男と女」シリーズ最終回。男は将来消滅するというなかなか刺激的な内容であった。男を決定づけるY染色体は、退化の過程にあって、このままだとどんなに遅くても五百万年後には消滅するという。つまり、生物学的な男はいなくなる。が、その前にジェンダーとしての男などとっくにいなくなるだろうと思うが。

 男がいなくなると子どもは生まれなくなるということだが、生殖技術の発達はそれを簡単に乗り越えるだろう。クローン技術だってある。

 橋爪大三郎の「現代思想は今何を考えればいいのか」という本を以前よんだことがあって、そこに出産革命を通して未来が見えてくるというのがあって「無出産社会へ」という章がある。そこに、人工子宮で子どもを生めば女性は出産から解放されるとある。それが無理なら豚の子宮は人間に近いから豚の子宮を使って人間の子どもを代理出産させればいいと真面目に書いている。そうやってやがて無出産社会が到来し、人間そのものが変革していくと言う。

 出産を人間という存在にとっての負担だとみなす思想があれば、こういう発想は当然出てくるだろう。だが、生物学的にも無出産社会が到来とするというのがNHKの番組のテーマで、さすがにこれには驚いた。人間という概念自体、それほどの確実性も根拠もないということだが、それでも、死が確実であるからこそ生があって、そこに悲喜こもごもの生き方が成立するように、出産という確実さがあるから、生きていることも喜怒哀楽もまたある、ということではないか。そういう確実さに支えられて私たちの基本的な概念はあるのだが、その確実さを五百万年単位で疑って、今の私たちの確実さを根拠無きものにするのは行き過ぎだろう。

 だが、生殖科学の発達は、ひょっとすると生きるとか死ぬという私たちの確実さを根底からひっくり返しかねない。原爆がこの世の生と死を全部リセットする力を持つようにである。行き過ぎてしまうのもまた人間であるとすれば、人間というのはまったく扱いにくい存在である。

                     そろそろと日脚伸ぶごと生きている

オバマの就任演説2009/01/22 00:54

 夜中にオバマ大統領の就任演説を聴きながら、言語パフォーマンスが日本人となぜこうも違うのかと考えてしまった。日本語でこういう演説をするとどうしてもこんなにかっこよくならないのは、何故だろう。話す内容の問題なのか、それても、話し方の問題なのか、それても言語そのものの問題なのか。

 プレゼンテーションの原稿を書いていて、プレゼンの最も優れた例がオバマの演説だというのがよくわかる。プレゼンの基本は、聴衆を見て原稿を読まないことだし、明瞭な口調で明確な分かりやすい内容で、聴衆の反応を確かめながら適宜間をおいて、大事なところは強い口調で、そして、何よりも、自信と熱意を見せること。こういう要素を全てオバマは持っている。ある意味でスピーチの天才と言っていいだろう。

 こういうスピーチの天才である日本人というのを考えていくと、思い浮かばない。よく宗教家で信者をだまして金儲けする教組がいるが、どもそういう人が思い浮かんでしまう。小泉首相は演説がうまかったというが、あれはワンフレーズ演説で長い内容での演説で聴衆を魅了したわけではない。

 演説は聴衆との間にある種の信頼関係や思想上の協同関係を作るものだろう。たとえば、聴衆を戦争せざるを得ないように導く説得力というものが、すぐれた演説(プレゼン)になる。プレゼンなしでは選挙に勝てないアメリカの大統領も、プレゼンで大衆を惹きつけたヒットラーも、その意味で優れた演説家であり、またそういう演説家でなければ政治家は務まらないと言うことである。

 日本は、演説が下手でも政治家として失格ではない。その理由は、国民を戦争に同意させるような民意の形成は、政治家の演説を必要としないからだ。むろんそれなりのプロパガンダはあるとして、何となくそうせざるを得ないという雰囲気が徐々に形成されて、いつのまにかそうなってしまって逆らえない、というように民意が形成される。

 つまり、日本の政治家は国民に向かって、こうすべきだと余り言わない。こうしないとこうなってしまう、というようにある種の雰囲気作りの発言を繰り返す。だから、今度の消費税のことも、やむを得ないという雰囲気をどう作るかという発言だらけで、オバマのように、国民をリードしていくという立場からものを言わない。

 これは共同体の合意形成文化がまだ残っているからで、ある意味では日本の伝統文化だと言っていいだろう。わたしはこれを必ずしも悪いとは思わないが、ただ、オバマのようなかっこよさはないなと思うのである。

 悪いと思わないというのは、例えば、オバマのあの説得力で、国民よ戦争しよう!と演説されたら、みんな戦争に走るだろう。そういう怖さがああいうプレゼンにはあるのである。麻生首相のいいところは、麻生首相がそう言ったって、誰も馬鹿にして言うことを聞かないところである。政治家としてはだめかも知れないがそれはそれで全部悪いわけではないのだ。(むろん日本の合意形成が平和的だということではない。日本人はオバマになれないということを言いたいだけ) 
 
 オバマの演説から彼の誠実さはよく伝わった。プレゼンで大事なのはその人柄をどう出すかである。ブッシュは悪く言われたがその憎めない人柄だけは愛された。アメリカ人は愛嬌はあるが政治家の器でなかった大統領に懲りて、誠実な人柄でいかにも政治家らしいスピーチのうまい大統領を選んだと言うことだ。

 マスコミはオバマを誉めみんな日本と比べてうらやましいと評しているが、私はかならずしもそうは思わない。あのかっこよさはやっぱり日本の伝統文化には合わない気がするのだ。

                        新しき大統領出で厄落とし