ルリビタキと歌謡2014/02/17 23:56

 最近わがマンション隣の公園に野鳥愛好家が何人も集まっていて、マンションに向けて望遠つきカメラや双眼鏡を向けている。多いときには10人ほどになる。私の部屋は三階なのだが、ちょうど彼らから正面で、いつも望遠カメラを向けられているのである。理由は、わがマンションの庭に「ルリビタキ」がいるらしく、それを観察に来ているのである。むろん、撮影もねらってである。

 実は、昨日、そのルリビタキを近くで見ることが出来た。青いきれいな鳥が庭の雪の上を歩いていた。奥さんが「あっ、ルリビタキ」と叫んだので私も見ることが出来た。公園に集まっている人たちはマンションの中に入れない。気の毒だが、近くで観察出来た私たちはラッキーであった。里には下りてこない筈のルリビタキがどうして庭に居るのか不思議だが、それだけ、わがマンションの庭には樹木が多いということだ。隣の敷地や公園や、向かいのNTTの敷地は林になっていてて、この辺りは緑が多い。NTTの敷地にはかつてオオタカも営巣していたほどである。それにしてもこの雪にも関わらず必ず何人かは観察に来ている。熱心というか、感心するばかりである。

 日本歌謡学会編『日本の歌謡を旅する』(和泉書院)を読了。なかなか面白かった。古代から近世にかけての歌謡を99首選び、それに研究者が詳細な解説をほどこした本である。歌謡関係の本をこんなに集中して読んだのは始めてである。実は、書評を頼まれているということもあるのだが、読み始めるとけっこう引き込まれた。

 古代から近世までの歌謡が集められているが、記紀歌謡や万葉集もある。歌謡であるから、声で歌われたものであり、踊りを伴ったものもあるであろう。和歌のように定型の枠に収まっていないのは、やはり、声として表現されることが大きいと思われる。

 引き込まれたのは、その歌詞が、余分な装飾が削がれて、意味が極めてシンプルであることだ、そのシンプルさが、逆に、強い意味作用を持っている。研究者の解説は、その意味作用を歴史的背景や表現史とともに説いてくれる。なかなか読み応えがある。

 何故強い意味作用を持つのか。それは、その表現か徹底して現在的であるということである。その言葉は現世の今の生そのものから徹底して離れないということだ。回りくどい言い方だが、例えば次のような歌がある。

  なにせうぞくすんで 一期は夢よ たゞ狂へ (閑吟集)     
 
(どうしようというのだ、まじめくさって、人の一生なんてはかない夢のようなものさ。ただひたすら遊び狂え)

 この歌の対極には「くすんで」の世界観がある。宗教も、文学も、超越的高みを目指した「くすんで」の世界であり、この歌謡はその超越性を拒絶する。この歌は、歌謡というものを対象化した象徴的な表現であるという意味で、この表現そのものが超越的でないことはないのだが、それはそれとして、歌謡というものは、こういう刹那的な生から発せられる言葉であることを標榜する表現である。だからこそ、その意味作用は強く響いてくる。

  好きな歌がある。

 あまりのことばのかけたさに あれ見さひなふ 空行く雲の早さよ(閑吟集)

 (話しかけたくてたまらなくて、「ねえ、あれをごらんなさい、空を流れる雲の早いこと」と言いかけてみた。)

 その光景が目に見えるような歌である。好きな人に声をかけたみたい、がどんな言葉で声を掛けたらいいのか、その戸惑いは、昔も今も変わらない。そんな一瞬を切り取る巧みさに脱帽である。