雨乞いはしないが…2007/01/27 02:02

 今日は午前中に出校し雑務。2時頃に奥さんとチビが迎えに来てそのまま山小屋へ。5時頃には山小屋についた。それにしても忙しい一週間だった。先週の日曜からほとんど休みなしで、へとへとに疲れた。

 こんなに雑務が多いとは思わなかった。毎日会議があり、いろんな相談事があり、来年度に向けての計画も考えなきゃいけない。そろそろ入試も近づき、成績をつけなきゃいけない。私は4月までに3本の原稿を書かなきゃいけない。いつもながら超人的に働いているなあと感心する。

 ブログ書いている場合じゃないのだが、仕事が忙しくてブログも書けない、というほどには働きたくない。ブログは自分がまだ余裕で生きている証拠だと思って続けている。だから、ブログが書けなくなったら、かなり大変なことになっていると思ってください(飽きてしまったということもあるけど)。

 昨日の植島啓司の本で、古代の人が呪術をほんとに信じていたわけじゃない。ただ呪術を行うことで不安を解消していたに過ぎない、ということが書かれていた。これはその通りだと思った。

 よく現代人と古代人の違いに古代では呪術を信じていたということが言われる。たとえば、平安の貴族は方違えや物忌みをかなり真剣に行っていた。彼らはそういったことを信じていたのか。「信じていた」というと間違ってしまうことになる。

 仮に雨乞いをほんとに信じていたとすると、真面目に労働などしなくなるはずだ。呪術で必ず雨が降るなら水路など作る必要はない。豊作だって神が保証してくれるなら真面目に働く必要などないだろう。が、現実はそんなに甘くないことは、古代の人々だってわかっていた。だが、それでも雨乞いをしなければならないのが、われわれのあり方なのだ。

 それは合理的な思考を昔から人が持っていたというようなことではない。生活とはそういうものだということだ。生活は、水が高いところから低い所へ流れるような、朝が来れば必ず夜が来るように、人は必ず歳を取るように、極めて厳然とした順序で成り立っている世界である。

 稲が実らずに餓えるのも、雨が降らずに不作になるのもまた自然が時に突きつける順序なのだ。人はその順序を受け入れた上で、どうやったら、絶望せずに、あるいは、多少その順序を狂わすことが出来るかいつも考えている。それが神やあの世を幻想することであり、また呪術といったものだ。

 その意味で、神やあの世を信じるということは、生活を捨てるということである。生活は、神やあの世を必要とはするが、それを信じる世界ではない。その矛盾を解決するのが、宗教者や呪術者なのだ。だから宗教者や呪術者は生活者ではないし、生活のために真面目に働くものではない。江原啓之のあの身体と、美輪明宏の派手な身なりを見れば、どのように生活が切り捨てられているかよくわかる。

 生活を切り捨てているからだめだということを言っているわけではない。生活というところから見れば、古代も現代もそんなに変わらないということを言いたいだけだ。呪術を信じている訳でないのに呪術を必要としてしまうということだ。現代のわれわれは雨乞いはやらないが似たことはいくらでもやっている。そういうものなのだ。

       厄落とし関係ないよとうそぶきぬ