「ラーニング・コモンズ」?2014/02/24 21:17

 先週の金曜日は、短歌結社「月光の会」の「黒田和美賞」授賞式。選考委員である私も出席。受賞者は歌集『満州残影』の冨尾捷一、『アンスクリピシオン』の大和志保。新宿ライオンで開かれた。二次会は、新宿ゴールデン街の「なべさん」。福島泰樹に連れられてみんなで行った。私はゴールデン街は二十年ぶりくらいだろうか。昔とちっとも変わらない。今は、何でも東京の観光スポットとかで、外国人の姿見かけた。

 土曜は、京都FDフォーラムに出張。昼に京都深草の龍谷大学へ。1日目はシンポジウムで、「未来を切り拓く学生を育てるには」というテーマ。このフォーラム、京都のいろんな大学の成功事例が紹介され、それを聞く度にすごいなと感心するのだが、失敗例のほうがたぶん多いはずだと思う。こちらとしては、むしろそっちを聞きたい。失敗事例の当事者だからだ。参加者のほとんどはそうだろう。ちなみにこのフォーラム、全国から1500人の大学の教職員が参加しているという。京都の経済にかなり貢献しているフォーラムである。

 2日目は「教育活動における理想的環境とは何か」というテーマの分科会に参加。短大の事例が中心なので覗いてみることにした。大谷大学短大仏教科の一般研究室や龍谷大学大胆んだい、大阪青山大学の学生支援室、コミュニティなどの事例の紹介。けっこうおもしろかった。何に興味がひかれたかというと、どうやら、今の教育の流れは、教員と学生をコミュニティの一員としてとらえる、という考え方になっている、ということが良く理解出来たということ。実は、私の学科でやろうとしていることも、同じようなことなのだ。

 コミュニティとは、共に学ぶコミュニティであるということだが、何を学ぶかというと、この社会を生き抜くための様々な知識、知恵、技術を、互いの関係の中で身につけようとするということだ。つまり、こういったものは、教員学生という固定化した役割の関係ではは身につかない。だから、固定した役割を外して自由な関係が成立する場を擬似的に作り、そこで、様々な力を身につけるというものである。むろん、先輩後輩、教員学生とい違いが全く外されるわけではない。その関係もまた社会的関係だからそれを尊重しつつも、自由に話が出来る場を如何に作れるか、ということだ。教員によっては、ゼミなどでそういう場を作ってきたと思うが、それを制度として作ろうというのが、現在の新しい流れなのである。その一つとして、教員、職員、学生が自由に出入りでき、討論やワーキングが出来る固定した場所を作ろうというのが、ここでの「環境」ということである。

 このフォーラムで、毎年新しいカタカナ言葉を覚えて帰るのだが(直ぐに忘れるけど)、今年は「ラーニング・コモンズ」。協同学習のスペースのことらしい。今まで学生の学習のためのスペースは、図書館の自習室みたいなところで、一人一人のスペースが確保され、そこでは、他の者と話が出来ないようになっている。でないと勉強に集中出来ないから。が、今は、違うのだ。学習は、みんなで議論しながら行うことも大切。ところが、そのような学生が集まって議論しあうスペースなど学校は用意していない。そこで、学生が協同で議論したりあるいはグループワークが自主的に出来るスペースを積極的に提供しようという動きになっている。そういうスペースを「ラーニング・コモンズ」という。

 時代は変化する、というが、教育も変化していく。面白いといえば面白いが、必ず変化しなきゃいけないものでもないのも、また教育というものだろう。明るく元気で、確固とした将来像を持ち、自分の意見も明確で、それを相手に伝える事が出来る。グループ内でもリーダーシップを発揮して、みんなを引っ張って行く。いつのまにか、大学の教育目的がこういうタイプを育成することになってしまったのは、このタイプが、競争原理が支配する現在の高度資本主義に求められる人間像だからだ。「ラーニング・コモンズ」といった発想もこういう人間像を育てる、という理想から来ている。

 が、高度資本主義そのものが何処まで続くかわかりゃしない。その意味でその人間像が普遍的だというわけではない。寡黙で、将来像などわからなくて、そのため、人を説得する強い意見など持てない、ましてやも人を引っ張っていくなんてとても、という人間像のほうが、現実には多いだろう。私だってこっちだ。むろん、これを肯定するわけではないが、でも理想は理想、理想的タイプは、関係の中で10人に一人くらいの割合で作られる、というものと考えるべきで、その意味では誰もが目指すことには無理がある。コミュニケーション下手で、生き方の不器用なものもまた知識を得る機会が持てる、教育はそういう場でもある。そこは外したくはない。

 教育とは難しいなと思う。が、「ラーニング・コモンズ」のいいところは、他者との関わりのなかで知識は身についていくということを身をもって知る機会になるということだ。社会にでれば否応なく知ることになるが、社会に出てからでは遅いこともある。格差社会になりつつある現在、自分さえしっかりしていれば、ワーキングプアでもいいじゃないとは言えない。ワーキングプアのつらさは私だって知っている。とすれば、現代的な教育目的の理想像は、ワーキングプアにならないための方策、ということもできる。ますます教育とは難しいと思う。