優しい心情2009/03/19 00:39

 ここのところ暖かい日が続く。散歩していても、樹の花が目に映る。白木蓮が咲き、彼岸桜も咲き始め、ようやく春らしくなってきた。雑務もそろそろ片付き初めたが、中国行きの準備と、締め切りを過ぎた論文の準備と、やることはたくさんある。

 今日は、車で学校へ。山小屋で使っていたパソコンを助手室で使いたいというので、持っていった。ネットワークにはつながらないが、ワードやエクセルを使うには充分である。日立のプリウスで、映像を見るにはなかなかいいパソコンだ。ここから車で学校へ行くのは初めてである。用賀から乗って首都高へ。かなり早くついた。 

 ここのところ、戦死者の祀り方にこだわって、何冊かの本を読んでいる。近代日本では戦死者を英霊というが、一方で、御霊と書いてミタマとも呼んでいる。だが、御霊はゴリョウとも言う。ゴリョウはいわゆる御霊信仰のことで、祟る神を鎮めることであるから、どうも、この字を使うのはためらいがあって、次第に英霊という呼び方が一般化されてきたらしい。

 考えてみれば、日本では人である死者を神として祀るというのは伝統的に御霊信仰であった。特に異常死として見られる死者は怨念を残しているから、それが禍を起こさないようにと祀るのである。戦死者を神として祀るということは、日本の伝統からすれば御霊信仰の範疇に入るだろう。そう考えれば、靖国神社は菅原神社のように祟り神を祀っているということになる。当然、国家としてそれはまずい。だから、英霊という言葉を普及させ、死者の残念(残された思い)とは関係なく、国のために犠牲になった魂として祀るのである。そうしなければ、国家という名の下に国民を兵隊として徴用できなくなるからである。

 柳田国男は『先祖の話』の中で、この死者の最後の思いを「最後の一念」と呼んでいる。この「最後の一念」を聴いてあげられるのは、遺族しかいない。だから、死者は遺族のもとに帰るべきだし、帰って、先祖になっていくという。つまり、柳田の考え方からすれば、戦死者の魂は靖国神社にはいかない。それぞれの遺族の家にあるいは故郷の村にまずは戻るのである。その意味で『先祖の話』は、戦死者の魂を国家が管理しようとする目的で作られた靖国神社を批判する書物である。

 実は柳田も死者の「最後の一念」が怨霊になり得ることがわかっているはずだが、それについては触れない。というより、戦死者の魂と繋がりを持つ遺族の思いが、その魂の最後の一念を清めて、先祖という神にしていくのだ、と考えていたようだ。

 その意味で『先祖の話』にはは死者と生者との美しい関係が描かれている。その美しい関係の中に、無残に戦場で死んでいった若者の魂をとどめたいという柳田の思いはよくつたわってくる。それを結果的に戦争を肯定したからだめだと批判的に読むのではなく、生者と死者とを極めて近い関係だと思い、身近な異界への幻想の中で死者とつながろうとする、日本人の死生観が、戦死者という異常死をどのように受け止めるのか、と問われた時の受け止め方の一つであったと読むべきなのだろう。

 戦死者は遺族のもとに帰って、祀られ、清められて先祖という神になる。そして家を守っていく。そこには、死者を思う遺族の優しい心情と、子孫を見守ろうとする死者のやはり優しい心情がある。柳田が言いたかったのは、日本人にはそういう優しい心情があるということである。

 私の住むマンションの私たちの家には、ヤモリが住み着いている。ヤモリは家守であり、昔から大切にされてきた小動物である。神とはいわないが我が家では大事にしている。

                       春の土たましひがまだ眠つてゐる