擬樹法2010/12/31 22:22

29日に山小屋へ。ずっと天気が悪く、大晦日の今日ようやく晴れた。大雪というわけではないが、そこそこ雪は積もっている。明日は久しぶりに雪の正月となりそうである。いつも山小屋で原稿書いたり本を読んだりと意気込んで来るのだが、だいたい何も出来ないで過ごしてしまう。
 
 今のところ、今年もそんな感じである。今年はいそがしかったせいか、怠けていたのか、年賀状を書くのが遅くなり、今日郵便局に持って行って投函。だから、私の年賀状は元旦にはつきませんので。

 益田勝実の本を読んでいるのだが、なかなか進まない。三冊目の「記紀歌謡」を今読んでいる。やはり面白い。以前に読んではいるが、いろいろな発見がある。この歳になって昔読んだ本を読み返すと、最初に読んだときに何故気づかなかったのだろう、と思う時がよくあるが、益田勝実の本もほんとうにそうである。

 記紀歌謡や万葉に樹木の擬人的な用法があるが、益田勝実はこれは擬人法ではなく「擬樹法」なのだという。日本の古代では、樹の立場にたって発想することがあったのだという。だからそれはたんに樹を人に見立てるのではなく、人を樹に見立てるのだから、擬樹法なのだというのである。

南淵の細川山に立つ檀弓(まゆみ)束(づか)まくまで人に知らゆな(万葉7-1330)という歌があるが、これは、南淵(飛鳥川の上流)にある細川山に立っている檀の樹よ、お前を弓束に巻き付けて弓として作りあげて自分のものにするまで、人に知られるな、という意味であるが、「檀の樹」は思う女性のことで、つまり、思う女を檀の樹にたとえて、それを完全にわがものにするまでは、というのが一般的な解釈である。

 だが、益田勝実は、この歌は、樹木を愛人に見立ててるのではなく、愛人を樹木に見立てている歌だとする。だからこれは擬樹法だというのである。樹を人のように見るのではなく、人を樹のように見るというわけである。人を花のように見るのはよくある。そのときの花はすでに記号化されていて植物そのものではない。が、樹のように見る、というのはそうではない。樹木は、簡単には記号化されない自然としての深淵を抱え込んでいる。

 この擬樹法のこと、最初読んだときまったく見落としていた。が、言われてみて、確かにアニミズムはこういう言葉の働きの中にあるのかもしれないなどと思ったのである。

 再読とは楽しいものである。ただ、論を書かなきゃいけないというプレッシャーがなければだ。少なくとも私は楽しいと思う余裕はない。こういうことを言っていたんだ、と発見することばかりで、つい興味がそういうところへ引き寄せられて益田勝実を論じることと離れていくような気がして、なんだか焦るのである。

                     森に在るただ樹の如し年の暮れ

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://okanokabe.asablo.jp/blog/2010/12/31/5618032/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。