月下美人と成績評価と2009/07/24 01:07


 我が家の月下美人の花が今夜咲いた。夜咲く花として有名だが、なかなかきれいな花である。写真はチビと月下美人。

 サボテン科の花だから、砂漠のような環境で子孫を残すためなのだろう、さすがに花は大きく匂いも強い。

 来週で前期も終わる。授業は7月31日まである。昔と比べるとほんとに授業期間が長くなった。かつては、五月の連休過ぎに本格的な授業が始まり、7月に入るともう休み、というのが多かった。大学というのはほんとに休みが多いなと思ったものだが、今ではそうは思わない。

 今日の教授会で、成績評価の基準をどう統一するか、という話になった。大学の成績評価は、相対評価ではなく、絶対評価なのだが、実態としては相対評価で行っている場合が多い。そこで混乱が起きる。例えば演習のような授業は、絶対評価になじむが、多人数の講義科目になると、相対評価がなじむ。つまり、Aの数を何割と決めて評価するのか、それとも、この課題をクリア出来たらA評価するか、というように、どちらで評価するかである。

 教育というのは、ある達成目標があって、その目標を達成させることが目的である。とすれば、評価というのは自ずから絶対評価になる。仮に、ある達成目標をクリアすればAとする。教育は全員にA評価を取らせることが目的となる。とすれば、Aは何割、と最初から決めてしまうのはおかしいということになる。

 が、こういう考え方もある。達成目標の達成は最低の評価ラインだとする。つまり、C評価である。A評価は、達成した者の中で特に優れた者だけに与える、と考える。とすると、これは相対評価に近くなる。現実は、それぞれの授業のなかで、達成目標のラインを上げ下げしながら、絶対評価にしたり、相対評価にしたりしている。

 例えば、入学すると全学生は、英語の統一テストを受ける。その点数の高低によって、習熟度別にクラス分けされる。上位のクラスと基礎のクラスが当然出来る。問題は評価の仕方である。授業の到達目標をあるレベルの点数にしてしまうと、上位のクラスは、努力しようがしまいが、全員A評価になり、下位の基礎クラスは、どんなに努力しても、その点数を最後にとれなければA評価は誰もいないということになる。とすれば、上位のクラスも下位のクラスもやる気を失うということになる。これでは教育にならない。

 そこで、達成目標を上位と下位に別々に分けて、それに応じて評価するという方法をとらざるを得ない。が、すると上位クラスの学生は、努力しなければA評価はとれないなら、下位のクラスに入ることを希望する。そうすれば楽にAをもらえるからである。入れなければ不公平だと思うだろう。が、授業で良い成績を取るということは、それなりに努力して向上するということのプロセスと結果に対して与えられるのが理想だ。結果だけに与えられるのだとしたら、それは資格試験と同じことになる。だから、下位クラスでは、上位クラスの英語の最も低い点数のものより低い点数であっても、努力によって点数がある程度向上したと認められればA評価をもらってもおかしくはない。

 むろん、達成目標をあまり細かく分けすぎると、今度は大学全体の教育目標のレベルを低くせざるを得なくなり、教育の質を落とすことになる。このように、成績の基準をどう考えるのかというのはなかなか難しいのである。

 成績をつけるということは、実は、ある共通した学習目的を持つ集団に競争原理を持ち込むことでもある。でないと、人は努力しない。これだけ出来たら全員Aをあげますよ、と誰でも獲得できる目標を設定したら、誰も勉強しない。その到達目標が難しければ、出来る者出来ない者という差別が生まれるから、皆努力する。

 成績をつける側が一番楽なのは、相対評価である。試験の出来が良かろうが悪かろうが、一定の割合でAとかBとか付ければいいのだから。が、それでは、出来が悪いのは、学生の問題なのか、教える側の問題なのか検証する機会がなくなる。これが出来なければ全員落第だという試験があってもいい。むろん、そのためには、全員合格させる教え方の努力が問われるが。あるいは、けっこうみんな頑張った、と全員にAをあげる授業があってもいい。ただし、学生の側にそれなりの達成感があるのかどうか問われるが。

 結局、絶対評価なのだが、それなりの競争原理が働くレベルで、というところが適度な成績評価の基準ということになろうか。

                        生き残るために咲く月下美人も