連休はリハビリ ― 2009/03/23 00:14
この連休は久しぶりに山小屋へ。S夫婦も一歳と三歳の子ども二人を連れて来訪。なかなか賑やかな連休となった。子ども達はチビが大好きなのだが、チビは順位としては自分の方が上だとおもっているらしく、撫でられると迷惑そう。ただ、予期せぬ時に勢いよく触られたりすると、チビもワンワンと吼える。すると子ども達はワアーンと泣き出す。なだめるのが大変である。連休は暖かったり寒かったりだっだが、やはり暖冬の影響で雪は少ない。私はリハビリと24日からの中国行きの準備、といってもただ体を休めるだけだが。温泉に入るのだけが楽しみである。
私の山小屋の近くに定住している知りあいが二人最近亡くなったことを知る。一人は私より年下。大学の教員で仕事を辞めて山荘で悠々自適に暮らしていた。あまり人付き合いもしない人だった。独り身で、酒が好きだった。聞くところによると温泉で倒れたらしい。もう一人は、私が山小屋を作った同じ時期にやはり定年退職して近くに山荘を建てた人で、もう七十を越えたと思うが、最近は一人で生活していた。やはり酒が好きだったらしい。その人も亡くなった。
奥さんは私のことを心配している。しかし、私は酒好きではない。独り身でもない。ただ、仕事のしすぎというところはある。体には気をつけているが、運命というのは誰にも分からない。豪放磊落に生きて長生きするかも知れないし、慎重に生きても長生きしないかも知れない。まあ言えることは、まだやることはあるということ。
田中丸勝彦『さまよえる英霊たち』(柏書房)はなかなか面白い本である。この田中丸氏も若くして(五十四際)亡くなった。脳溢血と言うから他人事ではない。この本は氏の論文を集めた遺稿集である。
近代以降の日本人は、地域や家で戦死者をどう弔ったか、各地の事例を集めて報告している。つまり、靖国神社ではなく、実際に家々や村で戦死者はどのように弔われ、どのような手順で靖国に祀られるのか、とても詳しく記されている。
興味深いのは、まず戦死者の葬儀はほとんど公葬だったこと。つまり、村や町の公的な葬儀であり、私的な葬儀ではなかったこと。そして、墓を建てるときも、他の先祖の墓とは必ず別にされていたこと。死者として区別されていたことである。最初これは、戦死という異常死の問題かと思っていたが、戦死者は神になるという政府の通達が、一緒の墓にすることをためらわせているのだという田中丸氏の解説がある。
このような事例を読むと、柳田国男が『先祖の話』で強調したような、戦死者の魂を迎えて先祖としていく、という家々の先祖信仰は、戦死者にはあてはまっていないことがよく分かってくる。柳田は現実を見なかったのか、それとも、このことを知っていたからこそ、『先祖の話』を書いたのか。たぶん後者だろう。
柳田国男は「英霊」という言葉をほとんど用いていない。嫌いな言葉だったようだ。ちなみに靖国という言葉も出さない、やはり嫌いだったようだ。戦死者を公的に弔い、国家の神社に祀ることに批判的であるということだが、それは、まさに、地域のたくさんの神々を、国家が勝手に合祀してしまう明治の神社統合政策に反対したのと同じだった。個々の戦死者の魂は家族によって弔われ先祖という神になるべきで、国家の神社に統合されてはたまらないという思いはあったのだと思う。
死ぬひとありはしゃぐ子あり芽の裂くる
私の山小屋の近くに定住している知りあいが二人最近亡くなったことを知る。一人は私より年下。大学の教員で仕事を辞めて山荘で悠々自適に暮らしていた。あまり人付き合いもしない人だった。独り身で、酒が好きだった。聞くところによると温泉で倒れたらしい。もう一人は、私が山小屋を作った同じ時期にやはり定年退職して近くに山荘を建てた人で、もう七十を越えたと思うが、最近は一人で生活していた。やはり酒が好きだったらしい。その人も亡くなった。
奥さんは私のことを心配している。しかし、私は酒好きではない。独り身でもない。ただ、仕事のしすぎというところはある。体には気をつけているが、運命というのは誰にも分からない。豪放磊落に生きて長生きするかも知れないし、慎重に生きても長生きしないかも知れない。まあ言えることは、まだやることはあるということ。
田中丸勝彦『さまよえる英霊たち』(柏書房)はなかなか面白い本である。この田中丸氏も若くして(五十四際)亡くなった。脳溢血と言うから他人事ではない。この本は氏の論文を集めた遺稿集である。
近代以降の日本人は、地域や家で戦死者をどう弔ったか、各地の事例を集めて報告している。つまり、靖国神社ではなく、実際に家々や村で戦死者はどのように弔われ、どのような手順で靖国に祀られるのか、とても詳しく記されている。
興味深いのは、まず戦死者の葬儀はほとんど公葬だったこと。つまり、村や町の公的な葬儀であり、私的な葬儀ではなかったこと。そして、墓を建てるときも、他の先祖の墓とは必ず別にされていたこと。死者として区別されていたことである。最初これは、戦死という異常死の問題かと思っていたが、戦死者は神になるという政府の通達が、一緒の墓にすることをためらわせているのだという田中丸氏の解説がある。
このような事例を読むと、柳田国男が『先祖の話』で強調したような、戦死者の魂を迎えて先祖としていく、という家々の先祖信仰は、戦死者にはあてはまっていないことがよく分かってくる。柳田は現実を見なかったのか、それとも、このことを知っていたからこそ、『先祖の話』を書いたのか。たぶん後者だろう。
柳田国男は「英霊」という言葉をほとんど用いていない。嫌いな言葉だったようだ。ちなみに靖国という言葉も出さない、やはり嫌いだったようだ。戦死者を公的に弔い、国家の神社に祀ることに批判的であるということだが、それは、まさに、地域のたくさんの神々を、国家が勝手に合祀してしまう明治の神社統合政策に反対したのと同じだった。個々の戦死者の魂は家族によって弔われ先祖という神になるべきで、国家の神社に統合されてはたまらないという思いはあったのだと思う。
死ぬひとありはしゃぐ子あり芽の裂くる
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