やっと一段落 ― 2013/07/10 00:14
暑い!また暑い日がやってきた。日本の四季の情緒は確実に変更を余儀なくされるだろう。この亜熱帯のような暑さは、四季の移り変わりなどという情緒を吹き飛ばすかのようにやってくるからだ。
単行本の原稿なんとかまとめあげる。ただ、表題が決まらない。キーワードは「雲南」と「基層文化」なのだが、ぴったりとしたタイトルが思いつかない。こういうときは誰かの知恵を借りた方がいい。ということで、何とか今年中に出せればいいのだが。
学校の方もいよいよ7月に入り、試験も間近だ。昔なら夏休みモードに入っていた時期だが、最近は前期15回きっちりやるので、そんなムードは何処の大学にもない。8月に入っても授業をする大学もある。私のところも、8月の第一週にずれ込む授業もある。いやはやである。
ようやく一段落ついたところだが、夏休みには2本原稿を書かなくてはならない。その準備があるのでのんびりとはしていられない。
忙しい合間に何冊かの本を読んだ。内田樹『街場の文体論』、朝井リョウ『何者』、千田稔『古事記の宇宙』、中島京子『小さなおうち』、北方謙三『史記一(武帝紀)』『史記二』である。ほとんどスキャン読書である。
『街場の文体論』は内田樹の最後の年の授業の講義録である。ほとんど何の準備もせずに、その場で思いついたことを話している(むろんテーマはあるが)、という語り口で、講義を聴いている気分になれて面白い。ただ、同じ年で、こういう授業が出来る才能がうらやましい。しかも、結構レベルの高い話しをしているのに、学生たちがちゃんと聴いていると、書かれていることがスゴイと思う。うちと同じ女子大だが、あっちのほうがレベル高そうである。
面白かった話題を一つ。アメリカでは、今でもエルヴィス・プレスリーに会ったという目撃談が生まれているらしい。いわゆる都市伝説だが、内田は、これを名前のアナグラムの影響だと論じている。つまり、ElvisとLivsは同じ文字の構成である。だから「Elvis/Livs」(エルヴィスは生きている)という意味がエルヴィスの名前そのものにあるというのだ。アナグラムが好きなT君はこれを知っているだろうか。
『何者』はなかなか身につまされる物語である。就活仲間での中で一人だけ、仲間を冷静に見ていて適当に距離を取りながら、いわゆるメタ的立場に立つやつの物語である。評論家的立場に立つということだが、私などがそうだろう。ところが、批評される側から見ればこんな嫌な奴はいない。結局、そういう批評的行為とは、自分探しに悩んで表面的な装いに逃げる他者の偽装を見抜くことだが、結局は、そういう批評は、その批評するもの自身が自分の偽装を見抜かれたくないための防衛機制なのだ、ということなのだ。この小説で描こうとしているのは、そういう批評する側に回った奴の、痛いほどの自己批評である。なかなか物語がうまい。私もけっこう痛かった。
千田稔は『古事記』と自然をどうつなげて論じるのか興味があった。ちなみに今週の木曜日のBS歴史館は『古事記』特集で、千田稔と工藤隆が出るそうである。楽しみである。授業で使おうと思って読んだのだが、あまり使えそうにないということだけはわかった。ただ、神話の細かなところの解説が勉強になり本としてはなかなか面白かった。
『小さなおうち』は懐かしいと思える小説だった。かつて小説はこんな風に書かれていた。北方謙三の『史記』は、まあこんなもの。読み物として飽きさせない。電車の中で読むにはうってつけだ。最近中国のテレビドラマ『水滸伝』を何話か見た。やっぱり、北方『水滸伝』の方が面白い。
単行本の原稿なんとかまとめあげる。ただ、表題が決まらない。キーワードは「雲南」と「基層文化」なのだが、ぴったりとしたタイトルが思いつかない。こういうときは誰かの知恵を借りた方がいい。ということで、何とか今年中に出せればいいのだが。
学校の方もいよいよ7月に入り、試験も間近だ。昔なら夏休みモードに入っていた時期だが、最近は前期15回きっちりやるので、そんなムードは何処の大学にもない。8月に入っても授業をする大学もある。私のところも、8月の第一週にずれ込む授業もある。いやはやである。
ようやく一段落ついたところだが、夏休みには2本原稿を書かなくてはならない。その準備があるのでのんびりとはしていられない。
忙しい合間に何冊かの本を読んだ。内田樹『街場の文体論』、朝井リョウ『何者』、千田稔『古事記の宇宙』、中島京子『小さなおうち』、北方謙三『史記一(武帝紀)』『史記二』である。ほとんどスキャン読書である。
『街場の文体論』は内田樹の最後の年の授業の講義録である。ほとんど何の準備もせずに、その場で思いついたことを話している(むろんテーマはあるが)、という語り口で、講義を聴いている気分になれて面白い。ただ、同じ年で、こういう授業が出来る才能がうらやましい。しかも、結構レベルの高い話しをしているのに、学生たちがちゃんと聴いていると、書かれていることがスゴイと思う。うちと同じ女子大だが、あっちのほうがレベル高そうである。
面白かった話題を一つ。アメリカでは、今でもエルヴィス・プレスリーに会ったという目撃談が生まれているらしい。いわゆる都市伝説だが、内田は、これを名前のアナグラムの影響だと論じている。つまり、ElvisとLivsは同じ文字の構成である。だから「Elvis/Livs」(エルヴィスは生きている)という意味がエルヴィスの名前そのものにあるというのだ。アナグラムが好きなT君はこれを知っているだろうか。
『何者』はなかなか身につまされる物語である。就活仲間での中で一人だけ、仲間を冷静に見ていて適当に距離を取りながら、いわゆるメタ的立場に立つやつの物語である。評論家的立場に立つということだが、私などがそうだろう。ところが、批評される側から見ればこんな嫌な奴はいない。結局、そういう批評的行為とは、自分探しに悩んで表面的な装いに逃げる他者の偽装を見抜くことだが、結局は、そういう批評は、その批評するもの自身が自分の偽装を見抜かれたくないための防衛機制なのだ、ということなのだ。この小説で描こうとしているのは、そういう批評する側に回った奴の、痛いほどの自己批評である。なかなか物語がうまい。私もけっこう痛かった。
千田稔は『古事記』と自然をどうつなげて論じるのか興味があった。ちなみに今週の木曜日のBS歴史館は『古事記』特集で、千田稔と工藤隆が出るそうである。楽しみである。授業で使おうと思って読んだのだが、あまり使えそうにないということだけはわかった。ただ、神話の細かなところの解説が勉強になり本としてはなかなか面白かった。
『小さなおうち』は懐かしいと思える小説だった。かつて小説はこんな風に書かれていた。北方謙三の『史記』は、まあこんなもの。読み物として飽きさせない。電車の中で読むにはうってつけだ。最近中国のテレビドラマ『水滸伝』を何話か見た。やっぱり、北方『水滸伝』の方が面白い。
心は進化しない ― 2013/07/19 00:57
先週の日曜に寧波大学からT先生来日。私の勤め先の招待である。T先生は雲南調査でいつもお世話になっている中国の研究者。ところが、私の勤め先で中国語を教えているやはり中国人のL先生と大学院時代の同級生だったということがわかった。これはほんと最近偶然にわかったことである。実は、私とは別に文化人類学の先生がT先生に御願いして大学教育についての調査を依頼していた。そんなこんなのつながりで、T先生を招待して、授業などで講演してもらおうということになった。久しぶりの来日であるので、私が成田空港に迎えに行き、今日の出国まで毎日接待していた。中国調査ではいつも世話になっているので、これはほんのささやかなお返しである。
たまたま雲南調査についての原稿をまとめている最中なのでT先生にも見てもらうことが出来た。原稿には私の中国語の日本語訳の文章がいくつかあるのだが、どうも心許ないのだ。やはり間違っているところを指摘され、私としてはとてもありがたかった。
縁というものは不思議なものだ。T先生とL先生は吉林の大学院で日本語を学んでいた。その後、T先生は雲南大学に勤めた。何故辺境の雲南大学に行ったのか、L先生からその理由が明かされた。実は、大学院の時に、T先生の幼なじみとT先生は結婚した。その結婚の経緯も聞いたがまるでチャンイーモウの中国映画にででくるような物語なのであるが、それは省略。実は、大都市の大学と雲南大学の二つの就職口があった。ところが、問題は奥さんが農民戸籍で、大都会の大学では就職しても奥さんは都市戸籍に変えられいという。雲南大学は都市戸籍に変えてくれるという条件だったらしい。それで辺境の雲南大学に行ったということだ。つまり、奥さんのためだったのである。いい話である。同級生の間ではなんであんな辺境に行くのかみんな不思議がったということである。
が、そのおかげでわたしたちはT先生と会うことが出来て、雲南での調査を進めることが出来たのである。T先生がいなければ私の調査などもほとんど出来なかったろう。それくらい、T先生の果たした役割は大きかったのである。縁を考えれば奥さんのおかげでもある。もし、T先生が、他の同級生のように、同じ大学の同窓の女性と結婚していたら、彼は私たちと出会うことはなかったのである。
T先生が帰国し一段落というところである。今、「千字エッセイ」のコンテストをやっていて、それを読んでいるところだ。テーマはメールである。今時の話題であるのでなかなか面白い。私は使っていないが、最近はLINEを使っている学生が多く、その話題も出てくる。興味深いのは、LINEは便利でいいが、相手との垣根が低くなって、時に相手を傷つける度合いが普通のメールより高いという指摘がいくつかあったことだ。
今世間を騒がしている広島の事件は、LINEでのやりとりが一つのきっかけで起こった事件だという。相手を傷つけるような言葉が飛び交い、それが原因で人が殺されるという事態に発展してしまったということらしい。学生たちの指摘は間違っていないのだ。学生達のエッセイにもメールで傷ついたことや、傷つけた事が出てくる。その逆の救われたこともたくさん出てくる。直接会って話しするのでもなく、携帯で会話を交わすのでもない、手紙でのやりとりでもない、メールの適度感が、今の時代の人との距離の取り方に合っている、ということなのだろう。この微妙なハードルの低さが、確かにコミュニケーションを円滑にしているところがある。が、当然、リスクもある、ということだ。
こういうのをITリテラシーというのかどうかわからないが、IT技術の進化は、リテラシーの進化より早い。スマホや携帯でのリテラシーが習熟する頃には、たぶん次の新しい進化したITのコミュニケーションツールが出て来て、今では信じられないような意志疎通の仕方が成立しているのだろう。そして、けっこう傷つくものもたくさん出てくる、ということなのだろう。人の心は、どうやら進化しない。傷つく事への耐性は、殺虫剤に対抗するゴキブリのようには進化しない。むしろ、ますます耐性が劣化しているような気がする。学生を見ているとそう思う。
たまたま雲南調査についての原稿をまとめている最中なのでT先生にも見てもらうことが出来た。原稿には私の中国語の日本語訳の文章がいくつかあるのだが、どうも心許ないのだ。やはり間違っているところを指摘され、私としてはとてもありがたかった。
縁というものは不思議なものだ。T先生とL先生は吉林の大学院で日本語を学んでいた。その後、T先生は雲南大学に勤めた。何故辺境の雲南大学に行ったのか、L先生からその理由が明かされた。実は、大学院の時に、T先生の幼なじみとT先生は結婚した。その結婚の経緯も聞いたがまるでチャンイーモウの中国映画にででくるような物語なのであるが、それは省略。実は、大都市の大学と雲南大学の二つの就職口があった。ところが、問題は奥さんが農民戸籍で、大都会の大学では就職しても奥さんは都市戸籍に変えられいという。雲南大学は都市戸籍に変えてくれるという条件だったらしい。それで辺境の雲南大学に行ったということだ。つまり、奥さんのためだったのである。いい話である。同級生の間ではなんであんな辺境に行くのかみんな不思議がったということである。
が、そのおかげでわたしたちはT先生と会うことが出来て、雲南での調査を進めることが出来たのである。T先生がいなければ私の調査などもほとんど出来なかったろう。それくらい、T先生の果たした役割は大きかったのである。縁を考えれば奥さんのおかげでもある。もし、T先生が、他の同級生のように、同じ大学の同窓の女性と結婚していたら、彼は私たちと出会うことはなかったのである。
T先生が帰国し一段落というところである。今、「千字エッセイ」のコンテストをやっていて、それを読んでいるところだ。テーマはメールである。今時の話題であるのでなかなか面白い。私は使っていないが、最近はLINEを使っている学生が多く、その話題も出てくる。興味深いのは、LINEは便利でいいが、相手との垣根が低くなって、時に相手を傷つける度合いが普通のメールより高いという指摘がいくつかあったことだ。
今世間を騒がしている広島の事件は、LINEでのやりとりが一つのきっかけで起こった事件だという。相手を傷つけるような言葉が飛び交い、それが原因で人が殺されるという事態に発展してしまったということらしい。学生たちの指摘は間違っていないのだ。学生達のエッセイにもメールで傷ついたことや、傷つけた事が出てくる。その逆の救われたこともたくさん出てくる。直接会って話しするのでもなく、携帯で会話を交わすのでもない、手紙でのやりとりでもない、メールの適度感が、今の時代の人との距離の取り方に合っている、ということなのだろう。この微妙なハードルの低さが、確かにコミュニケーションを円滑にしているところがある。が、当然、リスクもある、ということだ。
こういうのをITリテラシーというのかどうかわからないが、IT技術の進化は、リテラシーの進化より早い。スマホや携帯でのリテラシーが習熟する頃には、たぶん次の新しい進化したITのコミュニケーションツールが出て来て、今では信じられないような意志疎通の仕方が成立しているのだろう。そして、けっこう傷つくものもたくさん出てくる、ということなのだろう。人の心は、どうやら進化しない。傷つく事への耐性は、殺虫剤に対抗するゴキブリのようには進化しない。むしろ、ますます耐性が劣化しているような気がする。学生を見ているとそう思う。
本のタイトルは難しい ― 2013/07/28 23:35
暑い日が続く。さすがに体力も落ちてくる。実は、数ヶ月前から膝が痛くて階段の上がり下りが難儀になっている。階段よりエスカレーターやエレベーターをつい使ってしまう。なるべく階段を使うことにしていたのだが、さすがに膝が痛いと避けてしまう。これも老化ということなのだろうか。レントゲンをとってみたが別段異常は無い。筋肉の衰えだろうとリハビリしなさいと医者に言われた。確かに、最近、体重が増え気味で歩く時間も少ない。これじゃ膝も悪化するわけだ。というわけで、いろいろ問題を抱えているわが身体である。
本の出版については、出版社が決まり、後は、本の体裁やタイトルをどう決めるかというところまですすんだ。原稿はすでにできている。ただ、写真が少ないので写真を多く入れて欲しいと言われた。ところが、私はビデオカメラでの取材が多く、思ったより写真が少ないのだ。祭祀のかんじんな部分は特に写真がない。そこで、ビデオ映像を写真にする、ということになるが、やはり解像度が悪くなる。が、ないよりはいい。というわけで、ビデオ映像から取った写真を多く使うことになった。
問題はタイトルなのだが、雲南研究であるから、当然研究書としてのタイトルにしたい。しかしあまり学術書っぽくしたくはない。出版社も、地域研究書は、例えば地域紹介本のようなものだと必ず図書館で買ってくれるので、なるべくなら、「~訪ねて」といったタイトルがいいという。が、私としては、紹介本っぽくなると研究者が手に取ってくれなくなるかもしれないとも思う。かといって、あまり堅苦しいタイトルも嫌だ。なるべく多くの人に読まれた方がいいのも当然で、とすると、「~を訪ねて」か。う~ん、と迷っているところだ。
「雲南の神話と祭祀」あたりが無難なところだろうと思っているが、どうなることやら。ありきたりでつまらないが、情報としては的確なタイトルである。知り合いや研究者に献本してその人たちに読んでもらえりゃいいや、というようにはしたくない。それなりに面白いという自信はあるので、雲南に興味のある人には手にとってもらいたい。とするとやっぱり、「~を訪ねて」か。なかなかタイトルを決めるのは難しい。
今日テレビで「半沢直樹」を見たがなかなかよく作ってある。ちなみに、私は原作はすでに読んでいる。筋を知っているので、原作をどんな風にアレンジして作っているのかそこに興味があった。この番組キャスティングが外れていない。特に堺雅人はぴったり。もう彼以外の半沢直樹のイメージが作れない。それほどのはまり役。多少省略しながら、「倍返し」の見せ場だけは丁寧に作ってある。
ただ、原作の半沢直樹はえげつないほど敵を責め立てる。倍返しとは報復としてはやり過ぎなのである。そのえげつなさをどこまで描けるか。さすがにテレビなのでなかなか難しいとは思うが。私もストレス過多なので、こういう番組嫌いではない。
本の出版については、出版社が決まり、後は、本の体裁やタイトルをどう決めるかというところまですすんだ。原稿はすでにできている。ただ、写真が少ないので写真を多く入れて欲しいと言われた。ところが、私はビデオカメラでの取材が多く、思ったより写真が少ないのだ。祭祀のかんじんな部分は特に写真がない。そこで、ビデオ映像を写真にする、ということになるが、やはり解像度が悪くなる。が、ないよりはいい。というわけで、ビデオ映像から取った写真を多く使うことになった。
問題はタイトルなのだが、雲南研究であるから、当然研究書としてのタイトルにしたい。しかしあまり学術書っぽくしたくはない。出版社も、地域研究書は、例えば地域紹介本のようなものだと必ず図書館で買ってくれるので、なるべくなら、「~訪ねて」といったタイトルがいいという。が、私としては、紹介本っぽくなると研究者が手に取ってくれなくなるかもしれないとも思う。かといって、あまり堅苦しいタイトルも嫌だ。なるべく多くの人に読まれた方がいいのも当然で、とすると、「~を訪ねて」か。う~ん、と迷っているところだ。
「雲南の神話と祭祀」あたりが無難なところだろうと思っているが、どうなることやら。ありきたりでつまらないが、情報としては的確なタイトルである。知り合いや研究者に献本してその人たちに読んでもらえりゃいいや、というようにはしたくない。それなりに面白いという自信はあるので、雲南に興味のある人には手にとってもらいたい。とするとやっぱり、「~を訪ねて」か。なかなかタイトルを決めるのは難しい。
今日テレビで「半沢直樹」を見たがなかなかよく作ってある。ちなみに、私は原作はすでに読んでいる。筋を知っているので、原作をどんな風にアレンジして作っているのかそこに興味があった。この番組キャスティングが外れていない。特に堺雅人はぴったり。もう彼以外の半沢直樹のイメージが作れない。それほどのはまり役。多少省略しながら、「倍返し」の見せ場だけは丁寧に作ってある。
ただ、原作の半沢直樹はえげつないほど敵を責め立てる。倍返しとは報復としてはやり過ぎなのである。そのえげつなさをどこまで描けるか。さすがにテレビなのでなかなか難しいとは思うが。私もストレス過多なので、こういう番組嫌いではない。
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