喜多見氷川神社の鬼やらい ― 2014/02/03 14:25

今日は節分だが、近くの喜多見氷川神社で「大国舞」という追儺(鬼やらい)の儀礼があるというので見に行った。歩いて30分ほどの神社である。午前10時から1時間ほどで終わったが、けっこう面白い鬼やらいであった。
鬼が登場するのは普通だが、この儀礼では神官と問答して追いやられるという演技をする。赤青黒白の四匹の鬼が登場し神官と次のような問答をする。
神官…不思議なるもの見えて候、何者ぞ、名告り候へ、
鬼 …それがしに候へか?
神官…早く名告り候らへ
赤鬼…見るも、聞くも、そら恐ろし、それ、赤き息ほっとけば、七日七夜の病とな る。
青鬼…それ、青き息、ほっとけば疫病となる。よって節分毎に、まかりいで、人の 命をねらい候
鬼 …鬼は内と声がした、よってまかりいで候
一同…言わぬ、言わぬ
鬼 …腹ぺこだ、腹ぺこだ!
神官…悪しき鬼どもだ、おのが住家にあらず、もとの山に帰り候らへ
-スルメを与える-
一同…それ追い出せ!
鬼は外!鬼は外!!!!
-桃の弓と、入り豆にて鬼追いをする-
鬼 …許させ給へ、
-と叫び、追儺の豆つぶてにて逃げる-
(神社発行「大国舞」説明文より)
問答で鬼は負けるが、その鬼は腹すかしていて、神官にスルメをもらい退散するというところがなかなか面白い。何故スルメなのかはよくわからない。この鬼たち、山で食料がなくなって里へ下りてきた動物のようである。
悪として徹底的に払うのではなく、腹を空かした鬼に食料(供物?)を与えるところが日本的だといえるだろうか。中国の追儺では、鬼は恐ろしいものであって姿をあらわさない。払う側だけが仮面をつけるのだが、日本に入って来ると払われる鬼は仮面をつけて登場し、しかも、その鬼は、来訪神とも重なっていく。なまはげなどがそうだが、来訪神に融合しなくても、仮面としてこのように視覚化されることで、「鬼さん」と呼ばれるように鬼はかなり親しみのあるものになり、その怖さが薄らぐのである。
「大国舞」でもスルメを与えられ鬼はやはり親和的な「鬼さん」なのであろう。絶対的な神を創造しないが絶対的な悪も創造しない。これが日本のアニミズム的文化ということだ。
境内には近くの小学生が豆を撒く役割のため招待されていて、とても賑やかであった。
鬼が登場するのは普通だが、この儀礼では神官と問答して追いやられるという演技をする。赤青黒白の四匹の鬼が登場し神官と次のような問答をする。
神官…不思議なるもの見えて候、何者ぞ、名告り候へ、
鬼 …それがしに候へか?
神官…早く名告り候らへ
赤鬼…見るも、聞くも、そら恐ろし、それ、赤き息ほっとけば、七日七夜の病とな る。
青鬼…それ、青き息、ほっとけば疫病となる。よって節分毎に、まかりいで、人の 命をねらい候
鬼 …鬼は内と声がした、よってまかりいで候
一同…言わぬ、言わぬ
鬼 …腹ぺこだ、腹ぺこだ!
神官…悪しき鬼どもだ、おのが住家にあらず、もとの山に帰り候らへ
-スルメを与える-
一同…それ追い出せ!
鬼は外!鬼は外!!!!
-桃の弓と、入り豆にて鬼追いをする-
鬼 …許させ給へ、
-と叫び、追儺の豆つぶてにて逃げる-
(神社発行「大国舞」説明文より)
問答で鬼は負けるが、その鬼は腹すかしていて、神官にスルメをもらい退散するというところがなかなか面白い。何故スルメなのかはよくわからない。この鬼たち、山で食料がなくなって里へ下りてきた動物のようである。
悪として徹底的に払うのではなく、腹を空かした鬼に食料(供物?)を与えるところが日本的だといえるだろうか。中国の追儺では、鬼は恐ろしいものであって姿をあらわさない。払う側だけが仮面をつけるのだが、日本に入って来ると払われる鬼は仮面をつけて登場し、しかも、その鬼は、来訪神とも重なっていく。なまはげなどがそうだが、来訪神に融合しなくても、仮面としてこのように視覚化されることで、「鬼さん」と呼ばれるように鬼はかなり親しみのあるものになり、その怖さが薄らぐのである。
「大国舞」でもスルメを与えられ鬼はやはり親和的な「鬼さん」なのであろう。絶対的な神を創造しないが絶対的な悪も創造しない。これが日本のアニミズム的文化ということだ。
境内には近くの小学生が豆を撒く役割のため招待されていて、とても賑やかであった。
定常型社会を学ぶ ― 2014/02/10 00:35
入試が終わり、合格発表の準備等慌ただしい。今日は都知事選挙だが、朝から出校でそれどころではなかった。帰ってから寄ろうと思ったが雪道で断念。というより入れたい候補がなかったというのが本当のところだ。当選確実の出た候補者は特に投票したくなかったのだが、まあ当選だろうなあとは思ってた。対立候補の一本化が出来なかった時点で勝負はついていた。とにかく、コンクリートの公共工事に金を使うのではなく、福祉に金を使って欲しいが、どういう手腕を発揮するか。
今、広井良典の本を読んでいる。『コミュニティを問い直す』はすでに読んだが、『定常型社会』(岩波新書)を読了。そして『グローバル定常型社会』(岩波書店)を読んでいるところだ。広井によれば、これから世界は経済規模を拡大していく成長路線の時代ではなく、一定の生産と消費の枠内で持続する社会を目指す「定常型社会」の時代になると述べる。発展途上国は経済成長路線を突き進むとしても、中国を含む人口の多い途上国国家はここ数十年で老人人口の割合が急激に増え、成長路線そのものが成り立たなくなるという。つまり、若年層の人口減少時代に突入し、そして全体的に人口減少時代になるというのだ。
食料を増産する技術によって人口は爆発的に増える、というのはどうやら幻想らしい。確かに一時は増えるが、どの国家も老人の人口比が拡大するに従い、生産及び消費人口は減少していく。その最先端を突き進んでいるのが日本なのである。人口減少に入り始めた日本の経済が成長路線を取っても展望がないことは、松谷明彦・藤正巌『人口減少社会の設計』(中公新書)が解き明かしている。
広井は、福祉社会の実現は環境問題とリンクさせるべきと説く。従来は、政府が市場経済に関与せず社会福祉にもあまり金を出さない保守派の小さな政府VS福祉を政府が支える社会民主派の大きな政府派の対立構図だったが、この対立は、実は、両方とも経済成長路線そのものを肯定しているという意味で、それほどの違いはない、という。むしろ、これからは、経済成長路線派VS一定の規模の経済のままの持続的社会を目指す定常型社会派の対立になるべきで、環境問題の解決は、定常型社会によってしか解決出来ず、その定常型社会における福祉のあり方を考えて行くべきだというのである。
これらの本を読むと、アベノミクスは時代に逆行した政策だということがよくわかる。アベノミクスの本質は、格差社会に目をつぶることで、一部富裕層の利益を確保しようということであろう。確かに経済は好調に見えるが、大企業だけが潤い、中小企業の経営は相変わらず苦しい。雇用も派遣法の改正でますます正社員の割合を減らそうとしている。給与が安くても、労働時間を減らし、相互互助的な社会の仕組みがあれば、人は安価に幸福な生活が出来る。が、アベノミクスがやろうとしていることは、派遣労働を増やし、給与をあげるために、多くの企業をブラック化して労働時間を増やそうとしているだけなのだ。そして、その不満をそらすために、外敵を作り愛国心を訴える、という中国と同じやり方をしている、というわけだ。つまり、表面的に景気を良くして、一部を除いて大多数が不幸だと感じる社会を作ろうとしている、ということになる。
大多数の人がそこそこ幸福を感じる「定常型社会」の実現はかなり困難だとは思うが、グローバル資本主義の落としどころはその辺りにしかないということは言えそうだ。
今、広井良典の本を読んでいる。『コミュニティを問い直す』はすでに読んだが、『定常型社会』(岩波新書)を読了。そして『グローバル定常型社会』(岩波書店)を読んでいるところだ。広井によれば、これから世界は経済規模を拡大していく成長路線の時代ではなく、一定の生産と消費の枠内で持続する社会を目指す「定常型社会」の時代になると述べる。発展途上国は経済成長路線を突き進むとしても、中国を含む人口の多い途上国国家はここ数十年で老人人口の割合が急激に増え、成長路線そのものが成り立たなくなるという。つまり、若年層の人口減少時代に突入し、そして全体的に人口減少時代になるというのだ。
食料を増産する技術によって人口は爆発的に増える、というのはどうやら幻想らしい。確かに一時は増えるが、どの国家も老人の人口比が拡大するに従い、生産及び消費人口は減少していく。その最先端を突き進んでいるのが日本なのである。人口減少に入り始めた日本の経済が成長路線を取っても展望がないことは、松谷明彦・藤正巌『人口減少社会の設計』(中公新書)が解き明かしている。
広井は、福祉社会の実現は環境問題とリンクさせるべきと説く。従来は、政府が市場経済に関与せず社会福祉にもあまり金を出さない保守派の小さな政府VS福祉を政府が支える社会民主派の大きな政府派の対立構図だったが、この対立は、実は、両方とも経済成長路線そのものを肯定しているという意味で、それほどの違いはない、という。むしろ、これからは、経済成長路線派VS一定の規模の経済のままの持続的社会を目指す定常型社会派の対立になるべきで、環境問題の解決は、定常型社会によってしか解決出来ず、その定常型社会における福祉のあり方を考えて行くべきだというのである。
これらの本を読むと、アベノミクスは時代に逆行した政策だということがよくわかる。アベノミクスの本質は、格差社会に目をつぶることで、一部富裕層の利益を確保しようということであろう。確かに経済は好調に見えるが、大企業だけが潤い、中小企業の経営は相変わらず苦しい。雇用も派遣法の改正でますます正社員の割合を減らそうとしている。給与が安くても、労働時間を減らし、相互互助的な社会の仕組みがあれば、人は安価に幸福な生活が出来る。が、アベノミクスがやろうとしていることは、派遣労働を増やし、給与をあげるために、多くの企業をブラック化して労働時間を増やそうとしているだけなのだ。そして、その不満をそらすために、外敵を作り愛国心を訴える、という中国と同じやり方をしている、というわけだ。つまり、表面的に景気を良くして、一部を除いて大多数が不幸だと感じる社会を作ろうとしている、ということになる。
大多数の人がそこそこ幸福を感じる「定常型社会」の実現はかなり困難だとは思うが、グローバル資本主義の落としどころはその辺りにしかないということは言えそうだ。
ルリビタキと歌謡 ― 2014/02/17 23:56
最近わがマンション隣の公園に野鳥愛好家が何人も集まっていて、マンションに向けて望遠つきカメラや双眼鏡を向けている。多いときには10人ほどになる。私の部屋は三階なのだが、ちょうど彼らから正面で、いつも望遠カメラを向けられているのである。理由は、わがマンションの庭に「ルリビタキ」がいるらしく、それを観察に来ているのである。むろん、撮影もねらってである。
実は、昨日、そのルリビタキを近くで見ることが出来た。青いきれいな鳥が庭の雪の上を歩いていた。奥さんが「あっ、ルリビタキ」と叫んだので私も見ることが出来た。公園に集まっている人たちはマンションの中に入れない。気の毒だが、近くで観察出来た私たちはラッキーであった。里には下りてこない筈のルリビタキがどうして庭に居るのか不思議だが、それだけ、わがマンションの庭には樹木が多いということだ。隣の敷地や公園や、向かいのNTTの敷地は林になっていてて、この辺りは緑が多い。NTTの敷地にはかつてオオタカも営巣していたほどである。それにしてもこの雪にも関わらず必ず何人かは観察に来ている。熱心というか、感心するばかりである。
日本歌謡学会編『日本の歌謡を旅する』(和泉書院)を読了。なかなか面白かった。古代から近世にかけての歌謡を99首選び、それに研究者が詳細な解説をほどこした本である。歌謡関係の本をこんなに集中して読んだのは始めてである。実は、書評を頼まれているということもあるのだが、読み始めるとけっこう引き込まれた。
古代から近世までの歌謡が集められているが、記紀歌謡や万葉集もある。歌謡であるから、声で歌われたものであり、踊りを伴ったものもあるであろう。和歌のように定型の枠に収まっていないのは、やはり、声として表現されることが大きいと思われる。
引き込まれたのは、その歌詞が、余分な装飾が削がれて、意味が極めてシンプルであることだ、そのシンプルさが、逆に、強い意味作用を持っている。研究者の解説は、その意味作用を歴史的背景や表現史とともに説いてくれる。なかなか読み応えがある。
何故強い意味作用を持つのか。それは、その表現か徹底して現在的であるということである。その言葉は現世の今の生そのものから徹底して離れないということだ。回りくどい言い方だが、例えば次のような歌がある。
なにせうぞくすんで 一期は夢よ たゞ狂へ (閑吟集)
(どうしようというのだ、まじめくさって、人の一生なんてはかない夢のようなものさ。ただひたすら遊び狂え)
この歌の対極には「くすんで」の世界観がある。宗教も、文学も、超越的高みを目指した「くすんで」の世界であり、この歌謡はその超越性を拒絶する。この歌は、歌謡というものを対象化した象徴的な表現であるという意味で、この表現そのものが超越的でないことはないのだが、それはそれとして、歌謡というものは、こういう刹那的な生から発せられる言葉であることを標榜する表現である。だからこそ、その意味作用は強く響いてくる。
好きな歌がある。
あまりのことばのかけたさに あれ見さひなふ 空行く雲の早さよ(閑吟集)
(話しかけたくてたまらなくて、「ねえ、あれをごらんなさい、空を流れる雲の早いこと」と言いかけてみた。)
その光景が目に見えるような歌である。好きな人に声をかけたみたい、がどんな言葉で声を掛けたらいいのか、その戸惑いは、昔も今も変わらない。そんな一瞬を切り取る巧みさに脱帽である。
実は、昨日、そのルリビタキを近くで見ることが出来た。青いきれいな鳥が庭の雪の上を歩いていた。奥さんが「あっ、ルリビタキ」と叫んだので私も見ることが出来た。公園に集まっている人たちはマンションの中に入れない。気の毒だが、近くで観察出来た私たちはラッキーであった。里には下りてこない筈のルリビタキがどうして庭に居るのか不思議だが、それだけ、わがマンションの庭には樹木が多いということだ。隣の敷地や公園や、向かいのNTTの敷地は林になっていてて、この辺りは緑が多い。NTTの敷地にはかつてオオタカも営巣していたほどである。それにしてもこの雪にも関わらず必ず何人かは観察に来ている。熱心というか、感心するばかりである。
日本歌謡学会編『日本の歌謡を旅する』(和泉書院)を読了。なかなか面白かった。古代から近世にかけての歌謡を99首選び、それに研究者が詳細な解説をほどこした本である。歌謡関係の本をこんなに集中して読んだのは始めてである。実は、書評を頼まれているということもあるのだが、読み始めるとけっこう引き込まれた。
古代から近世までの歌謡が集められているが、記紀歌謡や万葉集もある。歌謡であるから、声で歌われたものであり、踊りを伴ったものもあるであろう。和歌のように定型の枠に収まっていないのは、やはり、声として表現されることが大きいと思われる。
引き込まれたのは、その歌詞が、余分な装飾が削がれて、意味が極めてシンプルであることだ、そのシンプルさが、逆に、強い意味作用を持っている。研究者の解説は、その意味作用を歴史的背景や表現史とともに説いてくれる。なかなか読み応えがある。
何故強い意味作用を持つのか。それは、その表現か徹底して現在的であるということである。その言葉は現世の今の生そのものから徹底して離れないということだ。回りくどい言い方だが、例えば次のような歌がある。
なにせうぞくすんで 一期は夢よ たゞ狂へ (閑吟集)
(どうしようというのだ、まじめくさって、人の一生なんてはかない夢のようなものさ。ただひたすら遊び狂え)
この歌の対極には「くすんで」の世界観がある。宗教も、文学も、超越的高みを目指した「くすんで」の世界であり、この歌謡はその超越性を拒絶する。この歌は、歌謡というものを対象化した象徴的な表現であるという意味で、この表現そのものが超越的でないことはないのだが、それはそれとして、歌謡というものは、こういう刹那的な生から発せられる言葉であることを標榜する表現である。だからこそ、その意味作用は強く響いてくる。
好きな歌がある。
あまりのことばのかけたさに あれ見さひなふ 空行く雲の早さよ(閑吟集)
(話しかけたくてたまらなくて、「ねえ、あれをごらんなさい、空を流れる雲の早いこと」と言いかけてみた。)
その光景が目に見えるような歌である。好きな人に声をかけたみたい、がどんな言葉で声を掛けたらいいのか、その戸惑いは、昔も今も変わらない。そんな一瞬を切り取る巧みさに脱帽である。
「ラーニング・コモンズ」? ― 2014/02/24 21:17
先週の金曜日は、短歌結社「月光の会」の「黒田和美賞」授賞式。選考委員である私も出席。受賞者は歌集『満州残影』の冨尾捷一、『アンスクリピシオン』の大和志保。新宿ライオンで開かれた。二次会は、新宿ゴールデン街の「なべさん」。福島泰樹に連れられてみんなで行った。私はゴールデン街は二十年ぶりくらいだろうか。昔とちっとも変わらない。今は、何でも東京の観光スポットとかで、外国人の姿見かけた。
土曜は、京都FDフォーラムに出張。昼に京都深草の龍谷大学へ。1日目はシンポジウムで、「未来を切り拓く学生を育てるには」というテーマ。このフォーラム、京都のいろんな大学の成功事例が紹介され、それを聞く度にすごいなと感心するのだが、失敗例のほうがたぶん多いはずだと思う。こちらとしては、むしろそっちを聞きたい。失敗事例の当事者だからだ。参加者のほとんどはそうだろう。ちなみにこのフォーラム、全国から1500人の大学の教職員が参加しているという。京都の経済にかなり貢献しているフォーラムである。
2日目は「教育活動における理想的環境とは何か」というテーマの分科会に参加。短大の事例が中心なので覗いてみることにした。大谷大学短大仏教科の一般研究室や龍谷大学大胆んだい、大阪青山大学の学生支援室、コミュニティなどの事例の紹介。けっこうおもしろかった。何に興味がひかれたかというと、どうやら、今の教育の流れは、教員と学生をコミュニティの一員としてとらえる、という考え方になっている、ということが良く理解出来たということ。実は、私の学科でやろうとしていることも、同じようなことなのだ。
コミュニティとは、共に学ぶコミュニティであるということだが、何を学ぶかというと、この社会を生き抜くための様々な知識、知恵、技術を、互いの関係の中で身につけようとするということだ。つまり、こういったものは、教員学生という固定化した役割の関係ではは身につかない。だから、固定した役割を外して自由な関係が成立する場を擬似的に作り、そこで、様々な力を身につけるというものである。むろん、先輩後輩、教員学生とい違いが全く外されるわけではない。その関係もまた社会的関係だからそれを尊重しつつも、自由に話が出来る場を如何に作れるか、ということだ。教員によっては、ゼミなどでそういう場を作ってきたと思うが、それを制度として作ろうというのが、現在の新しい流れなのである。その一つとして、教員、職員、学生が自由に出入りでき、討論やワーキングが出来る固定した場所を作ろうというのが、ここでの「環境」ということである。
このフォーラムで、毎年新しいカタカナ言葉を覚えて帰るのだが(直ぐに忘れるけど)、今年は「ラーニング・コモンズ」。協同学習のスペースのことらしい。今まで学生の学習のためのスペースは、図書館の自習室みたいなところで、一人一人のスペースが確保され、そこでは、他の者と話が出来ないようになっている。でないと勉強に集中出来ないから。が、今は、違うのだ。学習は、みんなで議論しながら行うことも大切。ところが、そのような学生が集まって議論しあうスペースなど学校は用意していない。そこで、学生が協同で議論したりあるいはグループワークが自主的に出来るスペースを積極的に提供しようという動きになっている。そういうスペースを「ラーニング・コモンズ」という。
時代は変化する、というが、教育も変化していく。面白いといえば面白いが、必ず変化しなきゃいけないものでもないのも、また教育というものだろう。明るく元気で、確固とした将来像を持ち、自分の意見も明確で、それを相手に伝える事が出来る。グループ内でもリーダーシップを発揮して、みんなを引っ張って行く。いつのまにか、大学の教育目的がこういうタイプを育成することになってしまったのは、このタイプが、競争原理が支配する現在の高度資本主義に求められる人間像だからだ。「ラーニング・コモンズ」といった発想もこういう人間像を育てる、という理想から来ている。
が、高度資本主義そのものが何処まで続くかわかりゃしない。その意味でその人間像が普遍的だというわけではない。寡黙で、将来像などわからなくて、そのため、人を説得する強い意見など持てない、ましてやも人を引っ張っていくなんてとても、という人間像のほうが、現実には多いだろう。私だってこっちだ。むろん、これを肯定するわけではないが、でも理想は理想、理想的タイプは、関係の中で10人に一人くらいの割合で作られる、というものと考えるべきで、その意味では誰もが目指すことには無理がある。コミュニケーション下手で、生き方の不器用なものもまた知識を得る機会が持てる、教育はそういう場でもある。そこは外したくはない。
教育とは難しいなと思う。が、「ラーニング・コモンズ」のいいところは、他者との関わりのなかで知識は身についていくということを身をもって知る機会になるということだ。社会にでれば否応なく知ることになるが、社会に出てからでは遅いこともある。格差社会になりつつある現在、自分さえしっかりしていれば、ワーキングプアでもいいじゃないとは言えない。ワーキングプアのつらさは私だって知っている。とすれば、現代的な教育目的の理想像は、ワーキングプアにならないための方策、ということもできる。ますます教育とは難しいと思う。
土曜は、京都FDフォーラムに出張。昼に京都深草の龍谷大学へ。1日目はシンポジウムで、「未来を切り拓く学生を育てるには」というテーマ。このフォーラム、京都のいろんな大学の成功事例が紹介され、それを聞く度にすごいなと感心するのだが、失敗例のほうがたぶん多いはずだと思う。こちらとしては、むしろそっちを聞きたい。失敗事例の当事者だからだ。参加者のほとんどはそうだろう。ちなみにこのフォーラム、全国から1500人の大学の教職員が参加しているという。京都の経済にかなり貢献しているフォーラムである。
2日目は「教育活動における理想的環境とは何か」というテーマの分科会に参加。短大の事例が中心なので覗いてみることにした。大谷大学短大仏教科の一般研究室や龍谷大学大胆んだい、大阪青山大学の学生支援室、コミュニティなどの事例の紹介。けっこうおもしろかった。何に興味がひかれたかというと、どうやら、今の教育の流れは、教員と学生をコミュニティの一員としてとらえる、という考え方になっている、ということが良く理解出来たということ。実は、私の学科でやろうとしていることも、同じようなことなのだ。
コミュニティとは、共に学ぶコミュニティであるということだが、何を学ぶかというと、この社会を生き抜くための様々な知識、知恵、技術を、互いの関係の中で身につけようとするということだ。つまり、こういったものは、教員学生という固定化した役割の関係ではは身につかない。だから、固定した役割を外して自由な関係が成立する場を擬似的に作り、そこで、様々な力を身につけるというものである。むろん、先輩後輩、教員学生とい違いが全く外されるわけではない。その関係もまた社会的関係だからそれを尊重しつつも、自由に話が出来る場を如何に作れるか、ということだ。教員によっては、ゼミなどでそういう場を作ってきたと思うが、それを制度として作ろうというのが、現在の新しい流れなのである。その一つとして、教員、職員、学生が自由に出入りでき、討論やワーキングが出来る固定した場所を作ろうというのが、ここでの「環境」ということである。
このフォーラムで、毎年新しいカタカナ言葉を覚えて帰るのだが(直ぐに忘れるけど)、今年は「ラーニング・コモンズ」。協同学習のスペースのことらしい。今まで学生の学習のためのスペースは、図書館の自習室みたいなところで、一人一人のスペースが確保され、そこでは、他の者と話が出来ないようになっている。でないと勉強に集中出来ないから。が、今は、違うのだ。学習は、みんなで議論しながら行うことも大切。ところが、そのような学生が集まって議論しあうスペースなど学校は用意していない。そこで、学生が協同で議論したりあるいはグループワークが自主的に出来るスペースを積極的に提供しようという動きになっている。そういうスペースを「ラーニング・コモンズ」という。
時代は変化する、というが、教育も変化していく。面白いといえば面白いが、必ず変化しなきゃいけないものでもないのも、また教育というものだろう。明るく元気で、確固とした将来像を持ち、自分の意見も明確で、それを相手に伝える事が出来る。グループ内でもリーダーシップを発揮して、みんなを引っ張って行く。いつのまにか、大学の教育目的がこういうタイプを育成することになってしまったのは、このタイプが、競争原理が支配する現在の高度資本主義に求められる人間像だからだ。「ラーニング・コモンズ」といった発想もこういう人間像を育てる、という理想から来ている。
が、高度資本主義そのものが何処まで続くかわかりゃしない。その意味でその人間像が普遍的だというわけではない。寡黙で、将来像などわからなくて、そのため、人を説得する強い意見など持てない、ましてやも人を引っ張っていくなんてとても、という人間像のほうが、現実には多いだろう。私だってこっちだ。むろん、これを肯定するわけではないが、でも理想は理想、理想的タイプは、関係の中で10人に一人くらいの割合で作られる、というものと考えるべきで、その意味では誰もが目指すことには無理がある。コミュニケーション下手で、生き方の不器用なものもまた知識を得る機会が持てる、教育はそういう場でもある。そこは外したくはない。
教育とは難しいなと思う。が、「ラーニング・コモンズ」のいいところは、他者との関わりのなかで知識は身についていくということを身をもって知る機会になるということだ。社会にでれば否応なく知ることになるが、社会に出てからでは遅いこともある。格差社会になりつつある現在、自分さえしっかりしていれば、ワーキングプアでもいいじゃないとは言えない。ワーキングプアのつらさは私だって知っている。とすれば、現代的な教育目的の理想像は、ワーキングプアにならないための方策、ということもできる。ますます教育とは難しいと思う。
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