演技2008/08/10 01:11

 ブログで病の話は書くもんじゃないなと反省。前回の心臓の検査の話は関係者にかなり心配を掛けたようだ。私としては、別にたいしたことがなかったから書いたのだが、当然深刻なときは書きません。

 が、人間の心理として、病気の事を書くのは人に心配して欲しくて書くものかも知れない。とすれば、私もそうなわけで、とりあえず何人かの人には心配してもらえたのだから、よかったよかったということかも知れない。

 秋葉原の自爆男は、掲示板に過激な事を書いても誰も返事をくれなかったことに絶望したというようなことらしい。そう考えれば、こういうブログもコミュニケーションが少しでも成り立つとすれば人の心に深く影響を与えるものなのであって、馬鹿には出来ないということだ。

 掲示板に悪口を書いたと言うことが原因で殺傷沙汰になったり、それを咎められて自殺したりとか、そういう事件が相次いでいる。

 私は少数民族の歌垣取材で出会った悪口の掛け合いを思い出す。男女が時には互いの悪口を歌でいい合う場面をなんどか見ている。ある民族では同性同士が悪口を歌で掛け合う。その言葉は時に相手をかなり傷つける場合もある。しかも、歌の掛け合いだから、そうい悪口は第三者がみんな聞いているのである。

 その悪口で自殺したとか喧嘩沙汰になったという例は聞いていない。むしろ、歌での悪口の掛け合いは、社会での闘争をあらかじめ中和する働きがあると指摘する研究者もいる。つまり、ある程度公的なコミュニケーションツールの上での悪口の掛け合いは、現実の関係を悪化させない文化的仕組みが作用しているのである。

 そういう意味では、ネット上での言葉のやりとり(掛け合い)には、まだ文化的仕組みが無いということだ。文化とは、演技性のことでもある。悪口を言われたら気づかないふり(演技)をすればいい。あるいは、全部悪口自体が演技だと思えばいい。自分の都合のいときに演技でないと思えばいい。そういうのも大事な文化なのだ。そういう文化がないから、ネット上でちょっとでも悪口を書かれたり、自分の言葉への反応がなかったりすると、この世の終わりのように傷付くのである。

 私のブログの文章などはある意味では演技なのである。そう思ってもらってもいい。ただ、そういう言葉が演技として了解されないで、相手の心にダイレクトに届いてしまうような非文化的な空間に放たれている、ということも了解している。そして、そういう世界では、救われたり、傷付いたり、呪ったり、絶望したりとかという、それこそ擦れ合う度に血の滲むような命のやりとりに似た言葉のやりとりがあることも承知している。

 だから言葉には注意している面もある。が、だからこそ、私自身のつまらない日常の出来事をブログの文章に書く意味もあるのかなと思う。演技的な文体に防御されて簡単には傷付いてしまわないようなブログの文章があってもいいではないか。そういうところからにじみ出る本音とか人柄とか、そういうものを味わう文化をもうちょっと鍛えて欲しいとも思う。文学を教えている身としてのこれは本音である。

雷に大樹も犬も身をすくめ