心理学の本は難しい2008/08/14 00:54

 心臓騒動以来おとなしく山小屋で遠野物語研究会の準備などをしている。時折北京オリンピックなどを見ながら。

 開会式はなかなかのスペクタクルだった。屋外での夜空からの撮影があまりによく撮れていたので驚いたがやっぱりCGだった。少女の口パクとか、ミサイルを千発ほど撃って雨雲を雲散させたとか、とにかく話題にことかかないが、かつて世界の中心だったという誇りを取り戻したいその必死さがよく伝わってきた。

 中国チームのユニフォームの色のセンスのなさは相変わらずだが、開会式のパフォーマンスに登場した何千人という演じ手の衣装の色もセンスも見事であった。衣装デザインは石岡瑛子だということで納得。

 それにしても日本の金メダル候補はほとんどアテネで金を取った人たちである。実際今のところ金メダルを取った選手はみんな連覇だ。ということは、この四年間新人が台頭してきていないということである。一種目ならいざ知らずほとんどの種目の金候補が連覇であるということは、ある意味で情けないことだ。日本のスポーツ界では世代交代がなかったのだ。

 テレビにかじりついているわけではないので、金を取る瞬間をライブで見ることはほとんどないが、柔道の谷本選手が内股で相手を一回転させたところはライブで見た。さすがに思わず声が出た。決勝戦で寝技ではなく投げ技で、しかもあんなに見事に決まるのは滅多にない。生で見られてよかった。

 研究会の準備はなかなかうまくいかない。やはり、当初は必要でないと思っていたが、やっぱり必要になった論文とか文献を自宅や研究室に置いて来ている。取りに行きたいがそうもいかないところが山小屋の不便なところだ。それでも何とかとりあえず形には出来た。

 ついでに『心理療法と超越性-神話的時間と宗教性をめぐって』(横山博編・人文書院)を読む。この研究会はユング派の心理学者を主たるメンバーである。そのお一人が執筆しているということや、題名も私の興味や専門と一致するので買ってあった本なのだが、ようやく読むことが出来た。

 分かり易くはない、というより、あえて論理矛盾を意図的に全面に出すことに意義を見出しているような論集である。だから、論理的にまとめようとするとうまく出来ないが、言おうとしていることはだいたいわかる。

 基本的には超越性という概念を、従来の西欧哲学の形而上学的観念としての理解から解き放ちいかに多義的にとらえかえせるか、という試みである。その一つのヒントとして、神話的時間とか、スピリチュアルもしくは魂といったもの、シャーマンの変成意識などをポジティブに扱おうとしている。あるいは、日常の中に沈み込んでいる無意識のようなもの、一人の人間の生をかたち作るある瞬間の捉えがたい営みのようなものまでも超越と呼ぶ。

 が、そうであるとするとき、当然論理がねじれてくる。なぜなら、それらは、言葉で取り出せないことをある意味では本質としているからだ。神話は言葉で紡がれるが、神話的時間と言ったときには、言葉以前の世界が想定されている。無意識もそうである。それらを超越という言葉で掴みだそうとするのはその本質を否定する行為でもある。だから、その論じ方はそれぞれにアクロバティックになる。

 例えば超越でないときに同時に超越はあるのだとかいう論理になる。どうしても、ないけどある、という言い方になる。これは、自己という概念自体なしに言葉を出発出来ないいことの一つの宿命でもある。つまり、超越という概念をつきつめていけば、自己を超えたところから自己は語られるものとなる。超越の側によって自己が存在させられるということだ。むろん、そう語るのは自己である。自己という宿命的な位置から、私は誰かによって語られることでここにあるのだと自己が語るのである。

 超越の側が一神教な神であるときには、この矛盾は封印される。なぜなら、最初からここにある自己は神の創造物だからである。が、この超越が、自己にもまた日常のどこかに、他者にも、いたるところにあるとするなら、たちまち、矛盾が顕現する。自己という位置が神の被創造物ではない以上、論理は自己から出発してまた自己に戻らなくてはならない。自己を超えることを(ある)とするなら、自己が自己であることは(ない)である。、一神教でない世界では、自己を超えることは、一神教が自己を神の創造物とするような具合に、自己が自己であることを解決しない。自己を超えることと自己が自己であることがただ同時にあるだけであり、だから、ないがある、あるがないという言い方が必然化する。

 さて、こういう論理を心理療法の現場にいる心理学者が何故用いようとするのかということであるが、どうやら、心理療法の治療の現場においては、こういう多義的な意味での超越が何等かの形で認められるからだということであるらしい。

 むろん、スピリチュアルカウンセラーといった典型的な治療のことではなく、治療者がクライアントとに向き合うこととは、被治療者の生あるいは魂といったものにシンクロすることであろうから、そういう行為自体は、ないがある、あるがないといった言い方でしか言い表せない何等かの超越を共有することである、ということのようだ。

 たとえて言えば、心理士がクライアントに向き合うことは、一種の憑依であり同時に憑依から醒める行為であるとういことだ。この本には鎌田東二も参加していて、鎌田は心理士は審神者(サニハ)の審神者だと言っている。つまり、憑依しながら同時に憑依の内容を対手に冷静に語ること。そういう意識と無意識が混じり合いながら自ずと制御される自在な姿勢、というところ、と言ったらいいか。私がまとめるならこういう言い方になろうか。

 江原啓介のように守護霊や前世を明朗に語ることで不安を消去するということではなく、問題は、被治療者と向き合う、話す、治療するという行為そのものが最初から言葉によって掴み出せないことがらであるということなのだ。言葉では捉えられないという意味での超越、それを必然とするなら、それこそ憑依や覚醒といった意識と無意識をまぜこぜにするような関わりの中で、そこから自ずと制御されていくある生のかたちを被治療者にあるいは被治療者が見出していく、という手順をいわば必要とするということではないか。この本を読みながらそのように感じた。

 心理学関係の本が難しい理由がこの本を読んでよくわかった。つまり、整合性のある論理では心の病は治せないということである。心が複雑にからまるように論理もまた絡まっているのである。
 
                 話などせぬままにただ西瓜食う