ようやく前期終わる2011/08/01 23:41

 ようやく前期の授業を終え、夏休みに入った。昨日から山小屋に来ている。それまでは大変だった。身体がよくもったというほど仕事をした。土日はオープンキャンパスに研究会で出校。土曜が研究会、日曜日は模擬授業である。その前の金曜日は、某大学院の学生と茨城の鹿島神宮と夜刀神社へ。私の車で学生を連れて出かけた。大変だったが、なかなか面白かった。

 常陸国風土記に出てくる夜刀神の話は有名だが、一度どういう場所なのか見ておきたいと思った。夜刀神社というのはなく、愛宕神社が一応夜刀神社ということになっている。椎の池というのものある。

 地図には出ていない。グーグルの地図をいくら拡大してもそれらしき愛宕神社はでていない。それほど小さな神社なのである。ウィキペディアに神社の経度と緯度が出ているので、それを地図上で探すとただの山林を指すだけであるが、一応それを目安に行ってみると、確かにそこにあった。

 そこが常陸国風土記の記す場所なのかどうかはわからないが、多少ずれていたとしても、同じような谷津の地形であることには変わらない。つまり、霞ヶ浦から数キロ先にある、森の中で、それほど奥深いというわけでもない。ただ、水が湧く、というところが重要だ。霞ヶ浦はかつて塩水湖だったから、湧き水は貴重な水源だったに違いない。それほど大きな谷ではない。深い森でもない。つまり、人間と自然の神が対立するような大げさな場所ではない、ということである。このような地形なら、夜刀の神は簡単に排除されてしまうだろう、というのが印象である。開発するのにそんなに手間がかかるような地形ではないのである。池もまたそれほど大きなものとは思えないのである。

 茨城県から大渋滞の首都高を抜けようやく帰り、オホカムヅミの神の原稿を完成させて出版社に送る。原稿用紙12枚ほどの原稿だが、調べるのにけっこう手間がかかった。ひさしぶりに国会図書館にもいった。久しぶりに行ったので、本の請求の仕方ががらっとかわっていてとまどった。まず登録カードをその場で発行してもらい、中に入ると、たくさんパソコンがあり、そのパソコンで検索しパソコンで申し込む。すると、カウンターの前のテレビの画面に登録カードの番号が出る。自分の番号が出たらカウンターに受け取りに行くのである。病院と同じである。

 9日から中国へ調査に行く。その準備もしなくてはならない。二週間ほど行ってくる。今年もやはりシンポジウムに招待されていて、そこで発表をする。楚雄という町の大学で開かれるのだが、当初の予定は、五日間の予定であった。そのつもりでこちらも予定を立てた。ところが、今日突然、シンポジウムは三日間になったという連絡が来た。たぶん、参加者が少ないか、経費の問題だろう。よくあることである。問題は、早く終わってしまうので、スケジュールに空きがでてしまったことだ。宿泊の予約もしていない。今日何とか連絡をとって大理での予約を手配した。とれるかどうかはわからないが。

 前期の成績をつけ終え、一段落だが、前期の終わりに、短大の将来構想の会議が開かれ、議論となった。つい調子にのって、いろいろと言ったため、私なりの将来構想案をださざるをえなくなった。夏はこの仕事もせざるを得ない。学内の雑務や運営のことなどにかかわらず、研究生活のみに没頭というのが、出来ない性質らしい。が、そろそろ疲れてきたので、研究の方にウエイトを置きたいと切に願うのだが、実現できるかどうか。

                      何故かこの樹に虫どもが集う夏

中国から帰国2011/08/24 10:01

 22日、中国から帰国。二週間の長旅であった。といってもほとんどは大理で過ごした。途中、剣川や楚雄を訪れ、また大理に戻るという日程である。

 主に白族の「大本曲」の調査である。白族の流行歌を集めたテキストくらいに思っていたのだが、調査してみると、白族の共同体にとって「大本曲」がいろいろな機能を持っていることが次第にわかり、なかなかおもしろかった。

 楚雄民族学院大学でのシンポジウムに参加。日本側の発表は私一人である。私の発表は、問答に関するもので、少数民族の創世神話が問答で展開される事に触れ、一人で朗誦されるのとどう違うのか、何故問答なのか、ということを、折口信夫の文学の発生の問題を援用しながら論じた。中国側の研究者には、かなり刺激的な内容だったらしく、かなり注目を浴びた。むろん、議論の的にもなった。つまり、神話の内容ではなく、その表現形式そのものを研究対象にする、という発想が彼らには余りなく、そのことを気づかされた、ということであるようだ。とりあえず、日本側の代表としてそれなりの責任を果たせた。よかったというところである。

 二週間それほど移動があるわけではなく、体力的には辛い調査ではなかったのだが、さすがに、疲れたのか、22日の帰国の飛行機では、ほとんど食べることができなかった。家に帰って熱のあることがわかる。23日は一日寝ていた。疲れがたまっていたようだ。何とか回復はしたがまだ本調子ではない。歳をとり、以前のようにはいかないなと痛感。

宿命的二項対立2011/08/30 01:19

 中国からかえって、忙しい日が続く。ブログを書く暇もない。主に勤め先の雑務だが、これがいくつもの案件があって、休むどころではない。9月の後半に研究会があって、その準備もあり、紀要の原稿も書かなくてはならない。

 少しは涼しくはなったがまだ暑い日が続く。のんびり過ごす夏休みというのを最近味わったことがないのは、この身の宿命なのかなどとため息がでるばかりである。

 世界陸上の100メートル決勝をたまたま見ていたが、ボルトがフライングしたのには驚いた。だれが見てもフライングである。かなりナーバスになっていたようだ。世界一で当たり前というプレッシャーなのだろう。会見の仕草や、準備の仕草、マスコミに見せるパフォーマンス。今から思えば、余裕たっぷりのように見えて実はあせりの裏返しのようにも見える。不安を悟られまいとする強者が見せる態度だ。

 民主等の代表が決まる。妥当なところなのだろう。これも、海江田のパフォーマンスの失敗のように見える。小沢と会ってから急に路線を小沢寄りに鮮明にした。これも自分に自信のないことの現れ。増税路線でぶれなかった野田に適わなかった。ただ、野田は、松下政経塾出身で前原と同じタカ派。A級戦犯は戦争犯罪人ではないというのが持論。アジアとの関係うまくいくかどうか。ぶれないのはいいが、意固地になるとみんなが迷惑する場合もある。小泉首相の靖国参拝にはみんなが迷惑した。そうならなければいいが。

 秋の学会テーマが、環境と神、あるいはそこに身体の問題をいれようかと思ってもいる。自然と文明、人間と自然あるいは環境というテーマは、どうしても二項対立的になる。むろん。論理としての二項対立はだめだとは簡単に言えないが、この対立、人間(文明)が自然を破壊している、という文脈の上に設定されている、という事情がある。つまりだ、自然を人間にとって他者とする、というようにこの二項対立は設定され、その他者との関係を、どう描くのかが問われるというわけだ。むろん、この他者は、排除すべきでなく大事にすべきという前提をあらかじめ与えられている。

 この対立をつきつめると、どうしても、それじゃ人間が地球から退場すれば解決じゃん、と言いたくなってしまう。これは禁じ手なのだが、この論理の誘惑は強い。何故なら、他者である神が人間を排除することはあり得ないが、人間が自分自身を排除することは十分にあり得るからだ。自然よごめんなさい、わたしたちがいなくなります、と言ってはならない根拠とは何なのか。自然は人間のものだからか。

 そう言えない根拠は、実は、他者は人間自身だから、ということだ。つまり、他者を排除は出来ないししてはいけない。それが、人間が作り上げてきた大事なルールだ。ややこしいが、自然は自分でもある、という視点があってもいいということ。実は身体こそが、そう言い得る一つの根拠になる。身体は人間にとって自然であり、その身体は身体を取り巻く外界の環境の一部である。

 つまり、そうである以上、人間は自然から退場するというわけにはいかないのだ。地球から逃げ出しても、逃げ出した先でまた、自然対人間という二項対立に悩むことになる。身体を持つ限りそうなる。是は宿命的な枠組みの問いなのだと考えた方が良い。

 たぶん、このことをすでに自明のことであったのに、それをややこしくしているのが、自然対文明などという二項対立を作ってどう共生したらいいか悩んでいる我々なのかもしれない。