ウォール街のデモ2011/10/09 23:59

 ブログも久しぶりである。いろいろ気ぜわしくて文章を書いている暇もない。紀要の論文を何とか仕上げて、それからシンポジウムに使うナシ族の経典の翻訳もと、やることは多い。来週は、文化祭で、わが学科の読書室でのイベントとして古本市をやる。金曜の夜に茅野の山小屋に出かけ、古本市に出せそうな本を見繕って、土曜の朝、学校へと運んだ。

 古いドストエフスキーの全集があるのでそれを出すことにした。村上春樹も最近はほとんど文庫で出ているので単行本のはバザーに出すことにした。古本も集まらないとみっともない。私の本棚の本の古本市になるかも知れないが、どうせもう読まない本なのだ。バザーに出した方が世のため人のためである。

 紀要の論文の題は「問答論」である。この題の英訳を英語の教員に頼んだら、なんとも不思議な題名になっていた。和訳すると、理論的なクエスチョンといった意味だ。これは違うと言って、結局、私が考えて「Dialog Theory」とした。この「問答」は歌の掛け合いのような意味を持つので、対話でもよい。結局「対話論」になった。英語ではこれしかないだろう。考えてみれば「問答論」そのものが大ざっぱで曖昧すぎる。副題でカバーはしているが、最近は検索で探す人が多いから、私の意図するテーマを勉強する人にはひっかかりようのない題名の付け方である。英語のタイトルはなかなか難しい。

 明日は休みではない。ほとんどの大学は授業があるはずだ。半期15回という授業回数をこなすためには、月曜の休日を授業日にしないと15回達成できない。かつて月曜の授業は休みが多くて人気のある曜日だったが、最近は、休日も出るので最も不人気な曜日になった。11月5日の学会シンポジウムの準備で、明日から大忙しである。ポスターや案内を発送しないといけない。印刷や袋詰めとほとんど私がこなす。封筒の「別納郵便」というマークも私のパソコンで印刷する。ポスターだけはさすがに印刷所にお願いをする。ただ、当初は私のパソコンで印刷した。あまりに大変で、しかも大きさの制限もあるのでポスターだけは印刷所に頼むことになった。

 先週久しぶりに昔の仲間と飲む機会があった。やはり原発のことが話題になる。団塊世代の中には、今反原発で元気がいいのもいる。戸惑っているのもいる。私などは別に元気がいいわけではない。反原発デモに参加した柄谷行人は今の日本はデモが少なすぎる。このことが問題だと話していた。確かにそう思う。ただ、デモをするような切迫感が(原発問題を除けば)ないように見えるのは確かだ。リーマンショック以降の、派遣問題でのデモも長続きはしなかった。

 アメリカでのウォール街でのデモにはけっこう期待している。反原発のデモは、恐らく、そのうちうやむやになってしまうだろう。デモというのは切迫感を持った当事者が中心にならなくては世の中を動かせない。原発に対する漠然とした不安という程度でのデモであるうちはたいしたことはない。福島の人がデモの中心になれば話は違う。むしろ、何故、一番被害をうけた福島の人がデモの中心になれないのか、そのことを考えるべきだ。

 アメリカのウォール街でのデモはその点、わかりやすい。アメリカの富の分配そのものに否をつきつけているからだ。金融資本主義の破綻で、中流層が没落し、99パーセントが下流層と感じ始めた。ニューディール政策は公共工事に資本投下したが、リーマンショック以降のアメリカは、銀行に公共投資しただけだ。その額は膨大なものなのに、その公共投資で救ったのは一部の金融マンだけで国民には金は回らなかった。怒るのは当たり前だろう。

 金融資本主義は、資本主義がたどりついた最後の姿なのか、それとも、別の資本主義の形態があるのか、ウォール街のデモは、案外、そこを問いつめる運動になる可能性がある。その意味で期待している。グローバリズムでありながら同時に地域主義的な、つまり地産地消的資本主義の追求や、あるいは、公共資本主義といった公共的な制度と資本主義を背馳させないあり方を追求するのか、そこいらしかないだろうが、誰がというよりはどこの国がそういった資本主義に踏み切るか、生きているうちに見たいものである。ウォール街のデモは案外、そのような次の資本主義の到来を早めるかもしれないなどと思っている。

無人古本販売2011/10/19 01:09

 先週の土日は文化祭。読書室委員のメンバーと古本市の催し物を今年も行う。古本は結構集まったのだが、売り上げは良くない。あまり売れる本はなかったということか。それでもユニセフへの寄付は二万円を越えた。もっとも、私が出した機動戦士ガンダムの新しい漫画版、二十二巻を供出したのが効いている。全冊四千円で売れた。

 その前の金曜日は、文化祭の準備と、学会の発送の準備。準備が二つ重なった。それでも何とか終わる。いつもなんとかなるものである。私は二日ともオープンキャンパスでの受験生相談。合間を縫って、古本市を見に行く。客が入っているかどうか心配なのである。

 日曜夜短歌時評の原稿を書く。久しぶりに夜更かしをした。2時半に寝る。いつも一時以降はほとんど意識朦朧となるのだが、さすがに締め切り間近の原稿となると、目が冴える。月曜日の朝、そういえば「燃えないゴミ」の日である。朝七時半に起きて、不要になった旧いプリンターを分解して、二つの袋に分けて出した。

 昼頃まで、今週の木曜日にある万葉集の市民講座の準備。ちなみに、月曜から水曜日まで学校は休みである。つかの間の休日である。昼に新宿へ出て、「あずさ」で茅野に向かう。奥さんはすでに山小屋に行っている。私は仕事があるので月曜に行くことにした。

 山は上の方が紅葉していてなかなかきれいである。この時期なかなかこられないのだが、今年は何とか来る事が出来たが、もちろん仕事持ち込みである。火曜の今日、何処かへ行こうということになって、高遠に行く。高遠の町は古本で町おこしをしていて、けっこういろんな本を集めている古書店があるという。奥さんが以前行って面白かったというので、行くことにした。

 残念ながら、古書店はもう閉店していて、今は土日祝日だけのオープンだという。ただ、高遠町のメインストリート沿いの、商店の前や、商売はしていなさそうな家のシャッターの前などに、小さな本棚があってそこに古本が並んでいる。なんだろうと見てみると、古本を売っている。本棚にはお金を入れる箱があって、どれでも一冊百円とある。野菜の無人販売所ならぬ古本の無人販売コーナーである。平日ということもあって通りは閑散としていたが、なかなか面白い試みだなと感心。けっこういい本もあって百円は安い。文化祭の古本市も、来年はもう少し企画を練り直そうと思った次第だ。

                          ぶらぶらと古本などあり秋の路

タブレットを買った私2011/10/27 01:21

 学会のシンポジウムの準備が一段落。経典の翻訳もとりあえず終わった。後は、資料等の整理と、泥縄式だが当日の発表内容を詰めなくては。ただ、授業の準備、雑務が入って、なかなか時間がとれないのがつらいところ。

 ノートパソコンの修理をヤマダ電機に出したのだが、もうメーカーで部品がないと返品されてきたので、取りに行った。ついでに、いろいろとタブレットなどを見ていたのだが、やはり欲しくなった。別に何に使うというわけてはないのだが、電車の中でタブレットを使ってみるのを見ると、つい自分もやってみたくなる。

 それで、ついにタブレットを購入。東芝のレグザである。最新版で片手で持てるくらいの大きさが気に入った。無線ラン対応だが、試しに電子書籍を購入。今電車の中で読んでいる。これが以外と疲れる。下を向くので特に首の頸椎が痛くなる。私はこれが持病なので、やや不安だ。電子書籍の読書は度が過ぎないようにしなくてはならないようだ。ただ、ワードとパワーポイントが使えるのはなかなかいい。論文など入れておけばいつでも読めるし、メモ程度の文章なら打ち込めるので使いようでは重宝である。

 『思想としての3.11』(河出書房新社)をつつじヶ丘の「書原」で買う。吉本隆明へのインタビューが載っていたので、さすがに気になって買い求めた。インタビュアーは知り合いの編集者だ。吉本は、原発の事故は、素粒子や放射能といった人間の細胞を透過してしまうような物質を作りだしてしまったことの問題で、この技術を安全なものにしていくように突き詰めていくしか仕方がないというような言い方をしている。

 このことは人間が終わりに近づいたくらい悲観的な事態だが、この道を行くしかないと言っている。ただ希望があるとすれば、平均寿命が確実に延びていることで、将来百歳くらいになるのではないか、そう考えれば宇宙と同じ現象を人間も味わえるようになる(宮沢賢治みたいに)。それが希望と言えば希望と言う。

 反核や反原発に批判的だった吉本らしい発言で、さすがにぼけてないなと感心。他の知識人はみな同じスタンス。つまり、反原発もしくは文明批判である。ただ、哲学者のものいいはとても晦渋で、この問題に何もいうつもりはないといいながら、反原発のニュアンスはきちっと保持する。さすがに、吉本のように、原発反対の国民が全部でないのは良いことだなどというようなことは絶対に言わない。私だって、そう思ったって言えないだろう。

 今言えることは、原発はこれからも事故は起きるということ。今の国家官僚や東電は原発を安全に管理運用する能力がないということ。まずは、このことを前提にしてここから現実的な対応を考えて行くしかないだろう。

 原発は国民の一部にとって生活の一部である。そのように国家がしたという面はあるが、巨大な産業である以上、その経済効果によって生活の一部にならざるを得ない。リスク覚悟で生活を選んだという人々に対して、文明批判といった抽象的な理屈で批判しても彼らを説得は出来ない。この説得は難しいと思う。何故なら、理屈で批判する知識人の多くは生活問題を抱えていないからだ。

 この本で得た知識だが、蒸気機関の発明は、実は無数の職人達が、必要上あちこちで作っていたものであり、最初に蒸気機関の理論があったわけではないという。つまり、職人があちこちで作りあげた機械を、後に総合して一つの理論が出来上がったというわけである。技術の発展というのはそういうものである。つまり、誰かが理論として発明して技術が発展していくというより、技術者の無数の試行錯誤がくり返されて、その結果、技術が進歩し理論が整えられる。

 ある技術が、人間にとって悪になり得るとしたとき、その技術を抑えられるか、という問題になったとき、その社会が独裁国家でない限り無理ということになる。つまり、北朝鮮のように技術を国家が独占して、国民に自由に技術を委ねない国家でない限り技術者は、言わば業のように技術の進歩に身を費やすものである。それが言わば自由ということであり、生活の上に技術があるということでもある。

 それならその悪になりかねない技術をどうするのか。たぶんこれは永遠の課題なのだろうと思う。われわれは、火星に行く技術、人工細胞を作り出す技術を手に入れた。この技術だって悪になりかねない。原発も同じである。技術者のだれかを抑えても他の誰かが同じ技術を作ってしまう。そういうものである。自由な社会というのはそういう社会なのだ。

 この地球に70億の人間がいる。もし、地球にやさしいエコな生活を地球上の人々が営み始めたら、30億に人間は格差社会の中で餓死するしかないだろう。エコな生活と叫んでる人たちは、貧乏には死ね、と言っていることと同じであるといういことも知らなければならないだろう。この70億を死なせないためには、経済のある程度の発展は宿命である。

 が、現在の経済発展は技術の進歩によって支えられている。しかし、その経済発展のためにどこまでリスクを覚悟しなければならないのか。飢えに瀕していればかなりのリスクを引き受ける。が、豊かであれば少しのリスクも嫌である。この問題は難しいのだ。私にも答えはない。

 タブレットを買った私は、いったいどういう立場なのだろうか。

偲ぶ会2011/10/30 11:05

 昨日、2年前不慮の死を遂げた詩人奥村真を偲ぶ会が飯田橋で行われ出席。久しぶりに会う人たちもいたが、ほとんどは始めて逢うひとたちである。彼とは学生運動時代からの知り合いであるが、詩人になってからの知人・友人たちの主催なので、私の知らない人たちがほとんどだった。彼は、学生運動の後、私塾寺子屋で内村剛介のところでロシア語を学んだり、現代詩を学んだりしていたので、その時代の友人達が多いようだ。

 会場で、彼のいろいろなエピソードを聞いたが、やはり彼は無頼派を生き抜こうとしたのだとよくわかった。私生活はいたって真面目でマメであると奥さんは語っていた。ただ、酒を飲むと、その飲み方は尋常ではない。それは私もよく知っている。彼は60歳まで生きたが、よくあの歳まで生きていられたと皆が言うくらい、酒を飲んだ後の無頼ぶりは相当なものだった。

 太宰や安吾たちの無頼派が周囲から一目置かれるのは、その底に深い絶望があることがわかるからである。奥村にもそれがあった。偲ぶ会に出席していた詩人が、彼の詩は難解だとかあまりいいとはおもえなかった、と言っていたが、たぶん、それは、彼の詩が、その絶望をすくいとるというより、その絶望をカモフラージュするものになっていたからであろう。

 絶望を隠しながら、やや斜に構えた饒舌な言葉で、この世を生きることになんの意味がある?というような詩を読まされたら、普通は、ついていけない。たぶんに、そういうところがあった。この奥村が気に掛けていた男にMがいた。奥村の大学時代の同級で、二度死んだ男である。会のなかで、このMのことも話題になった。Mは、凄惨な内ゲバのなかで人生を過ごした男である。刑務所を行き来していたが、ある時彼の死亡通知が届き、葬式をしたということだ。そのことの一部始終を奥村からよく聞かされた。海で入水したということである。ところが、しばらくして彼が生きているという情報が伝わり、あの葬式はなんだった、ということになった。奥村も何が何だかわからんと呆然としていた。

 其の後のことをしらなかったが、偲ぶ会でMが最近獄死したのだということを聞いた。Mもまた、ほんものの絶望を生きたのだと思う。絶望を胸に秘めるなどと言う余裕など無く、出口のない生を死に場所を求めて生きたのだ。

 学生運動のような政治の後を生きる、というのは、こういった絶望を生きる、というものたちを生む。私はそこまでの絶望を背負い込まなくて済んだが、幾分かは共有している。

 タブレットを買って、マンガを読もうと、映画化されて話題になっている「ヒミズ」の第一巻を購入して読んでみた。これが面白かった。絶望が伝わってきた。情けなくて思わず笑ってしまう絶望だが、どこか奥村の詩につながるところがある。こういう情けなさを、文学やマンガで表現出来ていることに安堵を覚える。

                       逝きしもの偲んで帰る秋の坂