シンポジウムが終わる2007/10/28 00:27

 今日はアジア民族文化学会の秋季大会。「アジアの歌の音数律」というテーマでのシンポジウムである。天候のためもあったのか、あるいはテーマがややマニアックなためか、参加人数はそれほど多くはなかったが、でも、パネラーの充実した発表もあって、なかなかいいシンポジウムになった。企画者としてホッとした。

 パネラーの西條氏は、和歌の音数律は、歌われるのではなく詠まれる(朗読)されるようになったとき、そこに等時拍のリズムが生まれそのリズムの支配下で無意識に生まれたものではないかと述べる。唐詩の松原氏は、唐詩も等時拍のリズムを持ち、五言、七言は、最後に休止拍があると述べる。この休止拍が大事で、これがあるために、余韻が残り、次への期待を呼び起こすのだという。また、日本の和歌と漢詩とは似ているようだが、和歌は音節の切り方が漢詩ほど厳密ではない。影響関係はないと考えていいのでないかと言う。

 波照間氏は、南島歌謡の音数律が実は多様であることし、琉歌の八音六音の音数律は、すでに「おもろそうし」にも見られるものであり、その成立についてはこれから考えていく必要があると述べる。アジアの音数律という観点からは異質ではないかとも言う。遠藤耕太郎は、少数民族の歌謡は基本的に五音七音を目指しているが、それは、かつて漢字で自民族語の歌を記録したことがあり、そういう漢詩文化との交流の中で、五音七音という音数律を指向していったのではないかと述べる。さらに歌う歌であることは、五音七音を指向するという面もあると述べる。

 ざっとまとめたが、音数律は言語が違っても共通するということはわかったが、それを説明する論理は今のところないということだ。今回取り上げた少数民族の歌はそれほど多くはない。この数を増やしていって、漢詩との影響の有無や、それぞれの音数律の論理を見ていく必要がある。アイヌや、中国東北部の音数律も取り上げる必要がある。音楽との関係も論じなければならない。

 ということで来年の秋にまた続編をやることにした。来年は企画に悩む必要はないわけだ。それだけでも少しホッとした。

         行秋や熱く語りて帰りけり