初仕事なのだが2007/01/04 23:54

 今日から真面目に仕事をしようと思ったのだが、午後に知り合いの食事会に呼ばれて結局は夕方まで。イ族関係の資料や、去年の三月に調査した火祭りの記録などを昨日あたりから整理し始め、今日集中してやろうと思ったのだが、そうはうまくはいかない。

 どうも集中できないので『わが高原霧ヶ峰』(手塚宗求著 山と渓谷社)を半分ほど読み、それから、奥さんが買ったマンガ『西洋骨董洋菓子店1』(よしながふみ)を読んだ。

 『わが高原霧ヶ峰』は車山肩にあるコロボックル・ヒュッテの主人によるエッセイである。いわば霧ヶ峰の半世紀にわたる記録や車山や霧ヶ峰の地形などについて書かれていて、なかなか面白い。

 霧ヶ峰一帯は現在草原になっているが、実は、これは江戸時代あたりから地元の農民が牧草や堆肥のための草刈り場として、何度も火入れを行った結果森林が失われたのだという。それでようやく合点がいった。車山一帯はかつては針葉樹の森だったのだ。そうでなきゃおかしいと思っていたのだが、やはり、霧ヶ峰の草原は人為的なものであったのだ。

 霧ヶ峰には旧御射山の祭祀跡がある。諏訪神社下社の御射山祭が行われたところで、私も何度か行ったことがある。今は草原地帯になっているが、当時は森林地帯だったはずだ。ただ、ここは狩り場であり、八島湿原の近くであるから、多少草原は残っていたのかも知れない。御射山祭祀は、山上の広場のようなところで行われたと思われるからだ。ここには階段地形があって狩りの様子を観覧する場所だったのではないかとある。

 いずれにしろ、ここで御射山祭が行われる時は、この地の武将は、鎌倉時代、戦争をしていても特別に祭祀のために帰ることを許されたそうである。それくらい、全国的に名の知られた祭りだった。数万人は集まったのではないかと言われている。とすれば、ほとんど泊まりがけだから、霧ヶ峰一帯には臨時の売店や食堂が並び、そしてあたりは排泄物だらけだったのではないかと本にある。たぶんそうであろう。

 霧ヶ峰の御射山祭祀は江戸時代頃には行われなくなるが、1518年に下社の金刺氏が上社によって滅ぼされ、それがきっかけになって江戸時代には里に移して御射山祭祀が行われるようになったということだ。この本は歴史についてもいろいろと書かれていて勉強になる。もうだいぶ前になるが、斉藤英喜らと御射山祭祀の勉強会をしていた頃を思い出した。

 私の山小屋から40分ほど歩くと、車山のスキー場に着く。昔は別荘地からスキーをかついでスキー場に歩いていったそうだ。そこまではとてもできないが、時々は、車山に遠出の散歩に行く。夏は、レンゲツツジ、ニッコウキスゲ、コバイケイソウなどが咲き乱れなかなかいいところである。観光客も多いけれど。

 『西洋骨董洋菓子店1』はストーリーの展開がうまい。けっこう笑えた。    

       身体が動いてくれぬ初仕事

       集まりて笑い飲み喰い初仕事

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