風邪を引いたみたいで…2008/09/02 22:18

 今日夕刻、松江・出雲から帰る。午前中は松江で臨床心理士の人たちの事例研究会に付き合う。大変深刻な事例の発表があって、こういう仕事は大変だなあとつくづく感じた。心理学の人たちと遠野物語研究会を、松江で二泊三日でやっていたのだが、今日は彼等の研究会にちょっと顔をだしたということ。

 午後は、出雲の歴史博物館を見学。そのまま出雲空港にタクシーで行き、東京に戻る。中国から帰国して休み無しである。二日間オープンキャンパスで出校し、その後研究会。さすがに疲れが出て風邪を引いた。研究会の当日は風邪でだるい身体をおして参加していた。夏風邪は暑くて困る。熱があるので汗が止まらない。

 帰ってきて、さすがにほっとしたのか、風邪らしい状態になった。でも明日は会議。今日も研究会もこなし歴史博物館も見学してきた。風邪でも身体は動く。困った身体である。

虫の音もだるげに鳴きてひとやすみ

お土産で冷や汗2008/09/03 21:52

 今日は午後から会議。午前は近くの医者に行き風邪の薬といつものメタボ症候群対策の薬をもらう。会議は大学の自己評価にかかわる人材育成の基本方針を定めるもので、こういうのは、伝統としてはきちっとしたものはあっても、基本方針として明文化され、それが大学の教育に体系化されてなければならなく、しかも、公表されていなくてはならない、という文科省の通達を受けて開かれた会議である。

 身体はだるく、しかも右の目が充血している。会う人ごとにどうしたのだと聞かれる。風邪のせいかどうかわからないのだが、たぶん結膜炎だろう。ときどきなるのである。夕方成城の駅前の眼科医によって診断してもらったらやはり結膜炎で、目薬を処方してもらう。それにしても成城学園前には医者が多いと感心する。こういうときは便利である。今日は熱はないようだ。薬が効いているのだろう。

 中国のことを書きたいのだが、その余裕がまだない。一つエピソードを上げれば、私はお土産に東急ハンズで買ったデジタル時計付きの写真スタンドを持っていった。それを、取材地の県の書記長と、案内の人に渡したのだが、あとで同行の中国通の人から、中国人に時計と傘は贈り物にしてはならないと言われた。えーっ、それを早く言ってよ!とあせった。

 というのはどうも漢字の音に関係しているらしい。時計はヂョンと言う。この音が縁起が悪いらしいのだ。傘もそうだということだ。中国では字にまつわる禁忌はけっこうある。例えば、箸はヂュウだが、中国では現在は筷子(クワイツ)を箸と意味させている。何故箸の字を使わなくなったかというと、このジュウがとどまる・停滞するの住(ジュウ)と似ているからで、特に水運に関わる人たちが嫌ったらしい。それで、軽快なイメージの、竹冠に快速の快を用いるようになったというのだ。

 ちなみに、中華料理屋で、よく幸福の福の字が逆さになって飾ってあるが、あれは、福が到るというときの到(タオ)が逆さを意味する倒(タオ)と音が同じだからで、逆さにすれば福が到るという意味になると考えたわけだ。そこで縁起をかついで逆さに飾るのである。

 まあ今回は時計というよりは写真スタンドが主なのであまり不快にはさせないだろうということになったが、いままでも結構時計をおくっていたんだが、不愉快にさせていたかも知れないと、無知を反省。

 日本の伝統音楽のCDはとてもよかったと言われたが、どこまで社交辞令かは分からない。苦労したお土産だったのでその言葉を素直に受け取ることにした。

             雲南の梨の木陰で歌うひと

影響を受けた本…2008/09/05 23:19

 昨日から休養で山小屋に来ているのだが、体調が悪くほとんど寝てばかりいる。8月はかなり動き回ったので、さすがにからだは疲れているようだ。明日は学会の例会や別の学会の委員会もあって出る予定でいたが、とてもじゃないが行けそうにない。

 時々疲れがたまって風邪を引くが、こうやって強制的にからだをやすませないと、突然倒れたりするのだろう。風邪もある意味ではよい休憩なのである。

 秋に神保町で読書フェスティバルというのがひらかれ、私の学校でも協賛していて、イヴェントとして作家と大学の教員が読書をめぐってシンポジウムをする。実は、そのシンポジウムのパネラーに私が選ばれてしまった。私の対談相手は三浦しおんである。松江で一緒だった三浦さんの娘さんだが、こんな形でお目にかかることになるとは思わなかった。

 そのシンポジウムに向けて、人生の中で感動したり影響を受けた本を5、6冊選んで欲しいと言われている。今週中に連絡しないとまずいのだが、あれこれ考えてもなかなか思い浮かばない。あんまりマイナーな本や専門書すぎちゃまずいだろうし、と色々考えてしまうこともあるが、どうも、私は、本にそんなに影響を受けていないなではないか、と思ってもいる。

 読書は結構しているつもりだが、決定的にこの本に影響を受けたものというと、ないわけじゃないが、それを思い起こすのは難しい。

 ただ、何回か読んだ本とか、その本の中の文章とかをよく覚えているというのはないわけではない。何度も読んだのではドストエフスキーの『罪と罰』、それから吉本隆明『言語にとって美とは何か』、レヴィ・ストロース『悲しき南回帰線』などだ。ローレンツの『ソロモンの指輪』は好きな本で昔予備校で教えていたときに予備校生にさかんにすすめたことがある。それから、ショーペハウエルの『自殺について』も未だにその中の一節をよく使う。こういうように並べると、なんとなく芸がないよなと感じる。あんまり若い人にすすめる様な本じゃない。いずれにしろ、こういう企画にはふさわしくないということで、引き受けるんじゃなかったと反省している。

               秋めくや書棚の本の自己主張

おすすめの本決まる2008/09/09 00:33

 ここんとこリハビリの日々であったが、何とか風邪で最低だった体調も回復してきた。神保町ブックフェスティバルでのセミナーでの「おすすめの本」も何とか五冊ほど選んで送った。結局、「罪と罰」「言語にとって美とは何か」「遠野物語」「ソロモンと指輪」「悲しき南回帰線」である。

 私自身が影響を受けたというのと、学生に読ませたいのと、とにかく面白いと思うのと取り混ぜたものになった。吉本の「言語にとって~」は何度も読んだ言語論で私の理屈っぽさはこの本の影響にもよる。「罪と罰」は青春の書。高校三年の時、ドストエフスキーを夢中で読んでいた。過剰な言葉や物語の力に圧倒され、なんだかわからないが文学の圧倒的な力に感動したことを覚えている。いまだに文学をやっているのはこの体験によるところが大きい。

 「遠野物語」はいまだにどう読んでいいかよくわからない書物だが、それだけ不思議な魅力がある。学生に読ませると民俗学的な読解になってしまうが、本当は、不合理そのもののの記述に満ちている書物として読んで欲しいのだが。

 「ソロモンの指輪」は動物好きな私の愛読書。ここに出てくる宝石魚のエピソードは昔予備校で教えていたときよく話題にしたものだ。あの頃が懐かしい。「悲しき南回帰線」も私の愛読書。レヴィ=ストロースの本はどれも難解だが、この本は読み物としてとにかく面白い。ナムビクワラ族へのまなざしがとてもいい。文化相対主義というものの意義と難しさとがよく描かれている。特に、文化というものの不合理さがきちんと指摘されている。構造主義とはまた別の意味で教えられるところが多い本である。

 中国雲南省のワ族について論を書いたときに、「悲しき南回帰線」の一説を引用したことがある。実は、今回の調査地の一つがワ族であった。ワ族地域は、ミャンマーの国境沿いなので、役所の許可がないと入れない。今回は中国の神話学者の李先生のお蔭で調査が出来た。

 それでも何度も検問を受けた。なにしろ麻薬で有名な地域でもある。警戒が厳しい。聞き書きで確認したところ、解放前は、生活の道具を購入するとき、アヘン何グラムで塩何グラムというように、アヘンを貨幣がわりにしていたらしい。

 ワ族の村に入ったとき、私たちのチャーターしたバスがぬかるみにはまりまったく動かなくなった。村人が助けに来たが車体が重いのでどうしても動かない。これはひょっとすると帰れないかも、とみな心配になったが、役所の方で人民解放軍を呼んでくれた。四駆のワゴン車であらわれた彼等はさっそく、ワイヤーで引っぱりバスを脱出させた。思わずみんなで拍手。このときばかりは人民解放軍が神様に見えた。ところが、彼等の働きは絶対にカメラに写すなと言われた。やはり軍隊なのである。  

 今日(8日)山小屋から帰る。良い天気である。そろそろ秋の気配深まる。明日は会議。

                  秋天や不安はあれど晴にけり

ワ族の民族衣装2008/09/11 10:30


 体調も回復し、家で仕事。といっても、論文を書こうとおもっているのだが、なかなか進まず。引っ越し以来整理していなかった書斎の整理などをして過ごす。それにしても、半分の部屋になってしまった私の仕事場は、なんて乱雑なのか。いまだにどこになにがあるのか把握できていない。

 昨日から三浦しをんの小説を読み始める。まず『月魚』から。今『白蛇島』を読んでいる。第二作『月魚』はデビュー作『格闘する者○』とまったく違って、ボーイズラブ風青春小説。少女漫画系のノリだが、けっこう引き込まれる。今やボーイズラブの語り手としても著名だがその片鱗がこの小説にある。『白蛇島』は、民俗伝奇風物語。これもまた違った作風である。

 実は3作目までは父君であるM氏からの贈呈のもので、第二、第三作目は読んでなかったので今読み出したという次第。売れっ子になってからの作品は何冊か読んでいるのだが、あたらめてデビューのころのを読むと、物語の作り手としての才能に驚かされる。二十代でよくまあこんな風に物語状況やその中での人間の心理を自在につむぎだせるものだと感心。ある種の憑依があるのではないか、それが才能なのだろうと感じた。

 マンションの一室である仕事部屋の下は公園になっいて、老人達が時々ゲートボールをやっている。球を打つ音、嬌声、うるさいがでも元気だなあと感心させられる。

 今年の8月、雲南省のワ族を訪れたのは確か6年ぶりだが、女性がおしゃれになった。ワ族はもともと土着系の少数民族で顔が漢族や他の少数民族と違ってエキゾチックである。肌の色も黒い。ワ族の女性は美人だと言うのを聞いたことがあるが、たぶんそのエキゾチックな顔立ちのせいであろう。

 服装はいたってシンプルで、女性は腰に様々な色を重ねた巻きスカートに黒のノースリーブのTシャツである。この上着はいわゆる貫頭衣で、日本の縄文時代の服装と同じだと言われている。つまりかなり古い服装の形をとどめている。四角の袋を逆さにして上の頭の部分と了が穂の腕の部分を刳り抜いた形とかんがえればよい。が、今ではけっこうおしゃれになっていて、襟を付けたり、前をボタンでとめるシャツのようのものもあって、 貫頭衣のようなデザインは見かけなくなった。が村に入ったとき、それらしき上着を着ていた女性がいたのでうれしかった。

 が、女性はとてもおしゃれに着飾っている。腰や首に首飾りや装身具を巻いていて、スカートとシャツの間には隙間があって肌を露出させている。前はこういう女性の服装を見かけなかった。これも、ワ族の社会の変化の一つなのだろう。面白いのは年齢に関係なく同じ服装をしている女性がいたことで、この服装は村の女性のいわゆる晴の服装のようだ。外国から客人が来るというので、着飾ったようだ。民族衣装はかつては日常の服装だったと思うが(むろん、晴の日に着る衣装もある)、民族衣裳がもてはやされるようになると、日常着とは切り離されて装飾をつけて晴の服装になつていく。これは、他の少数民族でもよく見られることである。

                秋めきてゲートボールの音高く

教育って何?2008/09/14 12:59

 金曜(12日)・土曜(13日)は出校。金曜は雑務。土曜は研究会。学校関係の書類作りがけっこうあってなかなか大変。特に、人材養成目的についての作文をしなくちゃならないのが差し迫った課題である。来年、大学基準協会からの評価を受けることになっていて、それへ向けて、いろいろと自分たちの大学のありかたを検討したり整備したりしなければならない。

 人材養成目的の作文もその作業の一つである。これは、大学全体から学部学科までこと細かに作文していく。大事なのは、整合性がとれて一貫していること。つまり、企業の事業方針みたいなものだから、これが一貫していないと、企業としてなら失格というわけだ。教育機関のアイデンティティを明文化して公表しろ、というのが文科省の方針で、そういうのは大学創設者のお言葉として額に飾ってあるよ、というのではだめなのである。

 個人の業績報告書というのも事細かに書かなくてはならない。私の場合、1年に5本くらい論文を書いているから書類作りがけっこう大変である。教育業績というのがあって、授業でどういう工夫をしたとか、どういう評価があったとか、大学は私の能力にどういう評価をしているかとか、そんなとても書けないことまで書く欄があって、とにかく書かなきゃいけない。授業をただやっていただけではもうだめだということである。

 こういうことに労力を使わざるを得なくなったのは、要するに成果を上げなければ存在する価値がないという時代の風潮が教育界まで及んできたからだ。成果とは、競争に耐えて勝ち抜くことだが、問題なのは、その勝ち抜いた経緯を意識化し、それをマニュアル化して方法論として公表しろと、強制されていることだ。株式会社なら、強制されることに一定の意味がある。方法化は利益を確保する確かなマニュアルになるからだ。が、教育はどうか。

 教育に於ける利益とは、本来は教育力の向上であって、質の高い公平な教育を国民に与えられるかどうかである。が、現実はそうではなく、個々の教育機関が、潰れないために他の教育機関より優位な地位につくかどうかということになっている。確かに、教育機関に競争原理が働けば質の高い教育をするところが勝ち残る、ということはあり得るから、悪いことではない気がするが、その場合の、教育成果の物差しは、極めて分かりやすく目に見えるものが基準になる。例えば全国テストでどれだけ高い平均点をとったとか、何人の合格者を出したとか、アンケートの満足度は何割かとか、競争率は高いかどうかとか、である。

 とすると成果を上げるための方法論とは、この人数の合格者をだすためにはこういう授業の仕方をしなくてはならない、ということになる。

 私は、文学を教えているとき、学生にこの文学作品が君たちの為になるときは、就職するときというよりは、何らかの事情で仕事を辞めざるを得なくなり、これからどうしていいか途方に暮れるときだ。そういうとき、人より本を読んでいる人は、精神的な強さを身に付けているから自分を励ますことができる、と話す。文学を教えるということは、そういうことであって、何人の合格者を出すなんていう教育には向かない。つまり、教育に於ける利益は、そういう簡単には数値化できない領域を含む。ところが、そういうのを無視して成果を数値化し明文化しろというのが昨今の教育改革の流れである。まったく困ったものである。

 目に見えない領域を教えていくこともまた授業アンケートで高い満足度の数値を獲得しなければならない。そうでないと、その目に見えないことは学生に伝わらなかったと評価される。そんなことはあるものか。自分が学生であった時を考えればわかるが、影響を受けたり人生の指針になった言葉は、必ずしも人気のあった先生の言葉ではない。人気はなくても一部の学生からは尊敬されていたそういう先生の言葉が重い意味を持った。最近の風潮は、そういう先生を教育の現場から排除し、メディア映りのいいような人気のある先生ばかりがもてはやされる。

 さて、私は人気はなくても一部から愛されるような教員であればいいと思っている。みんなからあの先生はだめだと言われたら、退くしかないが。だから、今管理者の立場で、教員に対して、アンケートは確かに大事だけど、あまり気にせずに、一部の学生からは尊敬されるようになって欲しいとそれとなく言っている。みんなの人気者になるのは、教員の才能とは別の才能の問題である。そういうのも必要とは思うが、みんなそういう教員になる必要はない。

 ところで、今私が書いている書類は、正確に言えば、こういう問題とは直接は関わらない。これは私どもが所属する教育機関という企業を、潰さないで維持するための作業なのである。むろん建前は教育の向上のためである。が、意義はあるとしても、教育の本質にかかわる作業ではない。教育はかつての寺子屋のように、教員と学生との人間的な関係に基礎をおくものだ。ところがその関係が大規模になり複雑になると、人が人を教えるのではなく、組織がマス化した大衆を教えるということになる。だから、マニュアルや方法論が必要となる。その組織や大衆化した学生のための作業なのである。

 人と人との関わりをおろそかにしない教員であって、教えることにちょっとは情熱があって、自分の研究テーマに対して探求心を失わない教員であれば、人気がなくてもいいではないか(これだけ満たせば絶対人気はでますけどね)。

                夏終えて今日も昨日も風が吹く

三浦しをんつながり2008/09/15 11:28

 仕事部屋の直下の公園では恒例の草刈りで朝から草刈機の音を響かせている。うるさいことはうるさいのだが、仕方がない。それにしても夏場の草が生い茂る頃はこの草刈をこまめにやる。おかげで、草の丈がいつもちょうどよい伸び具合なので、チビの散歩には具合がいい。草が伸びすぎると、小さいチビは見えなくなってしまうからだ。ゲートボールをやるのにも草が伸びていては具合が悪いので早めに刈るのだろう。

 マンションの庭の大きな桜の樹も少し黄色い葉が増えて落ち始めている。ちょっと早いんじゃないかと思うが、こんなものなのか。

 ここんとこ三浦しをんの本を一日一冊のペースで読んでいるのだが、少し疲れてきてペースダウン。『月魚』『白蛇島』『ロマンス小説の七日間』『まほろ駅前多田便利軒』『むかしのはなし』と読んできて、今『仏果を得ず』とエッセイ『シュミじゃないんだ』を読んでいる。

 作家と対談するなんてことがなきゃこんなに一人の作家を集中的に読むことはないんだが、でも、けっこう面白いので読んでいて苦にならない。というか次が読みたくなるのはやはりそれだけ面白いということだと思う。エッセイは面白いと言われているが、私も、最初の小説『格闘するものに○』を読んだときこれはエッセイ書かせたら抜群に面白いだろうなあと感想を持ったことを記憶している。

 『シュミじゃないんだ』はボーイズラブ系の漫画へのうんちくとその魅力についてのエッセイだが、とにかくそのしゃべり口の文体は、思わず爆笑してしまうほど面白くこれは立派な芸である。

 松江の遠野物語研究会であった臨床心理士のIさん(『思春期をめぐる冒険-心理療法と村上春樹』という本を新潮文庫から出してます。おすすめです。)は三浦しをんファンで、ボーイズラブについて興味があって三浦しをんの本はかかさず読んでいるという。最近のおすすめはよしながふみとの対談でこれは必読だそうである。

 ちなみによしながふみの『西洋骨董洋菓子店』はうちに前からあった本で、これは奥さんのおすすめの本である。ついでにいうと、私のいる別荘地によしながふみが来ているらしいという話を聞いた。家族の別荘があるらしく、その家族と共通の知りあいもいる。縁とはつながっていくものである。

 三浦しをんの小説の魅力は、作者がどんなシチュエーションのどんなタイプの主人公にも、憑依するごとく同化して、その人間の抱えた情けなさや暗さをうまく引き出すところにある。つまり、人間の持つ情けなさや悲しさに共感する力を多く持っているということで、だから、どんな人間も描けるのである。ストーリーテラーのうまさはあるが、最近の若手の本屋大賞常連の小説のように、ただ筋立ての巧みさだけで小説を描いていない。そこがいいところで、私が何冊読んでも飽きない理由だ。    

 明日からは、ほぼ毎日出校で、目が回るほど忙しくなるだろう。三浦しをんを読んでおくなら今のうちなのである。 

                樹々たちようつろふさだめ葉は落ちる

『仏果を得ず』を読む2008/09/17 00:38

 今日は会議が二つ。ようやくいつもの仕事が始まった。やれやれである。昨日のテレビ(ハイビジョン)「なんだこりゃ俳句」はなかなか面白く最後まで見てしまった。最高得点の俳句は高橋源一郎が選んだのは西東三鬼の「露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す」である。これにはうなった。神戸に住んでいた西東三鬼が隣に住んでいたロシア人の行動を窓から見ていたらしい、という解説もあったが、露人ワシコフの狂気がよく伝わってくる。あと「戦争が廊下の奥に立ってゐた」という戦時中の反戦俳句も高得点だったが、なんだこりゃとまではいかないまっとうな俳句だ。

 俳句は短い言葉の組み合わせの妙でいくらでも不思議な世界を作れる。そこが面白い。いかに常識にとらわれないかが大事だと金子兜太が語っていたが、それが難しい。私も下手な俳句を作るが、常識を超えるだけではだめで、超えて何を見るのか、ということが結局は問われる。遊んでしまえば常識は何時でも越えられようが、遊びの向こうに人を共感させる何かが無ければ常識を越える意味がない。「なんだこりゃ俳句」も、ただ何だかわからなくて面白いだけじゃだめだ、ということだ。勉強になった番組である。

 三浦しをん『仏果を得ず』読了。去年の作品だから最近のものだ。文楽で義太夫節を語る若者が主人公。いろいろ悩みながら芸にのめり込んで成長していく物語だが、これもなかなか読ませる。面白いと思ったのは、三浦しをんが小説を書いていくときの呼吸のようなものが、文楽の劇の登場人物になりきった語ろうとする主人公の呼吸と、重なって描写されているように思えてしまうところだ。

 つまり、この小説には、三浦しをんがどんな風に小説という絵空事にのめり込んでその登場人物になりきるのか、といった、方法論が描かれている、というようにも読めるのである。そう読むとなかなか面白い。若い主人公は登場人物を語る時に、どうやったらその人物に共感できるか必死に考える。本当は、作者は、芸というのはそういう理屈を超えてしまうものだということを説きながらも、主人公を通して共感の方法を詳しく語らざるを得ない。が、それを語ることは、同時に作り物としての小説の主人公にどう共感していくかという作者三浦しをんの共感の方法を語ることでもあるのだ。

 そこに、作者三浦しをんの、あるべき物語の人間像といったものが出揃う。やはり、どこか情けなくてじたばたして生きている人物像が揃う。ところで、芸をきわめることは、向こう側の世界に取り憑かれること、といった一つの理屈が、現代風な明るいキャラクターの若者によって実に爽やかに演じられる。この不思議な取り合わせもまた面白いところだ。情念の世界からもっとも縁遠い時代、あるいは雰囲気を生きている若者が、すっと文楽が描く日本人の情念の世界をわかってしまう。そんなことがあるものか、と思わせないのは、文章の力量だろう。

 明日は、大学基準協会主催の説明会に行かなければならない。疲れる一日になりそうだ。

                  虫たちよ鳴いてばかりじゃ分からない

久しぶりに映画鑑賞2008/09/18 23:26

 明日、明後日は、会議にオープンキャンパス。台風が心配である。とくに土曜はオープンキャンパスで、AO入試の面接とか模擬授業とかいろいろあるので、何とか台風には避けて欲しいところだが、どうも関東に一番近づくみたいだ。

 昨日は大学基準協会の第三者評価の説明会。大塚駅近くホテルが会場。全国の短大から関係者が出席。来年私どもの短大では第三者評価を受けることになっているのだが、同じく来年第三者評価を受ける多くの大学の担当者に向けた、評価のマニュアルとか決まり事の説明である。私は責任者なので気が重い。もし、この評価で不適格と評価されたら大変なことになる。いままでそういう大学や短大はないということだが。

 全国からたくさんの短大の担当者が来ていた。あと数年のうちにこの会場にいる人たちの何割かは職を失うことになると、最近しきりに言われている。短大は7割近くが定員割れだから、潰れるところが必ず出てくるという予測である。

 おそらく、どこの大学でも立派な自己評価の報告書を書き、立派な第三者評価をもらうのだろうが、それと関係なく潰れるところは潰れるのである。競争原理は厳しいのだ。

 今日は三浦しをんのエッセイを二冊読了。『シュミじゃないんだ』と『あやつられ文楽鑑賞』である。ボーイズラブ漫画のうんちくと、文楽にはまってしまった作者の文楽解説書である。どちらも面白いのだが、私の好みから言えばやっぱり文楽だな。さすがに、BLはね。その系統の漫画はけっこう読んでいるけど、特に惹かれると思ったことはない。

 文楽のとくに芝居の解説はなかなかのものである。特に芝居の登場人物の心の動きや、作者が何を描きたかったのかという部分へのこだわりは、さすが物語で人間を描いている作家の鋭い読みがあって、けっこう納得した。文楽は昔ちょつとばかり興味があって、国立劇場に行ったり近松門左衛門をけっこう読んだりしていたが、そのことがけっこう蘇ってきた。この本のお蔭でまた観に行こうかなという気になった。文楽の入門書としても優れていると思う。

 日曜に、近くにツタヤがあることがわかって、そこへ行って会員になり、DVDを借りてきた。借りてきたのは『ONCEダブリンの街角で』と『ノーカントリー』である。ようやく今日見終わる。前者はアイルランドのダブリンが舞台。ストリートミュージシャンの主人公が自分の歌を売り込むためにロンドンに旅立つという話だが、そこにチェコから来た女性との出会いと別れが織り込まれる。俳優は主人公もチェコ人の女性もミュージシャン。ミニシアター向きの小品。全編歌と音楽の映画っていう感じで、さすがアイルランド、と納得の暗さがあるが、歌もなかなかよくけっこう面白かった。

 一方、『ノーカントリー』はコーエン兄弟の映画。アカデミー賞を4部門とった映画だ。全編ほとんど音楽なし。不気味な殺し屋の人を殺す場面がただ映し出されるだけの何とも不思議な映画だ。アメリカの虚無を描いたとどっかの映画評にあったが、そんな感じ。この殺し屋の面白さは、とても哲学的だというところか。彼は不条理そのものだが、その不条理は、社会の病理が生んだとか、突然キレるとか、そういうのではなく、何ともただ暗い穴のようにただそこにあるだけの不条理さである。

 この映画の終わり方もよくわからない。物語が完結しないで終わるという印象である。年老いた保安官が見た夢の話で終わる。この映画自体が精神分析の対象になりそうだ。この映画にアカデミー賞をあげたアメリカ人は、自分の心の中の虚無を重ねたに違いない。

 ちなみに殺し屋を演じたアカデミー男優賞をもらったバビエル・バルデムは、「海を飛ぶ夢」を演じた俳優だそうな。何処かで見たことあると思ってた。

                     化粧する小暗き道や萩の散る

一番嬉しい時2008/09/21 01:24

 今日はオープンキャンパス。台風の影響もなく、無事に終わった。模擬授業、AO入試の面談とあわただしく過ぎる。来週の月曜からは後期の授業が始まる。これから準備である。

 奥さんは山小屋へ。私は当分行けそうにない。週末はほとんど予定で潰れている。結局、ここのところ、論文も書けないでただ雑務や読書で日々を過ごしている。万葉集を積み上げて歌の抒情について何か書こうとは思っているのだが、まだ上手くスイッチが入っていない。中国から帰ってきて風邪を引いて、それからどうもエンジンがかからないのは、まだ充分に回復していないせいか。それなりに齢を重ねて、回復にも時間がかかるようになってきたようだ。

 今日の模擬授業で、モノガタリとはこの世と異界とが混じり合う異常な状態が正常な状態(この世と異界との分離)に戻るまでのプロセスであるという話をした。たとえば恋愛だってそうだ、恋愛は、当事者がこの世から向こう側の世界に入り込んじゃうことだから、と。

 そう考えれば、歌もそうかも知れない。この世と向こう側との境界を曖昧にしていくのが歌の力ではあるまいか。そうとれば、歌の抒情というものは、その境界の曖昧さにかかわるものだと言える。そういうことを例えば万葉集の歌などから言えると面白いのだが、そう簡単ではない。

 AO入試の面談で作家志望の高校生の多いことに驚く。むろん、志望を積極的に語ることが求められているので、とりあえず言っておこうみたいなのもあるが、案外に現実的で本気な人が多い。就職してからも投稿などして作家を目指すという受験生もいる。

 私どもの学科では、プロの作家による創作の指導ということや、表現することに力をおいていると宣伝しているので、そういう希望の受験生を集めているようだ。とりあえず、受験生集めには成功しているのだが、ただ、作家になるのはそう簡単ではないよ、とは面談の時に言っている。むろん、あきらめなければきっとなりたいものになれる、とフォローは忘れない。

 実際、本はそんなに読まなくても、創作はしたいという学生が増えている。そして、そういう学生のほとんどが異界系ファンタジーが大好きである。私はそのことをよいことだと思いながらも、この娘たちは就職活動というリアリズムに耐えられるだろうか、と余計な心配をしている。

 世界的金融不況によって間違いなく日本経済は落ち込むだろう。立ち直るのには、あと4、5年はかかりそうだ。とすると、今年入る学生の就職はけっこう厳しくなりそうだと、ニュースを聞きながら心配になったりする。

 今日の面談で受験生に何か質問はないかと聞いたら、先生は授業をしていて一番嬉しいときはどういう時ですか、と聞かれた。なんて質問だ。そりゃあ、良い授業が出来て、学生の反応が良かったときだ、逆に上手くいかなかったときはすごく落ち込む、と答えた。そう答えて、そういえば、最近授業で嬉しくなった時ってあんまりないよなと、ちょっと落ち込む。

                    秋の夜に万葉集を積みにけり