金ぴかの自然神2011/09/06 23:30

 今度の中国調査の目的の一つは、ナシ族の自然神である署神を祭ったという公園を見に行くことだった。公園は、麗江から近い山の麓。麗江の水源の場所で、従来ここで祭祀が行われていた場所である。ここに、当局は、かなり大規模な公園を作った。もちろん、有料である。

 この公園のコンセプトは、自然神を祭った公園ということであり、その自然神がわれわれが、三年前に調査した署神である。三年前にもこの公園はあったそうであるが、まだ署神の像は出来ていなかったようである。当局の力のいれようは並々ならぬものがある。水源であるから水がきれいである。ところが、その池には、あろうことか錦鯉を飼っている。水源の池になんてことをとやるせなくなったが、鯉でも飼わないと観光地らしくないと思ったのだろうか。

 この公園のシンボルは、署神である。水源の神樹に根本にもともとは祭っていたということだが、その神樹の前の池の真ん中に、大きな金ぴかの署神像がそびえ立っていた。下半身は蛇なのだが、その造形がおかしい。とぐろをまいているのが本来だが、真ん中に太い蛇が直立で立ち、その周囲をたくさんの細い蛇がスカートのように囲むという変なフォルムになっている。

 噂に聞いてはいたがある意味でとても感動的であった。ここまで原形を無視できるのはすごいことだ。本来の姿などよりこっちの方が公園のシンボルとしてはかっこいいし、観光客も喜ぶ、観光客は別に本来の形などどうでもいいのだ、それらしき像があって記念写真をとって帰って話題になればいいのだ、といういかにもといった思惑がよくわかる。どうせ誰も信じてやしないのだから、本物は博物館か書物にあればいい、観光客が見たいのは、こっちなのだ、という確信がこの金ぴかの像には満ちあふれている。

 私が自然神である署神に関心を持ったのは、五年前であったが、麗江の役人もまた関心を示していたのだ。私は環境問題と文化論をどうクロスさせるかという興味からだが、当局は、環境問題に人の関心が向かういまこそ、署神を売り出すチャンスだと考えたのである。

 私も麗江の役人もそんなに違いがあるわけではない。私は学問的な興味だが、学問的だから偉いなどと言うつもりはない。ただ、役人のあの金ぴかの像の作り方は、あまりにも学問の対極あるので戸惑うだけだ。それから、学問という立場を抜きにして、心配なのは、あのセンスはそのうち絶対観光客に飽きられるだろうということだ。いまは中国は観光ブームでバブルだから、観光客は来るが、ブームが去れば、この公園はたぶん閑古鳥が鳴くだろう。投資した資金は回収できないかもしれないし、失業者もでるだろう。そっちの方が心配である。どうせ公園作るなら、もっとうまく作ればいいものを、と思うが、結局、何処かの公園に似せて作るしかノウハウを持たないのだ。

 大事な水源を観光地にして汚さないといいが、とおもいながら、公園を後にした。

                        夏の異国大樹の神に目を見張る

後味の悪さ2011/09/13 00:19

九月だというのに暑い。山小屋にしばらくいたが、11日に帰ってきた。帰りたくはなかったが明日から会議。校務は続くだ。

 山小屋では、天気もよく快適だったが、仕事もあってのんびりというわけにもいかなかった。18日に京都で遠野物語の研究会がある。ここんとこ毎年やっているが、さすがに、ネタ切れで何を発表したらいいか悩んでいる。

 11月の学会シンポジウムの準備で、ナシ族の署の儀礼の経典を訳しているが、これがはかどらない。私の中国語の知識のなさが理由だが、経典というのは、なかなか訳しにくい。世界で唯一使用されている象形文字であるトンパ文字を漢訳してある経典で、その漢語を日本語に訳すのだが、全体の意味がうまく通らない。個々の場面の意味はそれなりにわかっても、全体として何をいっているのかわからないところが多い。経典てこういうものなのだろうと思うが、なかなか手強い。

 今政治では大臣が失言で辞任ということが話題になっている。どうもこの辞任劇、何となくすっきりしない。言葉にかかわる職業に就いている私としては、特にすっきりしない。放射能で汚染され誰もいなくなった悲惨な町を「死の町」とたとえたことが被災者を傷つけたという。これはたとえの表現だ。大臣は、悲惨な様子を、ややショッキングな言い方でたとえ、悲惨さを強調することで、早くこの悲惨な状況を改善しなければ、という流れで発言したのであろう。

 ところが「死の町」の言葉だけが取り出され、不用意だと責め立てられた。それじゃ、当たり障りのないことばでたとえた方がよかったのか。世間が注目するややショッキングな言葉でたとえることは、よくあることだ。そのほうが日本中に悲惨さが伝わり、復興への準備も促進しやすい。だが、当たり障りの無いことばで形容すれば、福島の放射能汚染地域の現状を誰も日常の光景のように聞き流す。そのように聞き流さないようにするために「死の町」という形容があったとすれば、むしろ、「死の町」は被災者にとって復興を促す戦略的なことばであったはずだ。考えてみれば、そんな当然のことをいっさい無視して、忌み言葉を発したというように騒ぎ立てる。これは、明らかな揚げ足取りであって、政局を作り出したい意図よって、政治的に「ことば」が利用されたのだと思われる。

 また「放射能をつけてやる」は明らかに、記者の意図的なリークである。たぶん気の緩んだ大臣が記者達にふざけたのだろうが、そのとき記者達はそのことばを問題視しなかった。よくある冗談のように受け取ったらしい。いわゆるオフレコである。だから、次の日に記者たちは、その発言を公にはしなかった。ここまではごく常識的な対応である。ところが、「死の町」発言が話題になると、大臣を責め立てようという機運がメディアに拡がり、そういえばあんなことを言っていたとこの「放射能をつけてやる」発言が、記者達によって思い起こされ、公にされたということのようだ。インターネットのメディア批判に、各大手新聞のこの発言の言葉が、みんな異なっていることをとりあげ、誰も正確に記憶していない言葉をとりあげて、大臣を辞めさせる記事を書くのはひどすぎる、これは記者の捏造だと批判していた。

 フジテレビのニュースワイドショーコメンテーター(確かニューズウィーク日本版の編集長だった竹田氏)も、この辞任劇はあきらかに日本のメディアに問題がある。メディアが政局を作りだしている、と批判していた。

 大臣の資質云々という言い方がされているが、その前に、私的な場での気の緩んだ冗談を、個人の資質のなさのように公のメディアに載せてしまう記者たちの資質も問題にされるべきだろう。大臣の資質がどうなのか私は知らない。フジテレビに出ていたコメンテーターの話によれば、国会議員の中では、福島の被災地にとてもよく足を運んで熱心に救援活動している人だった、ということである。

 大臣としての資質とは、仕事をしてもらってから判断しても遅くはないだろう。こんな言葉狩りのようなやり方で、資質がないと言われたら、たまったものではない。言葉尻をとらえてこの言葉はこのように解釈出来るから、あなたは人間として失格だとか、そのうち寝言まで録音されて、資質がないと糾弾される社会になってしまうのだろうか。

 むろん、公の場での許されない失言というものはあるだろう。が、今回は、どうも、その許されなさを、本人ではなく、メディア側が作り上げたところがある。いいかえれば、それは権力というものの怖さでもある。かつて権力による粛正は、ほとんど言葉尻を捉えて行われた。言葉は受け取り次第でどのようにも解釈され得るものだ。権力は、それを利用して、気に入らない者を弾圧する。弾圧の常套手段である。今回はメディアが権力を行使しているようで嫌な気分である。とにかく、今度の辞任劇に、私は嫌な社会になってしまうような後味の悪さを感じたのである。

諸行無常2011/09/19 23:02

 京都での研究会から帰宅。いつもの遠野物語研究会である。近々研究会の活動のまとめとして本を出す予定。当然、私も書くことになる。午後Mさんと一緒に新幹線で帰るが、連休の最後とあって禁煙席がとれない、しかたがないので、喫煙席で京都から東京へ。東京に近くなったときは体中にタバコのにおいが染みつき、頭が痛くなった。喫煙車には本当にタバコを吸う奴が集まるので車内が煙でもやっている状態。喫煙者には気の毒だが、新幹線もそろそろ全車両禁煙にできないものか。中央線の特急はすでに全車禁煙である。Mさんとも久しぶりで、話が弾む。

 京都へは昨日出かける。それまで、ナシ族の経典の翻訳で忙しかった。一巻をやっと終える。翻訳と言っても大ざっぱな訳はすでに声で張先生が録音しているので、私はそれを細かに見ていきながら活字に直していくという作業。私が最初から訳すと数倍時間がかかる。ただ、それでも、意味の通らないところがいくつも出てくる。また、神の名前はほとんど音仮名。張先生の発音では正確な音がとれない。そこで、辞書を引きながら漢字の発音を確かめながらの作業になる。意味の通らない所もいちいち辞書を引きながら意味を確認する。けっこう大変なのである。

 経典の翻訳は11月5日のアジア民族文化学会シンポジウムに資料として出す予定である。あと二巻ほど翻訳する予定なのだが、間に合うかどうか。明日から学校が始まり、授業の準備もしなくてはならない。相変わらずだが、何とかなるだろう精神でいくしかない。そういえば今週の22日は紀要原稿の締め切り、まだ一行も書いていない。一週間締め切りを延ばしてもらうしかないだろう。これもなんとかなるだろうである。

 わが家の近くに、始発のバス停がある。ここからつつじが丘駅行きのバスが出る。最近よくこのバスを使う。つつじヶ丘駅は急行が止まるので仙川より便利である。また始発なので、時間が正確ということもある。ただ、一時間に二本しかない。でも、時刻が分かっていれば便利である。

 そこで最近つつじヶ丘駅で買い物をしたりするのだが、この駅前にある「書原」という本屋は、最近では珍しいこだわった本揃えをしていて、なかなか気に入っている。つつじが丘駅まで乗って来たときは、バスの時間までこの本屋で時間を潰すようにしている。

 宇野常寛『リトルピープルの時代』と内田樹の『最終講義』をこの本屋で買う。レジの前に吉村昭『三陸海岸大津波』の文庫が平積みになっていたので、おもわずそれも買い求める。ついでに、となりにやはり平積みになっていた『関東大震災』も買った。奥さんは、ここで、最近話題になっている大学院生が書いたという『フクシマ論』を買った。

 レジ前に吉村昭の文庫を並べているということで普通の本屋でないことがわかるだろう。そんなに大きな本屋ではないが、読みたいと思う本がけっこう並んでいる。こういう本屋がまだ生き残っていたことに何となくほっとした気持ちである。

 内田樹の本と吉村昭の『三陸海岸大津波』は新幹線の中で読了。吉村昭の本を読み、人はどんなひどい災害にあってもそのことをすぐに忘れてしまうものだと実感。明治以降、明治二九年、昭和初期、戦後のチリ自身の津波と、三回ひどい目に遭い、それに今度である。津波にあった人の聞き書きに、「大丈夫だよ」といった言葉に何の根拠もなく安心してしまうといった事が語られている。どの津波の時にもそういう語りがある。つまり、われわれは最悪を想像したがらない存在なのだ。根拠がなくても、「だいじょうぶだ」という言葉を誰かが発すればそれにすがってしまう。そして逃げ遅れるのだ。そういう人間の心理がよくわかる本である。

 いつも最悪を想定して振る舞ったら疲れてしまう。が、いざというとき、最悪を想定してふるまえるようにするにはどうしたらいいのか。いろいろ考えさせる本である。それにしても、死者というものを実に淡々と描いている。『方丈記』を思い出す。災害のとき、この世は諸行無常なのだ。そのように読めてしまう本である。『関東大震災』も半分ほど読んだが、こっちはもっと諸行無常である。辛くて途中で読むのを止めた。

震災忌諸行無常の本を閉づ

折口はやっぱり難解2011/09/30 00:53

 なんとか紀要の論を書き終え、一息ついた。正直ブログを書く暇もないくらい大変だった。学校では雑務で忙しく、今日などは会議が3時から五つ連続してあり、さすがにへとへとである。

 学園祭も近づき、読書室委員のイベントの準備にも入った。恒例の古本市をやるのだが、古本が集まるか心配である。売り上げはユニセフに寄付をして世界の貧しい子供達のために少しでも役にたてればと思っている。もう読まない本、不要になった本、提供していただけるとありがたい。

11月初旬の、学会シンポジウムの準備もすぐに始めなければならない。自然と人間の関係がテーマだが、大きすぎるテーマなので、できるかどうか心配である。ナシ族の経典の翻訳も中断していたので、再開しなくてはならない。

 今日の会議の一つが広報委員会というやつで、ホームページに動画を載せようという企画をたてている。もう動画の時代である。学校や学科の紹介も、動画の方がアピール出来る。授業風景や学生の声など、動画にして、ホームページに載せる。学校の事務方に、専門の職員がいて、撮影から編集までただでやってくれる。これは助かる。

 紀要の論は、「問答」についての考察である。中国の少数民族の神話が問答でうたわれている、ということから、何故問答なのか、という考察である。まず、折口信夫の文学発生論を読み、そこでの問答についての論理を抜き出した。ところが、これが大変だった。とにかく難解なのである。難解なのは、論理が一つの流れになっていないからで、また、飛躍もあるからである。かなり慣れたつもりでも、あらためて丁寧に読むと、なかなかやっかいである。

 でも、だからこそ面白い。結局、折口の論を使って少数民族の神話や歌の問答を分析するのは無理がある、ということになったが、いろいろと発見もあり、その意味では充実した作業だったが、そのことと論の出来とは別の問題である。

 まだ授業ははじまったばかりで、授業としては今が一番乗っているときである。これからこういうように教えようとか、こんな風にサービスしようとか、いろいろ考える余裕がある。だが、しばらくすると、その余裕がなくなり、もう今年は、学生の満足度を回復するのは無理そうだな、というムードになって、落ち込みながら授業をする、ということになる。なるべく、そうならないようにしたいのだが、なかなか思うようにはいかないものである。人生というものはすべからくそうだ。

                 谷津を抜く爽やかな風犬走る