苦行が続く2007/11/01 01:54

ここ数日、寝る時間があまりない。といってもどうにか5時間は確保しているが、さすがにしんどい。みんなからかなり疲れた顔をしていると会う度に言われている。

 理由は、仕事がとにかく集中していて、雑務と授業準備と論文を書くのと、それから、課外講習の万葉講座を引き受けてしまっていて、それが木曜なのと、そんなこんなで大変なのです。

 この調子だと、管理職は来年は辞めにしないと身体が持たない。が、選挙で決まるので、こちらが辞めたいと言ってもそう簡単には辞められない。何か不祥事をしでかすしかない。首にならない程度に。そういう教員は周りにけっこういるのだが、自分がやるとなると、性格上できない。その性格が禍の原因なのだが今更変えられるはずもない。

 最近の癒しは、卒業した学生が来てくれて食事に行こうと誘ってくれたこと。癒しはこれだけで後は苦行ばかりの毎日である。

 後10日はこの状態が続く。とりあえずは、後10日を倒れないように頑張らなくては。

     やれやれ苦行ばかりさ秋の暮れ

薪割り2007/11/03 01:31

木曜の夜に山小屋に来て、そのままばたんと寝て、今日は一日論文の執筆。との予定だったが、午前中は、山小屋の冬支度で薪割りをしなければならなく、薪割りである。が、何も、斧を振り下ろして薪割りをするわけではなく、油圧式の薪割り機があるので、それを使って割っていくのである。

細い枝の切断や、長さを揃えるためのカットは、電動鋸やチェンソーを使う。それなりに機械化されているのである。むろん、気分によっては斧を使うこともあるが、そんな余裕はないので、機械を使って何日分かの薪を用意した。かなり重たい薪を運んだせいで腰が痛くなった。

気分転換にはなったとは思う。午後から資料などを読み構想を練る。といっても構想はだいたいは出来ているので、あとはどう具体化していくかだけである。でなければ締め切りを10日に控えて今頃書き出しはしない。『文学』の座談会で語ったり考えてきたことを、整理して論にするつもりだが、それだけでは面白くないので、より大きな展望に従って書くつもりだ。私の取り柄は大風呂敷を広げてしまうところにあるので、日本の和歌の抒情論を書くつもりで書いてみたい。

明日は、古代の学会の会合がある。論を書かなきゃいけないのだが、(実は、これでもあせっているのです)。顔を出す約束なので、出かけるつもりだが、用がおわったらすぐに帰って論を書かなきゃ。

周囲の山はかなり葉が散っていて、紅葉というよりは枯れ山に近くなっている。紅葉時は見逃した。だいたい、枯れ野や枯れ山になってからこちらへ来る。季節の変わり目がもっともはっきり見える時期である。

       見渡せば枯葉枯葉さ午後の杜

寄り合い2007/11/05 10:45

 ここんとこめいっぱいで、さすがにブログを書く余裕がない。ただ、論文の執筆は、何とか予定通りには進んでいる。この先どうなるかわからないが。ここ一週間が勝負といったところだ。

 昨日の夜山小屋から帰ってきたが、さすがに高速は渋滞していた。一日、論文を書いていて、どうせ混むだろうと7時過ぎに出発したのだが、夜の10時すぎても関越は25キロの渋滞である。行楽客がほとんどだろうが行楽とは帰りは行苦になる。

 でがけに小沢代表の辞任のニュース。この人はなにを考えているのかよくわからない。あせりがあるようだ。年齢や、健康や、民主党の内部事情をいろいろと考慮すれば、自分が政治家を志した夢そのものが果たせないまま終わっていくのではと、考えたのだろう。

 政治とは人を動かすことである。別の言い方をすれば人の運命を支配する権力を持つことである。その権力を否定しながら人を動かす革命の方法を若いときは思い描いた。そんなにうまくいかないことは身にしみてわかった。

 小沢一郎は嫌いではないのは、この人は権力欲があまりないからだが、それは、政治家としてはマイナスだろう。今度の辞任劇も権力欲よりも持論の政策実現の可能性を優先させたように見える。権力を持とうとすれば、人に担がれる基盤を優先させるはずだから、捨て身で大連合などという戦略はとらないだろう。

 いろんな論評があったが日本の政党政治の未熟さというのが一番当たっている。一党独裁支配に近い戦後民主政治の弊害だろうが、別な見方をすれば、トップダウン型がボトムアップ型の合意政治に敗れたとする見方も出来る。

 グローバル化した政治状況で素早い意志決定が問われる現代では、ボトムアップ型の日本的合意形成は時間がかかりすぎて対応できない。そこでトップダウン型が指向されたのだが、小泉ではうまくいったが、安倍で失敗した。福田首相はボトムアップ型だから小沢一郎を利用しようとしたのだが、やはり上手くいかなかった。小泉は例外であり、日本ではなかなかトップダウンは上手くいかないのである。

 小泉がうまくいったのは、主張が明確でその主張以外に邪心がなかったからだ。靖国参拝は意地みたいなものだが、別にナショナリズムをあおったわけでもない。権力こだわらないことも最初から示していた。日本が失われた10年のまっただ中であったことも幸いした。

 おそらくはまだまだ日本でのトップダウン型政治は無理なのだろうと思う。多少時間がかかっても合意政治でやっていくのが無難だというわけだ。日本の合意形成は村の「寄り合い」の伝統を受けつぐ。無駄に思われるほど時間はかかるが、そこそこ無理のない結論に落ち着く。緊急課題の対応に問題があるとしても、格差を一気に広げるようなリスクを伴う決断はしない。リーダーはいつもリーダーで、反対意見を言う者はいつも反対意見を言う。それぞれのスタンスは変わらないから本当の意味での論争にはならない。一応皆が一通りの意見を言って、それを皆が聞いて、丁度いいところ辺りで決着をするというものである。

 日本の国会の議論そのものがこういう「寄り合い」である。小沢一郎はそれに我慢がならなくなったというわけだ。こういう「寄り合い」では、政権交代はまずないからである。

 政局もおもしろいが、私はそれどころではない。また地獄の一週間が始まる。

         神無月わいわいがやがや何処へ行く

投稿論文2007/11/07 00:42

 勤め先で行う健康診断をしなかったので、今年中に何処かで人間ドックに入らないといけないのだが、さすがにこの時期になると予約でいっぱいである。私の場合、三ヶ月に一度は痛風と血圧で医者に行って薬をもらいついでに血液検査を受けているので、行く必要もないとは思うのだが、規則で行かないとだめらしい。面倒なことである。

 相変わらず、血圧はやや高めでコレステロールも高い。典型的なメタボリックである。原因は運動不足。肉体労働向きの私の身体は、今の職業に合わないのである。運動したいが、何せ、家に帰れば論文書かなきゃいけないし、ほとんど運動する機会がない。駅前のスポーツクラブに入会に二度入会したが、いずれも忙しくて行かなくなり退会した。

 先週の課外講習の万葉集講座の受講生は一桁の数だが、ほとんど二部の学生で、年齢も私とそれほど違わないおばさんたちであった。みんな顔見知りでほっとした。若い人がいないというのも寂しいが、二部の学生は熱心でよく勉強するから、むしろ私としてはこっちの方がいい。それにしても、みなさん元気がいい。羨ましい限りである。

 論の方は今のところ何とか進んでいる。抒情歌の成立を貨幣と商品という喩えで説明づけようとする、おそらくは誰もが思いつかないような論である。一つ間違うとトンデモな論になる可能性もあるが、上手く行けば面白がってもらえるだろう。新しいアイデアで書いている時は、疲れていても楽しいので何とか気力が持つ。そうでないときは地獄である。

 先週の土曜に学会の編集会議があり、若い人の投稿論文の審査をした。不可の論もあった。つい私は自分の投稿論文のことを思い出した。私は考えてみれば投稿論文というのは1本しか書いていないのではないか。私はかなりの分量の論を書いているが、その一本を除けば、全部審査のない紀要かあるいは依頼原稿である。その一本は掲載されたので、落とされた経験がない。楽をしてきたなあと思う。もっとたくさんの投稿論文を書いて、自分の研究テーマをこつこつと積み上げたら、今頃はどうなっていたろう。

 が、それはなかったろう。私が投稿論文を書かなかったのは、何処かで研究者になりたくなかったからだ。評論の文章ばかりを書いてきたのもそうだ。その傾向はいまだ続いている。だが、人からは研究者と見られているのでそれを裏切らないように仕事はしている。頼まれた原稿は断らない(断る時もある)。そうやっていろいろ右往左往しながら仕事をこなして、私は、きっと人生の落としどころを捜しているらしい。うまい落としどころが見つかるといいのだが。

                こつこつと十一月を生きている

ケータイ小説2007/11/09 17:03

昨日からやや風邪気味。といっても疲れて熱が出た程度で、その熱もたいしたことはない。論文を書き始めると睡眠不足でこういう状態になる。10月にもやはり熱を出した。ただ、だるいことはだるい。だが勤めを休んだり論文がかけないほどではない。そこが神の過酷な試練というやつで、無理はしないでいいから仕事だけはしろというサインである。神様は無茶なのである。

昨日は10月の中頃山小屋に来た連中が、収穫した山葡萄を発酵させてワインにしたというので勤めの帰りによって試飲した。これがなかなかうまかった。上等のワインの味がした。ペットボトルに入れて家に持ち帰って、おいうまいぞと言って奥さんに飲ましたら、何これまずい!という反応。どうしたのだろうと色を見たら色が変わっているし、味も酸っぱくなっている。どうも、鞄に入れて揺らしながら持ってきたために、下に溜まっていた澱とが混ざってしまったのと、発酵が進みすぎたのが原因かも知れない。ワインというのはなかなか微妙で繊細なものである。

昨日、ケータイ小説「恋空」を読了。学生とケータイ小説について語り合う必要上、読んでみた。長かった。上下巻で合わせて六百ページある。が、行き帰りの通勤で二日間で読み終えた。95%が会話。残りはモノローグによる地の文。要するに会話だけで物語が進行していくのである。それも、ほとんどが少女漫画の会話のようであり、あるいは女子高生のケータイでやりとりされるメールに似た会話(絵文字つき)が延々と続くのである。

お話は、女子高生から大学生にになっていく女の子の恋愛物語だが、純愛ものだが、肉体関係は日常的、レイプ、流産、失恋、三角関係とか、とにかくこれでもかというほどに主人公は傷ついてくのだが、不思議に、人格は変わらないし、非行にも走らないし、落ち込まない。このしたたかさというかあっけらかんさは、見習うべきものがある。

最初の恋人と別れ、易しいものわかりのいい恋人と付き合うが、最初の恋人が癌だということがわかる。最初の恋人のことが好きだということがわかり元の恋人のところに戻るが彼は死んでしまう、というおきまりの物語で、何で都合良く十七歳の男の子が癌になるんだと怒ってはいけない。この小説はとりあえず実話だと言っているのである。

こういう小説もありだなという気はした。面白いのは、この延々と続く会話には内面というものが見事にない。だから、人間というものが抱えている複雑さや不安といったものは見事に欠落している。が、それでも、読んでいくうちに登場人物たちに同一化していく気分になるのは、そこには、現在という時間しかないある切実な感覚が描かれているからだと思う。

時間のない文体というものを書くとしたらこう書けばいいのである。つまりケータイで交わされる他愛のない絵文字入りの会話をえんえんと書けばいいのである。そこには、悲しい程に今という時間しかないのである。そのふくらみのなさは、主人公達の刹那的な生き方を象徴している。つまり、恋愛をしているときは、彼等の世界は百%恋愛であって、それ以外にどんな世界も雑音もない。それは見事な程である。だから、切実なのだ。だから、レイプされても、ヤンキーのように「俺の女に手を出すな」などというセリフが出てきても、純愛なのである。

私が感心したのは、この恋愛しかないという病的なほどの切なさであって、それ以外にはなかった。同世代の女子高生が夢中になって読んだというのもよくわかる。推薦入試の面接で、ケータイ小説を読んでいるという受験生が最後は死んじゃうのでそこが嫌いだと語っていたが、みんなよく分かっている。現在でしかない文体と恋愛しかないこの世の世界、この切なさを共感しているのであろう。

さて、何とか四十枚の論は書き上げた。熱と引き替えであったが。ただ、今年はまたあと二本論を書かなきゃいけないのだが、勤め先の紀要論文に穴があいたので何か書いてくれないかと頼まれた。穴埋め原稿というのは以前にも書いたことがある。私は重宝がられるのだ。公に発表していない論がないわけではない。捜してみると答えておいた。また仕事が増えそうである。

        わが犬も背中を振るう初時雨

バベルを観る2007/11/11 01:00

今日40枚の原稿を書き上げて郵送。データはメールで送る。記紀歌謡から万葉の和歌、そして万葉の和歌の展開を、物々交換、貨幣経済、マネーゲームという喩えで論じていくもので、書いていて楽しかった。トンでも論になる可能性はあるが、こういうのが一本あってもいいじゃないかと思う。

熱は下がったが、今度は首が痛くなってきた。ワープロの打ちすぎで、首の頸椎に負担がかかったらしい。これも持病である。首をうつむき加減にして長時間キーボードに向かっているので、むち打ちと同じ症状が出る。これがけっこう辛い。

DVDで「バベル」を観る。痛ましい映画であった。菊地凛子が演じていた聾唖の女子高生は痛ましくて見ていられない。アメリカ人を撃ってしまったモロッコ人の兄弟も痛ましい。アメリカ人の子供面倒を見ていたメキシコ人のベビーシッターもまた痛ましい。

こういう映画はあまり好きではない。話題になったから観たが、こういう痛ましさを見せつけられて感動するほど、私は高尚でも傲慢でもない。映画のメッセージはよく伝わった。痛みを抱えている人間、社会の底辺で痛みを抱えざるを得ない人間、はからずも痛みに出会ってしまう人間、世界はみんなこの痛みというところでつながっているということなのだ。

最近こういう映画をみるほどのタフさがなくなってきた。もともと現実を直視する映画よりは、現実を回避する映画の方が好きなのである。こういう他者の痛みを受けいれるよう強制する映画は敬遠する傾向がある。痛ましいのは自分のほうなのに、なんで人の痛ましさを直視しなきゃならねえんだという自己中心的な所も若いときにはあった。そういうところはまだ残っているかなとは思う。

つまり、身につまされるという言い方で言えば身につまされすぎるのだ。だから見ていて辛くなる映画は苦手なのである。それでも見るのは、こういう話題性と芸術性の高い映画は観ておかないとまずいという強迫観念があるからである。こういう私は充分に痛ましい。それにしても菊地凛子の演技は、目を背けたくなるほどたいしたものであった。

          痛ましい映画見る日は冬めきて

そろそろ…2007/11/12 10:09

 むち打ち症の症状が出始め、気分が悪い。なるべく下を向かないように、家に居るときは、空気でふくらませる首巻き用の枕を常時首につけておくことにした。これをつけると首をあまり上下に曲げなくてすむのである。

 ほんとはワープロを打ってはいけないのだが、授業の準備もあり、そういうわけにもいかない。臨時に入った紀要の穴埋め原稿も書かなきゃいけない。いろいろと書かなきゃいけないことがたくさんある。つくづく、私は文章を書いて生きている人間であることを痛感した。その文章を書けなくなったら、私は引退ということである。それはとても楽なことだろうが、同時に、寂しい話である。

 そうなるにはまだ早いので、とりあえずは早く首をなおさないと。

              冬の蚊や満身創痍で飛び立ちぬ

アボガド料理2007/11/14 00:38

首の調子はまあまあといったところ。職業病でしかもその職業を辞めるわけにはいかないので、簡単には治らない。だましだまし付き合っていくしかない。

今日は会議日で朝から夕方までうんざりするほどの会議だ。来週から始まる公募推薦や指定校推薦の応募人数のデータが入ってくる。おかげさまでわが学科は順調である。短大は6割が定員割れを起こしているが、うちはむしろ逆の現象で、入学数はここ数年増えている。ただ、楽観視はしていられない。今年の出生者数は108万だという。現在の18歳の人数は確か130万弱であるから、18年後には確実にそこまで落ちるわけである。

短大という教育機関がどこまで持つのかそれも分からない。が、そうであっても、わが短大が現在必要とされているのは確かだ。とりあえず、短大の上位の中の上位に位置するという評価は得ている。最後の短大を目指すのだといつも言っているのだが、どうやら最後の短大になったようである。が、問題はその最後がいつかである。そう簡単に来てもらっては困る。しぶとく生き残るつもりでいる。

会議の合間に授業の準備でワープロに向かう。首が痛くなってきた。授業の感想や質問を集めて次の授業にその中のいくつかを文章化して、その答えや、学生の感想に対する私の感想やら授業で言いたかったことなどをワープロで打って、それを印刷し次の授業の前に配るのである。講義科目では授業中に対話することは難しいので紙を通して対話しているというわけだ。やり始めて後悔した。けっこう大変なのである。何せ三つの授業でやっているから。

夕方卒業生たち5人と神保町のアボガドの料理の店に行く。二年前の卒業生で、編入して今学部の四年生もいる。みんなとは久しぶりである。懐かしい顔で2年前の授業のことやら遠野に合宿で行ったことやら思い起こしたのだが、何人かは顔は分かるが名前が出てこない。最近よく名前が出てこない。特に私は名前を覚えるのが苦手で、これでよく教師をやっているものだとあきれているくらいだ。これも老化である。

いろいろと話が盛り上がった。アボガドの料理も悪くはない。ここのところ辛いことばかりで、今日は久しぶりに楽しく一日を終えることが出来た。 

            教え子とアボガドを喰う冬日和

久しぶりに思想など語る2007/11/15 00:45

非常勤で来ているU先生からお誘いがあり、5限の授業の後すずらん通りの揚子江飯店に行く。どうも二日続けての外食で、実は、金曜日に人間ドックに行くことになっているのだが、心配である。またコレステロールが上がるのではないか。

5限の授業は上手くいかなかった。プリントを何枚か配って説明をして、ビデオを見せるというやりかたをしたが、ノートを取るような機会がなかったので、かなり寝てしまった。反省である。こちらのしゃべりだけでついてくると思うのは幻想であって、やはり、そこはノートを取らせるとか、飽きさせない工夫をしないと難しい。この歳になってまだうまく授業が出来ないのは、歯がゆい限りだが、こういう反省を繰り返すしかないののである。だいたいいろんなことを知ってもらおうと思って内容を詰め込みすぎるきらいがある。もっとシンプルに体系づけて、資料も多くしないこと、という原則はわかっているのだが、あれもこれもとなってしまう。困ったものである。

Uさんは大手出版社の編集をやっていた方で、今は文章表現を教えていただいている。60年安保の世代で、70年安保世代の私とは10歳ほど違う。その時代の激動期を潜ってきた人らしく、話はいつの間にか革命のことになった。革命の理念をみんな忘れているのではないか、と彼は理想主義者のように語り始めたので、その理想主義そのものが、問題なので、生活者のリアルな現実を失った理想主義は結局失敗するだけではないですか、と言うと、それは、この金儲け主義の世俗を肯定するこにならないか、と反論してくる。久しぶりに、こういう理想主義の人と話をした。その意味ではとても面白かった。

世俗を否定する理想主義は結局原理主義になり、粛正主義になり、自爆するか、結局組織を維持するだけの思想に堕する、というのが20世紀の教訓だった。理想主義は、ある段階で世俗に対して絶望し世俗を憎み始める。そうなると、他者との関係のなかでしか思想とは動かないものだという基本的な原理を失ってしまう。自己の内部で完結した思想だけで動き始める。それは純粋かも知れないが、純粋なのは一面で、実は、冷たい打算的な世俗の論理を隠蔽した純粋さでしかない。純粋な特攻も自爆テロも、純粋な若者を組織し、攻撃目標を現実の政治的な目的によって決め、命を捨てさせるシステムがかならずある。そういう冷たい世俗的システムの上に純粋さは成立するのである。

Uさんの苛立ちはわからないではなかった。Uさんはまだまだ青年であると思った。それはたいしたものだと思う。私の方がずっと世俗的だし年取っている。が、人間の世俗的な欲望を何処かで肯定しながら、それを克服する困難に耐えなければ人を動かす思想など構築出来はしない、というのが私の信念である。久しぶりに思想などと言うことを語った一日であった。

           酒飲みて語る思想や冬日和

ケータイ小説を語る2007/11/15 23:51

今日は朝一限目から5限目までめまぐるしい一日であった。昨日泊まるつもりであったが、いつもの宿が予約で泊まれず、仕方なく、今朝奥さんに川越市駅まで車で送ってもらい、有楽町線の始発の電車に乗った。そうしないと朝のラッシュアワーの中を一時間立ちっぱなしになる。一時間はさすがにきつい。

朝は読書室の委員たちとケータイ小説についての座談会であった。私が学生に意見を聞くというやり方で進んだ。みんなの意見は、面白くない、抵抗感がある、一時的ではないか、薄っぺらい、とか結構否定的な意見が多かった。意外であった。世間では女子高生の間で圧倒的に読まれている、ということを聞いていたので、我が文科の学生たちは、けっこうまともじゃんと思った。

が、これじゃ、座談会が盛り上がらない。何かいいとこないかと聞いていくのだが、あまり芳しい答えは返ってこない。私は「恋空」の印象を話し、ほとんど会話で、しかも、こういう100%恋愛しかない会話の世界って、けっこう切実感がないか、と言うが、みんなはあまり同意しない。やっぱり、みんなそれなりにいろんな体験をしいろんな事を考えてるんだなあ、ということか。ノンフィクションのような語り口で、あり得ないような恋愛のお話を一方的にされても、感情移入なんてとてもできないということらしい。

それにしても、それなら何でケータイ小説がこんなに売れてるんだろう。世間にはまともな奴が少ないのか。たぶん、読書委員の「読む」というハードルと、ケータイ小説をよく読む層の「読む」ハードルの高さが違うのだろうと思う。とても低いのだ。この低さは、文学を読むというレベルではなくて、テレビドラマを見るような読むに近いのではないか。映像化できさえすれば文体なんて必要ないといった、感じで会話が続くのである。

その意味では、見終わればすぐに忘れてしまうということなのか。ケーキを食べながらの座談会であったが、なかなか面白かった。

前学長のN先生から電話がある。いよいよ住まいを引き払ってフランスに移ってしまうらしい。セルビアの大学に日本語学科を作るんで本が必要だと言っていた。もう七十代半ばだろうに、まだまだ元気な人である。

夕方は課外講座で万葉集の講義。額田王を説明。終わってから、非常勤の先生と来年のことなどを打ち合わせて、結局学校を出たのが八時である。

                  凩も背中を押すや帰り人