感じる宗教2007/01/12 01:09

 年が明けていろいろ忙しくなってきた。来年度(4月)から大学のハード面や学科の構成が変わったり、短大二部を募集停止にするなど、大きく変化するので、その準備がここに来て待ったなしになってきたからだ。特に私の勤め先の大学・短大は八王子校舎を引き上げ神田に集中するので、その対策でてんやわんやである。今図書館が引っ越しの最中で、その後に教室を作ることになっている。とにかく教室が足りないのである。

 だから、来年度の時間割も大変である。教員の都合を一人一人聞いていると、時間割は作れない。教室数に限度があるから、月曜から土曜まで、朝から夕方まで、大学も短大も全部の授業がおさまるように、コンピューターで時間割を作っているそうだ。そういうソフトがあるらしい。ということは、専任教員の希望よりも、限られた教室に効率的に授業を配置することが優先されるから、当然、不都合な面が出てくる。今その調整で、大変なのである。

 そういうこともあって、今日は疲れた。今日は地域文化論の授業があったが、大涼山のイ族のビデオを見せ、宗教と自然の話をした。自然にあの世を見いだし、神の領域と考える、対称的な世界観では、あの世とこの世の媒介こそが重要な文化になる。それが、シャーマンであり、あるいは供犠であるという話をした。また、自然への感受性というのは、恐れや神秘感であり、見えない世界への感受性でもある。そういう感受性によって対称的な世界観は支えられている。つまり、それは感じるという感受性だ。信じるではない。

 宗教には感じる宗教と信じる宗教がある。自然を神とする宗教は感じる宗教であり、それを否定してあらわれたのが所謂普遍宗教、仏教やキリスト教だ。感じる宗教とは、見えない世界への恐れや神秘感に根ざす宗教だから、おそらくは、人類の発生以来の古さを持つ。その意味では、われわれの身体や無意識やあるいはDNAに深く刻まれているものだ。神を信じなくても、われわれは見えないものを恐がり神秘を感じ取ることは出来るしそれを疑わない。お化けを信じなくても夜のお墓は怖いのである。霊的な世界を信じなくても、「オーラの泉」はとても気になる。そういうものなのだ。感じることを私たちは止めることが出来ないのである。

 日本の文化とも言える宗教感覚は、この感じるところにあると言っていい。だから、教義や神の教えに従った生き方の問題にならずに、見えない世界への感受性にゆだねたものになる。ケガレを忌避し、占いを頼りにし、どんな神でもとりあえずは手を合わせる。無宗教だけれども信心深いのである。

 そういう感じる感性の宗教を生活の規範としていくと、それは少数民族の文化になる。そういうところでは、あの世との媒介者である宗教者が力を持つ。イ族ではビモである。

 日本では江原啓之か?日本の社会はすでに自然を失ったのに、日本人が自然への感じる感性を失っていないのは驚きである。そうでなければ「オーラの泉」が視聴率をとれるわけがないのだ。呪術を信じはしないがとても気になるのがわたしたちの感性なのだ。それは、自然を神としていた時代の精神世界の名残である、というよりは、そこに実は人間というものの本質があるのだと言ってもいい。

 自然への感受性、それは、見えない世界への恐れや神秘感といったもの、それがあるからこそ、言葉が生まれ、人間はこころを豊に複雑にしてきたのだ。文学の源もそういう感受性にある。

 そう考えれば、ああいう番組も馬鹿には出来ない。少数民族文化の呪術的な宗教世界も、現代のわたしたちとそんなに違いはないということなのだ。それを知ること、それが大事である。とまあ、そんなことをしゃべったのだが、何処まで伝わったかは分からない。

 家に帰ったら、BSで大涼山に住むナシ族の村、ウォーヤ村を紹介する番組をやっていた。近くの町から歩いて二日かかるというこの村は周囲と隔絶し、今でも、一妻多夫の婚姻制度がある。これは、男の兄弟が一人の妻を所有するというもので、チベット族にあることが知られている。

 貧しい社会では、大家族は労働力をプールするという意味で保持しなければならない。子どもがそれぞれ結婚し分家すると、労働力が失われ、財産も分割せざるを得ない。それを防ぐために考え出されたのがこのような婚姻制度である。男の兄弟は妻を共同で所有すれば親の家を離れなくてすむのである。

 雲南省電視台の作った番組だったが、けっこう面白かった。まだこういう村が中国にはあるんだなあと思った次第だ。中国のテレビ局も、NHKの作るような番組を作るようになったのである。そのことも感心した。

 町に出て外の世界を知った者は、一人の夫と結婚しその兄弟との結婚は拒否するという。が、外の世界を知らない村ではそれが幸福だったのだとナレーションは語る。この番組の題は「幸福山谷」である。なかなか微妙な面白いタイトルであった。

 ちなみに、ナシ族の葬式と結婚式の場面があった。映像で見られたのは収穫であった。
 
      路地無く萬歳も獅子舞も無く

      破魔弓を抱きしまま眠りいる