植物という環境2007/05/19 00:07


  木曜の夜に山小屋に向かう。今日は山小屋で授業の準備と道路脇に積んである薪を運ぶ作業。新緑は一面という訳にはいかないが、あちこち芽吹き始めている。

 この時期は花の季節で、散歩しているといろんな花に出会う。ニリンソウの群落が道ばたを覆っていたり、クリンソウ、ヒトリシズカなどが小さい花を咲かせている。写真にニリンソウを載せておいた。  

 五月の連休に植えたドウダンツツジも芽吹いていた。根はついたらしい。実は、20代私は、植木農業協同組合というところに勤めていた。そこで農薬の資格もとったし、植木のことは少し勉強した。あの頃は樹木の種類などかなり詳しかったのだが、今はほとんど忘れてしまった。

 時々植物は不思議だなと思う時がある。縄文杉のように個体が人間とは桁違いに長生きするものもあれば、毎年代替わりするものもある。成長の速度も千差万別だが共通しているのは、世界(環境)に対し違和として存在していないということだ。というより、その存在自体が環境である、ということかも知れない。

 動物や人間は、環境に対して違和であるからこそ命を維持するための努力が必要になる。植物はその努力の程度がはるかに低いということである。というより環境そものなのであるから、違和はないはずであり、違和があるとしたら、それは植物つまり環境の自家中毒であってかなり危機的ということになる。

 オールディズの有名なSF小説に『地球の一番長い午後』というのがある。未来の地球を植物が支配するという話だ。人間が文明を滅ぼし植物に支配されるという設定であるが、細かいストーリーは忘れたが植物の支配というところだけよく覚えている。

 植物とは、環境であり、環境は支配するものでもないし支配されるものでもない。その環境が支配・被支配のゲームに巻き込まれることこそ矛盾であり、それこそ環境の死が暗示される。

 本来植物には死がない。死がないからこそ環境そのものなのだ。その環境の死が暗示されるとき、環境は意志を持ち始める。環境でありながら環境でなくなる。人が自分の死の根拠を環境の死にまで拡大して求めたとき、環境は環境に対して違和を持つ存在となった。アニミズムはこのようにして成立したということではないか。

    新緑や鎮まりおれば樹々声挙ぐ

載帽式2007/05/19 23:49

 今朝ベランダにリスが来ていた。いつもひまわりの種を置いてあるので食べに来たらしい。その時はなかったので、慌てて種を置いてあげた。しばらくするとまた食べに来た。小雨交じりで霧が出ている天気だったが、新緑が一日一日と鮮やかになってきている。

 午前中にあずさで東京へ。今日は午後、看護学科の載帽式である。聖歌が流れる中、白衣を着た看護学科の学生が一人ずつ講堂の壇上にあがり、看護婦の象徴である帽子を載せてもらい、キャンドルを持ち、ナイチンゲール像のキャンドルの火をつけて後ろに並ぶ。全員並び終わると、ナイチンゲールの誓詞と呼ばれる誓いの言葉を全員で唱和し儀式は終わる。厳かな儀式である。

 こういう儀礼があると、それなりの覚悟というものを持つだろう。人の命を預かる職業に就くのだから、こういう決意表明みたいな儀礼があってもいいのかなと思う。伝統文化の継承という感じもある。それに比べて、われわれの学科の学生にはこういう厳粛な気持ちに慣れる場はないだろうなあと思う。だいたい授業に向かう態度がうちの学生と看護学科の学生とはまったく違う。向こうは、国家試験が控えている。ほとんど休まないし真剣に勉強しているとよく聞く。教えていないので本当かどうかはわからないが、今年初めての卒業生で、国家試験の合格率が99%だったということだ。九十数名受けて落ちたのは一人だけだったそうだ。みんなそうとう勉強したに違いない。やはり、目的があるとないとでは違うものだ。

 載帽式の後は交流パーティで、学生達と一緒に立食パーティとなった。緊張が解けて学生達はみんな明るくはしゃいでいた。こういう光景を見るとやはり楽しくなる。載帽式にの前に私の部屋に卒業生が二人訪れた。今年卒業した学生で、今日卒業生たちと飲み会やるのだが、ついでに学校へ寄ったという。顔は微かに覚えていたが、名前を聞いて思い出した。人の顔をすぐ忘れる。今度みんなで集まるときは誘ってよ、と頼んでおいた。これもうれしかった。

 そういえば、五月の連休に、潰れたブリーダーから助け出した柴犬を、山の別荘地の定住者に連れていったが、その後、その犬は五月にもらわれて来たのでさつきと名付けられた。4年もの間ゲージから外に出たことがないと聞いていたが、確かに、最初は外に出しても怖がって歩かなかったという。二週間して、今では散歩もするようになり、元気になったらしい。これも安堵する話である。

       五月に助けた犬五月と名付く