照葉樹林文化を考える2009/07/29 00:45

 今日はいつもの定例の会議がないので、家で仕事をすることにした。「照葉樹林文化のの成立と現在」という本を朝から読んでいた。昼を食べ、また読み出すと、学校から電話がかかってきた。先生、3時から教員選考基準の会議が入ってるようですが、と助手さんに教えられる。

 いけねえ、忘れてた。今日は何にもないと思っていたが、そういえばあった。手帳に書くのも、助手さんに伝えるのも忘れていた。何故助手さんがわかったかというと、事務系のメンバーの予定に会議が入っていることがわかり、どうもその会議は私が出るものではないかと思い、私の家に連絡してきたということだ。勤め先のシステムはすすんでいて、会議の予定など学内のオンラインで確認できるのである。

 電話がかかってきたのが2時5分頃。さて3時の会議に間に合うか。いそいで支度して飛び出した。バス停まで5分。なかなかバスがこない。仕方なくタクシーを捕まえて成城学園前駅まで。2時21分の急行に間に合った。学校についたのが3時ちょうど。会議室には3分おくれで飛び込んだ。ぎりぎりセーフである。

 こういうことは時々ある。川越にいたときもあったが、その時は行くのを諦めた。都内に越して来たということは、こういうときに急いで駆けつることができるということだ。いいことなのか、悪い事なのか。助手さんは、電話しないほうがよかったでしょうか、と同情して言ってくれた。

 会議にも出なくてもいいのと出ないとまずいのがある。今回のはややうちわの会議なのだが、それだけに出ないと迷惑がかかるので、教えてくれた助手さんには感謝している。

 「照葉樹林文化の成立と現在」は読了。照葉文化論の意義とは、日本の基層文化を弥生時代ではなく、縄文時代であると、とらえ返したことにある。その意義は失ってはいないのだが、ただ、稲作文化の扱いでかなり批判を受け、今ではあまり顧みられない文化論になってしまった。

 照葉樹林文化論は、稲作の発生を雲南地域としたが、その後長江中下流域が起源であるとほぼ実証されたことで、雲南を照葉樹林帯の農耕文化センターとする構想そのものが崩れたとみなされたのである。

 照葉樹林文化論は、農耕の発生史を下敷きにしている。雑穀を栽培する焼畑農耕から水稲栽培が展開していくとし、だから焼き畑農耕の雲南が米(陸稲)の起源でもあると推論していったのだが、最近の研究では、山地の陸稲が平地に降りて水稲栽培になることはない、むしろ逆で、水稲栽培の稲が山地へもたらされ陸稲になったという説が出ている。

 つまり問題は、ある地域に生成しかつ分布する農耕文化は、発展段階的な歴史モデルでは簡単に説明出来ないということである。例えば日本の縄文時代には、焼畑で陸稲が栽培されていたことがわかっており、それが南方(熱帯アジア)を起源とする熱帯ジャポニカらしい。長江流域を起源とする水稲栽培の種は温帯ジャポニカであるから、縄文時代には、南方から熱帯ジャポニカが雑穀文化とともに入ってきて、照葉樹林文化的農耕文化を作ったが、その後、水稲栽培である温帯ジャポニカが入ってきて、弥生時代を形成し、熱帯ジャポニカを淘汰していったということらしい(佐藤洋一郎)。

 こう考えると、日本の農耕文化の変遷というのは、圧倒的に外部の影響下に置かれていることがわかる。とすると、縄文と弥生という二つの時代区分は、より広いアジア的な視点から見ると、同時代的に併存していたとも言える。少なくとも、長江流域の水稲栽培は7000年以前から行われていた。雲南の遺跡から発掘された稲(陸稲)はせいぜい4000年前と言われており、雲南の縄文的農耕文化は、長江の水稲文化(日本で言う弥生文化)より古いとは言えないのである。    

 そう考えれば、縄文と弥生を、対立的に見たり、時代で区切るような見方は、少なくともその文化的な見方としては、再考されるべきだろう。

                      青田を見つめるは古代人ならむ