「常しへの道」評2009/07/07 00:15


 日曜は、短歌時評の原稿を一日書く。この日が締め切りで後がない。扱った歌集は坂口弘『常しへの道』(角川書店)。

 坂口弘の第2冊目の歌集である。1冊目は『坂口弘歌稿』(朝日新聞社1993)で、だいぶ評判になった。私も評論『言葉の重力』の冒頭はこの歌集における歌の力とは何か、といった論である。第一歌集を出してから、筆者は死刑が確定し、現在、獄中で死刑を待つ身になっている。

 だから歌の内容も、死刑の知らせの予感に敏感になっている日常の風景が多く歌われている。次のようにだ。

    通路の上
    蒸気が漏れて揺蕩へり
    あの下を昨日曳かれ行きしか

    気配せる
    闇の外の面に目を凝らせば
    ああ落蝉の羽撃きなりき

ただ、それだけではなく、阪神淡路大震災の地震、オウム真理教の事件、9.11の自爆テロなど。社会を揺るがした災害や事件が扱われている。一方で、連合赤軍事件の自分なりの総括も歌にしている。

 第一歌集ではどう歌ったところで、過去に時間が戻らざるを得ない、そういう自分の現在をひたすら言葉にしていた。当然だろうが、今度の歌集では、外部の出来事を詩の表現として工夫して描こうという意図があり、ある意味では、表現者(歌人)になったのだなというようにも見える。例えばこんな歌がある。

   幼子が津波にさらはれ
   父の手が夢中に伸びて
   襟首を掴みぬ 

 津波の瞬間を、自分がその場で目撃したかのように歌っている。3行書きにしているのは石川啄木の影響である。分かりやすく、リズムを視覚化するためであるという。
 おそらくこのように表現者として歌が歌えるのは、自分なりに総括をつきめて、これ以上は無理だろうと思うところまで辿り着いたからではないか。でなければ、なかなか詩的な表現に自覚的であろうとまで、自分を自由にはしないはずだ。
 辿り着いた地点とは、結局、当時の学生運動の本質的な問題にまで思考が及んだかどうかである。例えば次のような歌を読むと私は及んでいるのではないかと思える。

   友を殺め
   絶望を与へたる君が
   愛せし歌は「希望」にてありき

   左翼活動は
   一人のときにうまくゆき
   組織のときは躓きばかり
 
 近代の革命運動が抱え込んだジレンマとは以上のようなことである。誰もが希望や理想を抱きながらやっていることは違ってしまうのだ。それは、一人ではなく、組織というような多数の活動になるからである。人が集まればそこには社会的な関係が成立する。その関係には、ある意味人間的とも言える世俗性が混じり込む。人間性の回復のための革命は、この人間的でもある世俗性を排除(連合赤軍はリンチという形で行った)しなければならなくなる。そうしないと、革命は成就できないと考えるからだ。従って、革命の遂行はかなり非人間的になる。このジレンマは、革命思想が最初から持っていたものであり、連合赤軍は、最悪なかたちでそのジレンマにはまったのである。
 このジレンマをわたしたちは解決出来ているわけではない。だから坂口弘は、このジレンマに辿り着いても、すっきりするわけではない。が、とりあえず何故こうなってしまったのかという説明は、最も本質的なところで出来るところまではきた。その意味で、彼はとても聡明であると思う。

 以上のようなことを書いたのだが、活字になるより先に公開ということになったようだ。    
 難しい話ばかりでもなんなので、チビの写真をつけます。最近顔に表情が出てきて、いろんな顔をする。そんな顔の一枚。

        死刑待つ歌人を論ず五月闇