二つの恥ずかしさ ― 2009/04/03 11:06

久しぶりにいい天気になったので朝方散歩に出た。野川沿いの桜も見頃になってきた。わがマンションの桜も伐採したので少なめであるが満開である。それにしてもわがマンションの庭は自慢できるものである。様々な植物が植えてあり見ていて飽きない。今丁度二輪草が咲いている。朝方住人が蕗を摘んでいた。散歩していたら、山椒の樹もあった。やっぱり春はいい。マンションの住民の花見は今度の日曜である。天気が心配だが、我が家が花見の係りなので、日曜は大変である。庭にタープを張って、その下でバーベキューということになりそうだ。
中国の調査の続き。27日の午後に、今度は別の苗族の村に行く。ここでは、歌師の夫婦がいて、つまり、歌の得意なもの同士が結婚したというわけだ。私より上の年寄りだが、二人が出会った時にどんな歌を歌ったのか、その時を思い出してお二人で歌を掛け合ってくれませんか、と頼んだ。断ると思ったが、引き受けてくれた。
夫方はひとりで、奥さんの方はふたりの仲間と一緒に歌う。一度の掛け合いで二首ずつ歌う。それを四度繰り返した。最初は、男の方から女性に歌いかける。女性の持っているあめ玉を私にくれませんか、と歌う。女性は気に入ればあめ玉をあげるが、気に入らなければあげない。石を渡すこともある。男は、石をもらっても、めげてはいけない。この石は大地に戻ってあなたを支える、と言うようなことを歌って切り返す機智がないと相手に認めてもらえない。
歌が終わったら次に会う約束をする。そして、二人は歌師に歌の歌詞を教えてもらい、次の機会にまた歌を掛け合う。ただこの二人もそうであったそうだ。歌の上手い友人と一緒に行けばその友人から歌を教えてもらえる。
歌を掛け合ってもらった夫婦は歌を掛け合っているうちに、昔を思い出したのか、相手の手を握ったりし始めた。なかなかいい雰囲気になってきた。われわれに向けたサービスの意味もあるパフォーマンスであったろうが、場が華やいできたのは確かである。
歌のデートは一人では行かないということだ。2、3人で行く、相手もそうだ。何故と聞くと、恥ずかしいからだと答えが返ってくる。ということは、ここの村の人たちは、結婚の約束にいたるまでどうも二人だけで会うことは無いようなのである。ところが、午前中の村での聞き書きでは、掛け合うときは一対一で、他の人に見られないところで小さなこえで歌うと答えている。何故か、と聞くと恥ずかしいからだ、と言う。
村によって、歌の掛け合いのスタイルが違うのである。われわれのいくつかの村の調査から考えると、おそらくは二人だけではなくて、グルーブ同士で掛け合うのが一般的なようだ。
ただ、興味深いのは、恥ずかしいということの中身だが、二つの恥ずかしさがあるということだ。二人だけで話すのは恥ずかしい、というのと、二人だけでないと恥ずかしいということである。この場合誰に対して恥ずかしいのかというと、二人だけだと恥ずかしいは、恋愛の相手に対してであり、ふたりでないと恥ずかしいといううのは第三者に対してである。その違いが二つの恥ずかしさの理由になっている。
ただ、恋愛の相手と二人だけでいると恥ずかしいというのは、やはり、第三者の目が意識されていないわけではない。その意味では恥ずかしさの対象はおなじである。自分を守ろうとする制御の意識、つまり防衛本能がより強いのである。ふたりだけでいても、誰かに見られているかも知れないと思うから、防衛の姿勢を崩さない。
恋愛の歌と恥ずかしさはセットのものである。万葉集でも噂を歌った歌が多いが、これも恥ずかしさとかかわる。その意味で、二つの恥ずかしさが確認できたのはとても興味深い事であった。
桜も咲く穏やかならぬ心ある
中国の調査の続き。27日の午後に、今度は別の苗族の村に行く。ここでは、歌師の夫婦がいて、つまり、歌の得意なもの同士が結婚したというわけだ。私より上の年寄りだが、二人が出会った時にどんな歌を歌ったのか、その時を思い出してお二人で歌を掛け合ってくれませんか、と頼んだ。断ると思ったが、引き受けてくれた。
夫方はひとりで、奥さんの方はふたりの仲間と一緒に歌う。一度の掛け合いで二首ずつ歌う。それを四度繰り返した。最初は、男の方から女性に歌いかける。女性の持っているあめ玉を私にくれませんか、と歌う。女性は気に入ればあめ玉をあげるが、気に入らなければあげない。石を渡すこともある。男は、石をもらっても、めげてはいけない。この石は大地に戻ってあなたを支える、と言うようなことを歌って切り返す機智がないと相手に認めてもらえない。
歌が終わったら次に会う約束をする。そして、二人は歌師に歌の歌詞を教えてもらい、次の機会にまた歌を掛け合う。ただこの二人もそうであったそうだ。歌の上手い友人と一緒に行けばその友人から歌を教えてもらえる。
歌を掛け合ってもらった夫婦は歌を掛け合っているうちに、昔を思い出したのか、相手の手を握ったりし始めた。なかなかいい雰囲気になってきた。われわれに向けたサービスの意味もあるパフォーマンスであったろうが、場が華やいできたのは確かである。
歌のデートは一人では行かないということだ。2、3人で行く、相手もそうだ。何故と聞くと、恥ずかしいからだと答えが返ってくる。ということは、ここの村の人たちは、結婚の約束にいたるまでどうも二人だけで会うことは無いようなのである。ところが、午前中の村での聞き書きでは、掛け合うときは一対一で、他の人に見られないところで小さなこえで歌うと答えている。何故か、と聞くと恥ずかしいからだ、と言う。
村によって、歌の掛け合いのスタイルが違うのである。われわれのいくつかの村の調査から考えると、おそらくは二人だけではなくて、グルーブ同士で掛け合うのが一般的なようだ。
ただ、興味深いのは、恥ずかしいということの中身だが、二つの恥ずかしさがあるということだ。二人だけで話すのは恥ずかしい、というのと、二人だけでないと恥ずかしいということである。この場合誰に対して恥ずかしいのかというと、二人だけだと恥ずかしいは、恋愛の相手に対してであり、ふたりでないと恥ずかしいといううのは第三者に対してである。その違いが二つの恥ずかしさの理由になっている。
ただ、恋愛の相手と二人だけでいると恥ずかしいというのは、やはり、第三者の目が意識されていないわけではない。その意味では恥ずかしさの対象はおなじである。自分を守ろうとする制御の意識、つまり防衛本能がより強いのである。ふたりだけでいても、誰かに見られているかも知れないと思うから、防衛の姿勢を崩さない。
恋愛の歌と恥ずかしさはセットのものである。万葉集でも噂を歌った歌が多いが、これも恥ずかしさとかかわる。その意味で、二つの恥ずかしさが確認できたのはとても興味深い事であった。
桜も咲く穏やかならぬ心ある
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