スエーデンミステリー読破2014/03/03 00:01

 短歌時評の締め切りが2月末だった。気がついたのは土曜日の3月1日。そういえば2月は28日で終わりだと気がついて慌てたのである。学会の例会に出ようと思っていたが、それどころではなくなった。土日と福島泰樹歌集『焼跡ノ歌』について原稿を仕上げる。日曜(今日)の昼頃何とか書き終えた。

 この時評考えてみればもう20年近く書いている。回数でいくと100本は超えている。毎月ではないが、年5~6本書いているだろう。おかげで短歌評論集と題して二冊刊行することができた。3冊目をそろそろと考えてはいる。

 最近、休みには車で近くの日帰り温泉施設に行くことが多くなった。今日、原稿を書き終え、奥さんと稲城の「四季の彩」に行って来た。ここはちょっと遠いが、天然温泉でなかなかいいところだ。近くには仙川にあるが、ここにもよく行く。他にはよみうりランドの「丘の湯」。ここも案外に近い。また、国立インターの近くで多摩川沿いにある温泉にも2回ほどいった。ここもちょっと遠い。茅野の山小屋にいるときはたいてい温泉に行くので、どうも温泉に行く習慣がついてしまった。ささやかだが贅沢な楽しみである。

 エンターティンメント系読書も手を抜いていない。むしろ、ちょっと読み過ぎなので、そろそろ哲学思想系の読書にもどらなければと思っているところだ。ハンナアーレントの『人間の条件』を読み始めているのだが、ちっともすすまない。

 特にスエーデンミステリーにはまってしまった。まず、ラーシュ・ケプレルのシリーズを全部読んだ。『催眠』『契約』『交霊』それぞれ上下巻(ハヤカワ文庫)である。次にカミラ・レックバリのエリカ&パトリック事件簿シリーズ(集英社文庫)全五巻を読了。ミレニアムは昨年読んでいる。とにかく、みんな長い。読み終わるとどっと疲れる。だが、やはりミステリーなので最後まで読んでしまう。これくらい疲れさせてくれるのだから、支払った金額と費やした時間にそこそこ見合っているとは思う。

 前にも書いたが、共通するのは暗い話が多いこと。事件もおぞましい。結局、見知らぬ他者が巣くう大都市での物語ではなく、小さな国での小さな地方都市での殺人事件であるから、犯人はほとんどが、その地域の住人でみな知っている人物なのだ。殺人の理由は、ほとんどが強烈なトラウマを抱え込んで精神に問題を抱え込んだ人物である場合が多い。とすると、その捜査は、精神分析的になるし、そのトラウマをさがす歴史の掘り起こしということになる。これがどれも長編になっていく理由である。一人一人の人物の性格とその過去が丁寧に解き明かされることで事件が解決していくからだ。これだけたくさん読むと、スエーデン人はみんなトラウマを抱えて精神的に問題を抱えているのか、と思ってしまう。それは冗談だが、とりあえず面白そうなのは読んでしまったので、スエーデンミステリーにはもう手を出さないつもりだ。

 それとは別に気休めにと読んだのが池井戸潤の小説。『銀行仕置人』『下町ロケット』『ルーズヴェルト・ゲーム』の三冊。白状すると『銀行仕置人』は去年読んでいた。題名を忘れていて、二度買いしてしまったのだ。ここまではよくあることである。三度買いという経験もあるくらいだ。だが問題なのは、最初20頁ほど読んでもそのことに気づかなかったことだ。つまり、内容も忘れていたのである。実にいい加減によんでいたことがわかる。途中で気づいた。確か読んだ事があると。まあ二度楽しめるという考え方もあるが、自分の惚けぶりに愕然とした。池井戸の小説は、基本は同じだから、安心して読める。読み終わってこんなに上手くいかないよなと思いながらもスカッとした気分になれる。

 少し変わったところでは、角幡唯介『アグルーカの行方』。北極探検のノンフィクションだが、北極探検で129人が死亡したフランクリン隊のルポルタージュでもある。以前に『空白の五マイル』を読んでいたので、次にこの本を読んだのだが、実は、栃木の実家にいる母親から借りた本である。母は86歳になるが、本好きで、中国歴史ものはほとんど読んでいる。角幡唯介が好きらしくみんな読んでいるというので先日実家に帰ったときに借りてきた。『アグルーカの行方』も面白い。私も中国奥地の調査をしているが、探検ではない。極限状態をどう乗り切るかという面白さと、全員死亡と言われているイギリスのフランクリン隊に生存者がいるのでは、と思わせる情報を探検しながら探っていくルポルタージュは、とにかく迫力があって読ませる。おすすめである。

イザベラ・バード『中国奥地紀行2』2014/03/09 15:46

 3月は何故か出校日が多い。週5日は出校している。ほとんど会議である。学科長という立場上しかたがないが、まとまった研究に時間をさけないのが辛いところだ。先週は水曜にFD研修会が学校であり、私が「アクティブラーニング」の報告をした。「キャリアデザイン演習」の授業でクループワーキングを行っているので、その事例報告である。50名近い教員が参加。わが校のFD活動もそれなりに形になってきたようだ。

 金曜日にFD委員会があり、そこで、演劇を学生主体で行うプロジェクトの企画か提出された。授業の提案だが、その授業とは、複数の教員が担当し、演劇の企画から脚本、、演出、出演、舞台、服装、広報、上演全てを学生が中心になって行うというプロジェクトである。これは、明治大学ですでにシェイクスピアプロジェクトとして10年ちかく行われているもので、それをわが大学でもやってみようという企画である。評価はどうするとか、予算は、とかいろいろ質問はでたが、やろうということで一致はした。が、前途多難である。課題はたくさんある。明治では150名近い学生が参加し、単位が与えられるということだ。新しいことをみんなで行うことは楽しいことである。是非実現したい。

 イザベラ・バード『中国奥地紀行2』(平凡社ライブラリー文庫)がでたので早速買って読んで見た。1のほうはすでに読んでいる。1は、長江を四川省まで遡る旅の記録であった。上流へと、しかも長江の急流を船で上っていく旅のすごさは圧巻であった。何百人の曳夫たちが命がけで船をロープで引っ張る様子に驚かされた。

 2のほうは、四川省の成都からさらにチベットに向かって山岳を行く旅である。少数民族の居住地を行く旅であり、雲南省ではあるが中国の少数民族を調査している私としては、興味深く読んだ。1890年代の頃であり、この当時の四川省奥地の記録として、資料的価値の高い紀行文である。

 イザベラバードは、四川省の町で暴徒に襲われ頭を負傷する。中国人は、西洋人が来ると子供を食らうという噂を真に受けて畏れ排斥しようとするのである。むろん、そこには、西洋の植民地支配への反発が背景にあるだろうが、中国人(漢族)の、鬱積した不満や畏れなどを攻撃的な形で発散する仕方は今と変わらないと感じる。この紀行文でも書かれているが、漢族に対して少数民族は穏やかである。この、イザベラバードの感じ方は、やはり中国の少数民族を調査している私の感じ方とそれほど変わらない。

 それにしても中国の奥地のかなり危険な旅にでるイザベラ・バードは65歳であり、私と同じ歳だ。旅行記をかくことを仕事としているとは言え、驚異的である。日本の旅行記は40代後半で、それから10数年経っている。日本の旅は、西欧では失われた古いものを訪ね歩くものだった。だから、日本ははとても美しく懐かしいものとして描かれた。

 が、中国は違う。このことはすでにブログで書いたが、イザベラ・バードが中国でみたものは、中国人の圧倒的な生へのエネルギーだった。イギリス婦人の目には。中国の民衆は、狡猾で、野蛮で、汚い。が、エネルギッシュで、悲惨で、自由である。欧米の搾取にあっているが、それでも、恐怖を感じながらもその圧倒的な生きる力を伝えている。

 だが、その圧倒的な力を吸収してしまっているのがアヘンなのである。当時、四川省の都市に住む住人の半分はアヘンの常習者であると述べている。アヘンなしでは中国の社会そのものがたちゆかなくなっているほどだと述べる。上流階級から下層までどの階層にもアヘンは浸透し、特に、下層では、アヘンを買うために娘を売り飛ばす親がいるほどで、アヘンは中国社会をかなりむしばんでいるのである。それだけ大量のアヘンが消費されるのであるから、ケシ栽培は雲南省や貴州省の主たる生産物となり、中国西南地域の経済を支える程になっている。中国では、日清戦争に負けたのは、日本がアヘンを拒絶したのに対して中国は拒絶できなかったからだという説があるという。アヘンを持ち込んだのはイギリスなのだが、それにしてもどうして中国人はアヘンにはまってしまったのか。

 イザベラバードは中国人は矛盾に満ちていると述べる。役人は腐敗し、西洋諸国に搾取され、それに不服も言え無いほど「病人」ではあるが、「実際のところ、中国人は実生活の面では世界で最も自由な国民の一つなのである」と述べるのだ。経済の自由、移動の自由も、宗教の自由も、反乱の自由もある。ただ、国の制度そのものが旧すぎて多くの国民が貧しいというだけなのだ。

 反乱はすぐに鎮められ、清朝政府は改革を弾圧する。さらに外国勢力には経済の利権を独占される。そういう状況のなかで、出口を失ったエネルギーを鎮静化させるのがアヘンであったということではないか。つまり、当時の中国には希望がなかったということになる。アヘンによって現実から逃避することが一つの流行として中国全土を覆ったのだ。イザベラバードの紀行文はそのような中国の雰囲気をよく伝えている。

 今中国は一党独裁だが、中国人は、たぶん独裁されているとはあまり思っていない。自分たちの生活を成り立たせてくれるなら、政府がどういうものであろうとあまり気にしない。何故なら「実生活の面では世界で最も自由な国民の一つ」であるからだ。中国人は、歴史的にずっと王朝の支配下であり、生活がなりたたなくなれば、反乱を起こして王朝を交替してきた。そのDNAは共産党政権下でも受け継がれている。

 中国政府もそれを知っているから、経済成長が止まるのを恐れ、民衆のエネルギーを日本叩きで逸らしながら、必死になって成長維持路線をひた走らざるを得ないのだ。中国人に物質的豊かさを得ることへの欲望に火を付けてしまった共産党政府は、今、その爆発的エネルギーをどうやって鎮めるか、苦慮していることだろう。間違えれば、政府そのものが交替させられてしまう。が、やがて、中国人自身が、現在のような成長路線に生活のエネルギーを賭けることの空しさを知る時がくるだろう。それが何時になるかわからないが、そのとき、たぶん、中国は周辺諸国と平和に穏やかにつきあえるのだと思う。今の不幸な関係の解決は、そのときまで待つしかないだろう。

卒業式の日にハンナ・アーレントを読み終える2014/03/17 01:20

 15日は卒業式であった。肌寒い天気であったが晴れたのがさいわいであった。本館前の僅かなスペースで記念撮影。歩道を通るひとがみな見ていく。都市の大学ならではの撮影風景である。夜は学科の送別会をかねた懇親会。銀座の和食レストランでの会食である。

 明日は、ディズニーホテルでの卒業パーティ。毎年繰り返される行事であるが、教員としては、一年で最もありがたいときである。とりあえず学生から感謝される日々だからだ。むろん、教員への感謝も卒業行事の一環なのだが、それでも感謝されれば嬉しくはある。

 ただ、一方で、進級や卒業が出来なくて退学を決意する学生もいる。こちらは教員にとって辛いが、ほとんどが出席不足で、いわゆる不本意入学の学生である。むろん、引き留めるケースもあるが、事情を聞いて、別の道を進みたいと意志を明確にしていれば、頑張れと励ます。

 ハンナ・アーレント『人間の条件』を読了。アーレントは読まなきゃと思っていたのだが、どうもなかなか機会がなく、今回ようやく読むことが出来た。内容についてはだいたい入門書で把握はしていたが、やはり、難解ではあっても実際に読んでみると面白い。ただ、いろいろと考えさせられた。

 一番、考え込んだのは、「労働」に対するアーレントの把握に、やや違和感を感じてしまうところだ。アーレントは、「労働」「仕事」「活動」と人間の活動のありかたを分別し、「労働」を下位に置く。「労働」とは、生存のために繰り返される行為であって、例えば召使いが主人の食事を作ったり身の回りの世話をするのと基本的に変わらないと言う。従って、そこには自由は存在しない。

 この「労働」観は、マルクスの批判でもある。マルクスは人間の価値を「労働」そのものに置いた。つまり、人間の存在価値は労働しその生産物を享受することにある。だが、人間の疎外は、その労働による生産を搾取され、あるいは交換価値として労働者に還元されないことによって生じると言っている。従って、マルクス主義は、労働者が労働を人間的な価値として取り戻すことに、革命の目的を置く。

 アーレントはそうではないと言う。人間の価値は「自由」にあり、その自由は「活動」にある。「活動」とは、多様な価値観を持つ他者との共同的な世界の構築のために言葉による関係を築く行為そのもののこと。つまり、多様な他者を許容していく社会の形成に参加するところに始めて「自由」は成立するのであつて「自由」は決して内面的なものではないと言う。その「活動」は「労働」すなわち「労働する動物」状態から自立していなければならない。近代社会は、国民国家も、共産主義国家も含めて、人々を単一な人間として「労働する動物」に変えてしまった。だから、人間を自由な存在とするためには、「労働する動物」から解放し、他者と協働する社会構築のための「活動」する存在としなければならないというのである。

 つまり、人間存在の価値を、労働や仕事をする存在にではなく、自由に議論する存在に置いている、ということになる。マルクスの人間的価値のとらえ方は、自然を相手に労働しそこから生存のための生産物とプラスしての剰余価値を得ていく、そこに生きる喜びがある、ということになろうか。それに対して、アーレントは、そんな労働は「奴隷の労働」のようなものであって、むしろ、そこから解放される所に価値を置く。

 実は、民俗学が依拠する人間観は、マルクス的な労働観に近い。自然(神)との関わりによる労働を社会形成の文化としてとらえるからだ。そうすると、アーレントの考えは、民俗学と対極にある、ということになる。だが、柳田民俗学の問題としてとらえ返すと、実は、柳田は、一方で、アーレントと似たことを言っている。地方に生きる人間が自分の住む地域の伝統や歴史を知ることで、よき選挙民として自立するべきだと言うのがそうだ。これは、単一的価値観に流れやすい国民に満足せず、地域の多様性を踏まえたうえで、選挙に対して自由な意志を明示できる人間の育成こそ民俗学なのだと言っているのである。

 が、柳田は、やはり、名も無き人々の日々の繰り返しの労働を尊重する。が、アーレントの言うようなことも言う。しかし、それだと、アーレントの労働観とは相容れない。

 ここが問題の本質だと思える。つまり、アーレントのようにはなかなか言えないということだ。れわれは、労働から解放されなくては自由になれないとはなかなか言えない。生存のためであるとは言え、人間の自然性に基づく労働をただ辛いものとしたとき、われわれは生きて行けるのか、という疑問がどうしても残るのだ。ただ、一方で、アーレントの言うように他者との協働する世界構築のための活動にこそ人間の価値を求めることも納得である。いったい、労働する存在であることを失わないで、一方で、他者と協働する世界への言論を駆使できる存在でもある、という、そのような人間的価値とは成立しないのだろうか。いや、成立する、と考えなければならないのではないか、というのが、アーレントを読んで考えたことということになろうか。

ウォーキングと散策と2014/03/24 23:44

 新学期が始まるまでは、プロ野球の選手と同じで、講義の準備や体力作りの日々である。数日前に体中にじんましんが出た。原因がわからない。医者に期限切れの食べ物を食べたかと言われたが食べた記憶はない。体力がおちて抵抗力がないと時々出るということだろう。今はだいぶ回復しつつある。

 やや体重が増え気味なので、毎日ウオーキングをしているが、体力がないせいか1時間歩くと疲れる。今日も、野川沿いを砧公園まで歩いて行った。50分ほどで着く。帰りは、仙川沿いを歩き、東宝撮影所を通って成城学園前の駅に出る。30分ほどで着く。このコースけっこう気に入っている。気に入る理由は、川沿いで木陰が多いのと、ばてたときに駅からバスに乗って帰れるからだ。やはりばてた。そこで予定通りバスに乗って帰る。

 午後、奥さんと、鶴見川源流の湧き水の池まで行こうということになって、車でチビをのせて出かける。町田の上小山田というところで、南大沢から町田のほうに抜ける道の途中である。道路脇に湧き水の池があり、おばあさんが掃除をしていた。どうもここらしいというので、奥さんがおばあさんにここが鶴見川源流の湧き水ですかと聞くと、不機嫌そうな顔をして違うという。ここから200メートルだという。が、近くに案内板があるのでおかしいと思いながら、200メートルほど歩いたが見つからない。そこに、自転車で遠くから源流を見に来たというおじさんが、近所の人の話だと、あのおばあさんは源流を見に来る人にめちゃくちゃなことを言うらしい、と話してくれた。

 結局、そのおばあさんが掃除していた湧き水の池が源流だったのだ。何故、おばあさんが素直にここだと言わなかったのかわからないが、たぶん、観光客が来て迷惑しているのだろう。観光客もマナーの悪い人はいるだろうから。私も、写真をとろうと池の傍の道を歩いたら、そこは私道でおばあさんにそこに入るなと叱られた。確かに、よく見るとそう書いてある。失敗であった。源流の池はたいしたことはなかったのだが、そのおばあさんはたいしたものだった。おそらく、この湧き水を心ない見物客から守っているのだろう。私たちもそのような見物人にされてしまったということか。帰りに小山田緑地の公園でチビの散歩をして帰途につく。

 帰ったらメールで、7月に、民俗学の学会で発表をしてくれと依頼が来ていた。せっかくの依頼断れないが、かといって荷が重い。民俗学会のそうそうたるメンバーの前でへたなことは話せない。テーマは「慰霊と民俗学」に関すること。つまり、靖国問題にふれざるを得ないテーマだということだ。私に依頼が来たのは、柳田の「先祖の話」の論を書いているからだ。実は、もう一つ、短歌の時評の次のテーマが「菱川善夫」だというメールも入った。これから、菱川善夫を読み、慰霊についての本も読みと、忙しくなる。