「情けなさ」の系譜2015/12/14 01:18

ブログも久しぶりである。いろいろ忙しいのと、書くこともないので、という感じでつい書かないで過ごしていた。心配する人もいるので、近況報告です。

 とくに報告することもないのだが、愛犬チビが「Wan」という犬の雑誌に載った。2016年1月号で今発売中。保健所から救い出されて里親になった経緯や、最初は目も合わせなかったのだが、だんだんと飼い犬らしくなってきたことなどが書かれている。

 この時期は、チビのカレンダー作りで悩む。毎年チビの写真を入れたカレンダーを印刷して、チビのことが好きな知り合いなどにあげているのだが、12ヶ月分のチビの写真を探すのが大変なのである。苦労して何とか昨日作り上げた。

 今週学生たちとクリスマスパーティをひらくことになっていて、このチビのカレンダーは私からのプレゼントとして出している。けっこう人気がある。今年の学年はけっこうイベント好きで、先週も「ブックパーティ忘年会」を開催した。二十数名集まって盛況だった。ただの忘年会では芸がないので、少しは読書会らしく、冒頭に、私が又吉直樹『火花』について語る講演を行った。タイトルは「情けなさの系譜」である。

 私は、せきしろと又吉が出した自由律俳句句集『カキフライがないなら来なかった』(2009)がでたときから面白く読んでいて、続篇の『まさかジープで来るとは』も読んでいる。彼の句はあきらかに尾崎放哉の影響にあるが、一方、太宰を師と仰ぐ。つまり、放哉、太宰と続くこの流れを「情けなさの系譜」と名づけ、その系譜に又吉がいると論じたわけである。

 尾崎放哉には次のような句がある。

  つくづく淋しいわが影よ動かしてみる
  一日もの云わず蝶の影さす
  たった一人になりきって夕空
  障子しめきって淋しさをみたす
  こんなよい月を一人で見て寝る
  笑へば泣くやうに見える顔よりほかなかった
  釘箱の釘がみんな曲がって居る
  トンボが淋しい机にとまりに来てくれた
  咳をしても一人
  とんぼの尾をつかみそこねた
 
 エリートから酒が原因で転落し、放浪の果て41歳で死ぬが、それは世を捨てるというようなかっこいいものではなく、孤独な自分を見つめる「情けない」ものだった。その「情けなさ」を素直に言葉にしたのが自由律俳句である。
 放哉を敬愛した『カキフライがないなら来なかった』の又吉の句は次のようなものである。

  二日前の蜜柑の皮が縮んでいる  
  転んだ彼女を見て少し嫌いになる
  愚直なまで屈折している
  ほめられたことをもう一度できない
  平日の午後友達の友達から隠れる
  蝉の羽に名前を書いて空に放した
  祖師ヶ谷大蔵と言いたかっただけ
  へんなとこに米が入って取れない
  縄跳びが耳にあたったことを隠した
  ガムを噛む顔が調子に乗っていた
  自分のだけ倒れている駐輪場
  まだ何かに選ばれることを期待している

 このギャグといってもいいような自分の小さな「情けなさ」がとてもおもしろい。
 『火花』はむしろ太宰の系譜だろう。太宰は「情けなさ」を徹底して生きた作家だが、自殺未遂という常軌を逸した行為を繰り返す。小説もその生き方も痛々しい。が、深い共感を太宰に感じるのは、その痛々しさが、傷つく事を承知で純粋に自由に振る舞おうとするからだと理解出来るからである。
 『火花』は天才的で破滅型の先輩芸人神谷のはちゃめちゃな生き方を主人公徳永がいとおしむように見つめる、という小説である。「情けなさ」の系譜は神谷が担っている。読者は、直接神谷向き合うのではなく、又吉である徳永のやさしいまなざしによって神谷を知ることになる。この描き方が抜群である。たぶん、直接知り合ったらどうしようもない芸人であろう神谷が「情けなさの系譜」に位置するように見えるのは、太宰の系譜のなかにいる存在であるかのように神谷を見つめる徳永の共感故である。
 『火花』がこんなに売れたのは、多くの人が、久しぶりに痛々しい「情けなさ」に共感する優しい気持ちを持てたからに違いない。たぶん、わたしたちのこの社会は「情けなさ」をあまりに許容できない社会であるから、又吉のような「情けなさ」を言葉にする芸(小説もだが)に、みな共感するのだろうと思うのだ。

 以上のような話をしたのだが、一部の学生には共感してもらえたようである。ふだん、私は、就活のために「情けなさ」の反対に振る舞えと指導している。就職率をあげることが生き残るための至上命題だからで、私もフラストレーションがたまっていたのだ。又吉を借りて、「情けなさ」も大事だと主張したのである。

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