柳田国男とコミュニティ論2014/01/07 01:17

新年明けましておめでとうございます。

 今年の正月休みは久しぶりに山小屋でゆっくり過ごす。原稿も時評一本だけで、それも年末に書き上げ、久しぶりに仕事に追われない正月となった。もっとも、正月は、S夫婦(かつて予備校で教えていたときの教え子)とその妹夫婦の二家族が泊まりに来て、なかなか賑やかではあったが。S家は子供が五人、その妹夫婦のところは一人、計6人、一番上が小学2年だから、幼稚園が引っ越してきたみたいである。子供達は、チビにまとわりつくので、大変なのがチビである。逃げ回っている。彼らが来ると、少子化が嘘みたいになる。このたくさんの子供達を育てる親はえらいと本当に感心する。

 正月、子供達はみんなスキーに出かける。私も実は滑りたいところなのだが、体力の衰えと膝が痛むなどの老齢化現象でスキーを控えている。ただ身体を動かさないとだめなので、スノーシューを買い、山小屋の近所の人たち4人(私たち夫婦とあと二人だが、私たちより元気な老人である)で、近くの山に散歩に出かけた。天気も良く快適なスノーシューの散歩であった。久しぶりの運動にもなった。

 さて、年末から正月にかけてたくさんのエンターティンメントのドラマを観、本も読んだ。その中ではまったのが、中国のドラマ『天龍八部』である。全十巻を借りてきて一週間もかからず制覇。一巻に4話入っている。長い。が、これがはまった。実は、観るきっかけになったのは、雲南省の大理に行ったときに、大理郊外に『天龍八部』のロケの為に作られた古城のセットが観光名所になっているのを知ったからで、ドラマも面白いと聞いていた。そこで借りてきて見始めたらこれが面白かった。

 主人公の一人である大理国の王子は白族で、私が調査している少数民族ということもあって、まず親しみが持てた。荒唐無稽の武侠ドラマだが、男女の情愛の描き方がとてもうまい。特に、中心となる英雄喬峯(きょう ほう)と彼を巡る姉妹の悲しい物語は、めったに泣かない私ですら涙がでるほどであった。このドラマお薦めである。

 文庫本で出され始めた、村上春樹訳レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』、『さよなら、愛しい人よ』を読んだ。やはり村上訳は読ませる。死ぬほどに殴られても、フィリップ・マーロウは醒めた位置からウィットに富む台詞で決める。絶望的な状況でもこんな風に言葉が出てくること、それが、村上春樹の理想なんだろうと思う。とりあえず文庫本の村上訳は全部読む予定。

 教養系として、これは仕事にも少しかかわるのだが、最近、コミュニティ論に興味があり、地域コミュニティの実践例などを扱った本を読んでいる。よく売れている『里山資本主義』は、地域コミュニティこを巻き込んだ経済活動のあり方を示しているという意味で面白かった。この本を読んで、私は、山小屋の薪ストーブ(薪の調達が大変)をペレットストーブに代えようと思ったくらいである。山崎享『コミュニティデザインの時代』(中公新書)、鈴木嘉一『わが街再生 コミュニティ文化の新潮流』(平凡社新書)は、コミュニティの実践例を紹介した本。いろいろと教えられた。

 コミュニティに関心があるのは、柳田国男を今どう読むか、という課題にとって、コミュニティ論として読むべきではないかというのが私の考えだからだ。山崎享は、都市部では「私」が閉じることになり、それ以外は「公」なのだが、「私」がつながっていないので「共」がうまれにくい。従って、自ずと「公」は「官」に近づいてしまう、という。考えてみれば、日本の「官」の肥大化は、「共」が崩壊し、新たな「共」を作れなかったことに原因がある。柳田はそのことをかなり早くから訴えていた筈であった。今、「官」が「公」を担うのは難しい時代になった。なら、「私」をつなげて「共」をつくり、それを外部に開くことによって「公」を作る必要があると山崎はいう。まったくその通りである。実は、柳田もそれに近いこと考えていた。今、また柳田が読まれるべき時代になったのだと思うのである。

三連休を楽しむ2014/01/13 23:24

 この三連休は久しぶりの休みという感じ。とにかく、体力作りに励んだ。この三日間、ウォーキングを毎日一時間以上続けた。だた歩くのはつまらないので、何処か目的地を捜してそこまで歩くことにした。一日目の目的地にしたのが、喜多見にある氷川神社である。この神社まで歩いて30分ほどかかった。なかなか良い神社である。鎮守の森がけっこう残っている。かつての村の鎮守だったところだろう。この辺りは多摩川沿いだから、川に関わる氷川神社を招聘したということか。そんなに小さい神社ではない。

 狛江の駅まで歩いていったが、北側の弁天池や泉龍寺もまた緑が残っていて良いところだ。狛江の駅付近から北方に向かって野川まで細い緑道がくねくねしながら続いている。この緑道はかつての野川の跡で、もともと野川はくねくねと曲がりながら、狛江駅近くを通って、多摩川まで行っていたのだ。たぶん、大雨で氾濫するとかいう理由で、現在のコースに野川を作り、古い野川は現在散歩道として残ったということである。

 昼間、近くの温泉巡りをしようということになった。そこで、調べたら、稲城に二つある。一つは南部線南多摩駅近くの「季乃彩」もう一つはよみうりランドに隣接する「丘の湯」である。いずれも車で30分ちょいの所である。仙川にもあるが、こちらは近いのでしょっちゅう利用している。飽きたので新しい所を開拓しようということになったのである。この二つに行って見た。二つともなかなか良いところである。「季乃彩」は温泉で、地下からくみ上げている。運動をして温泉につかるというのは、身体のためには最高。仕事がたまたまないからこそ出来る。これから忙しくなるのでもう無理だろうと思う。

 岩波から、近々、赤坂憲雄、河合俊雄、三浦佑之が中心になって『遠野物語』についての論集が出る。その中に私も書いているのだが、その初稿校正をすませ、明日の授業の準備、などをして今日は過ごす。『日本文学』が送られてきた。「教科書と文学」という特集で私の論が掲載。なかなか苦労した論だったが、まあまあの出来といったところか。

 最近読んだエンターティンメント系。ヴィヴェカ・ステン『静かな水の中で』、ラーシュ・ケプレル『催眠』上下巻、いずれもハヤカワ文庫。東野圭吾『疾風ロンド』。ハヤカワ文庫の二作はいずれもスウェーデンの推理小説。スウェーデンと言えば『ミレニアム』という傑作がある。最近北欧の推理小説が目立つ。何故だろうか。共通して、内容は陰鬱で心理主義的である。原罪を過剰に負った人間の陰惨な事件を描いている。事件は解決するが救済がない。『催眠』がそうである。『静かな水の中で』はそこまで陰惨ではないが、陰惨な事件でない分、物足りない。東野圭吾の『疾風ロンド』は明らかな手抜きの物語。
東野も作品を書きすぎではないか。設定も人間関係も文体もお手軽すぎる。

 ノンフィクションで、角旗唯介『空白の五マイル』(集英社文庫)は面白かった。まだ地図に空白地帯として残っているチベットの秘境を一人で探検する記録だが、読み応えがある。実は、チベットの探検隊に著者が加わる話があるのだが、その探検隊の隊長が学会の知人であった、そのことに驚いた。

 今読んでいるのが、イザベラバード『中国奥地紀行Ⅰ』(平凡社ライブラリー)である。著者の『日本奥地紀行』はとても面白かった。『中国奥地紀行』も見逃せない。特に、揚子江流域の文化は私の研究対象にもなっている。推理小説と違って読み進めるのに多少時間がかかる。それだけ味わっているということである。

センター入試終わる2014/01/19 23:02

 センター試験終わる。毎年恒例だが、何とか事故もなく終了。私は今年は一日目の試験場責任者。とりあえずほっとした。

 金曜は休校日だったのでウォーキングをかねて多摩川まで散歩。狛江近くの多摩川沿いにある万葉歌碑まで歩いて行った。案外に近く40分かからなかった。歌はあの「多摩川にさらす手作りさらさらに何そこの児のここだ愛しき」。オノマトペを巧みに盛り込んだ良い歌である。万葉を教えている者としてやっと地元の歌碑を見に行ったというわけだ。もっとも、どうしてこの場所に歌碑があるのかはよくわからない。この歌からすれば多摩川沿いならどこでもいいという気がする。当時は布を晒していた場所ということだろうが、今となっては何処か分からない。この歌碑は江戸時代に猪方村というところに建てられたものだが、洪水でながされ現在の地に再建されたという。

 イザベラ・バードの『中国奥地紀行Ⅰ』を読了。なかなか読み応えがあった。揚子江を海のほうから船で四川省まで遡る記録である。ジャンクと呼ばれる平底の船をチャーターして上流に向かって行く。それにしてもイザベラ・バード女史の冒険心は並ではない。その覚悟もすごい。1900年前後の中国にはすでにイギリスの居留地があちこちあり、欧米人は中国人の憎悪の対象になっている。特に白人女性に対する偏見がひどく、女史は途中の街で何度も暴徒化した街の人たちに襲われ命を奪われそうになっている。それでもめげずに奥地にすすむその精神力はすごいというしかない。奥地には宣教師がたいていはいっているが、女史の場合は、宗教的使命というものではない。未知の世界への探究心であって、植民地時代における欧米人の冒険心とはすごいものだと思わされる。

 それにしてもこの『中国奥地紀行』は中国語に翻訳されても中国人は決して読まないだろう。読んだら、余りに中国人への悪口が多いことに嫌悪するだろう。とにかく、最初から最後までジャンクを動かす曳夫や途中の街で出逢う役人や労働者への、その不潔さや武知名振る舞いに対する文句に満ちている本なのだ。むろん、褒めているところもあるが、それはほんの僅かである。自分たちの国を植民地化しようとしている英国の婦人が同じ神の子であるとは思えないとまで悪口を言うのであるから、この本を中国人が読んだら激怒するだろう。

 それに対して『日本奥地紀行』はたいていの日本人は読んで心地よくなるような本である。今は失ってしまった純朴な日本人の姿が美しく描かれているからだ。その違いは何だろうと思ったのだが、やはり、日本は当時の揚子江流域に住む中国人たちと比べたら、自然環境も良く、物質的に豊かとは言えないまでも、閉鎖的ななかで幸福にくらしていたのだと思われる。

 揚子江流域の人々の過酷な暮らしだけはこの本からよく伝わってくる。特に、揚子江を往き来する何千艘ものジャンクをロープで引く曳夫たちの労働はこの本の一番の読みどころである。長江には急流が幾つもある。上る船には大きな船だと400人の曳夫がロープで引くのである。当然崖地で足場が悪い。足を滑らして死ぬ者もいる。また船のなかでもやはり曳夫が棹で操船するが、これもまた危険な仕事でやはり急流に落ちてしまう者がいる。

 長江の物流をささえるすさまじい曳夫たちの働きぶりに私は感動さえしてしまったくらいだ。女史もまたそういうまなざしを向けてはいるが、やはり、彼らの不衛生で無知な面のほうが目立つように描かれる。そこには欧米人の人種的偏見がないとはいえないだろう。明治に日本に来た欧米人の描く日本人の純朴さは、欧米人もかつてもっていたが、産業革命で彼らが失ってしまったものであるという(渡辺京二『逝きし世の面影』)。だからノスタルジックに描くのだが、とすれば、中国人の不衛生だがエネルギッシュに生きる姿を、驚きながらも汚いものを見るような目で語るのは、中国を植民地化した欧米人の複雑な心理が働いているからかも知れない。

 金曜から今日まで、小説を一冊、新書を二冊読んだ。それらについては次に。

コミュニティ論もなかなか難しい2014/01/28 00:06

 すでに学期末で、期末試験の季節である。来週には入試が始まる。私の授業は演習系が多いのでレポートが中心。これからレポートを読むのが大変である。

 大変な時期を控え、とりあえず今は読書。最近コミュニティ論に興味があって読み始めているのだが、コミュニティ好きを「コミュニタリアン」というらしい。最近のコミュニティ流行を「コミュニティインフレーション」とも言うようだ。「コミュニティイリュージョン」という言葉もある。コミュニティに幻想を持ちすぎることへの皮肉な言い方のようだ。

 コミュニティ論が流行るのは、過疎化や産業の衰退で疲弊した地域再生の方法として、地域住民のコミュニティ意識による地域活性化の取り組が注目を浴びているということがあるが、特に、震災以降の地域復興としてコミュニティが見直されていることもある。大きくは、巨額な赤字を抱え制度疲労を起こした日本の国家システムが当てにならなくなってきたということ、あるいは、グローバリズム資本主義に翻弄される日本経済も人口減少を控えて成長がは見込めなくなってきたことなどによって、コミュニティレベルから経済や公的な仕組みをとらえかえそうという動きが起こってきたとがある。言い換えれば、近代国家が作り上げてきた公的仕組みへの不審によって、自分たちで公共的な仕組みに参加するもしくは構想せざるを得ないという動きがあちこちで起こっているということでもある。

 その意味で、コミュニティ論は、具体的な街の再生の仕方のレベルから、それこそ、国家という制度に代わり得る共同性の水準を構想するという革命的なものまで幅が広い。国家や共同体とは何か、といった大きな物語になればイデオロギーが見え隠れする。その意味で読んでいて面白い。

 吉原直樹『コミュニティ・スタディーズ』(作品社)は、現在のコミュニティ論をほぼ紹介しているという意味では、タイトル通りの本だ。コミュニティ論が抱えている問題点もよくわかる。この本多少左翼的イデオロギーが入っているところもあって、同世代だということがよくわかる。

 吉原のコミュニティ論の理想は、人と人とが触れ合うような関係であって、排他的でなく、多様な他者を受け入れる寛容性を持ち、かつ、それぞれの成員が創発的に公的な世界を構築し得る、そういうコミュニテイである。例えば、かつて近代日本で作られた町内会は、排他的であり、国家の公的な仕組みの補完でしかなかったと手厳しい。また、グローバリズムも否定するのではなく、上手く併走すべきものとしてとらえる。何故なら、グローバリズムは、人と人とが多様に関わり得る関係を新たに作る広がりでもあるからだ。言い換えれば地域に閉じられたコミュニティというのではなく、様々な関係の寄り集まった共同的世界とみたらいいのだろう。

 むろん、そんなコミュニティは可能なのか、と問われるだろうが、理想は理想として、あり得るべくコミュニティ論はそこへ落ち着くというのはよくわかる。広井良典『コミュニティを問い直す』(ちくま新書)は、その理想としてのコミュニティの必要性を、現代の経済や政治の限界の先にあるものとして丁寧に説いた本だ。経済成長で全てが解決する時代が終わった今、国家も地域共同体も、富の再分配の新たな仕組みが問われている。それは「公-共-個」の新しい役割を作ることだという。つまり伝統的なコミュニティではなく、新しい個の関係性によって作られる共であり、公がその共に補完的にクロスしていくべきだと説く。例えば個同士の発案や協働によって福祉コミュニティのような仕組みが作られ、その不十分な分を公が補うような半公的システムと考えればいいのだろうか。最近様々なNPOが立ち上がっているが、それも公の代替としての新しい共の動きということである。

 しかし、それなら公はどうなるのか。むろんその役割を縮小していくということになるが、コミュニティ論が過激になる国家をなくす、というところまで発展する。つまり、反国家イデオロギー論者にとっての公とは権力そのものだが、その権力をなくせるのだろうかと言うことである。理想的コミュニティ論のイメージは、多様な価値観を持つ者同士が集まって、異質さを排除しないで多様な価値を認め合う共同の生活空間、あるいは相互互助的な仕組みを作って行こうというものである。が、問題は、異なった意見や価値観をどうまとめるか、ということになる。特に、緊急性が求められる場合、多様な意志をまとめて一つの方針を出すのは簡単ではない。例えば自分の意見を譲らない者、決定された意見に従わない者もいるはずだ。が、コミュニティが機能するためにはそういった反対者を従わせる力が必要となる。この力を権力というわけである。この力を独占的に握ったシステムを国家と言ってもいい。問題は、どんな小さなコミュニティもこの力を全く否定は出来ないということである。

 この点を鋭く問うているのが萱野稔人『ナショナリズムは悪なのか』(NHK出版新書)である。たまたま読んだ本だが、コミュニティ論と関わらせて読むと案外参考になった。この本は国民国家を維持する物理的暴力性について論じたものだが、それは例えば民主主義を維持するための暴力性とも置き換えられる。物理的強制力のない自由主義などというものもない。仮にあるとすれば、それは内面の一致をすでに強制する仕組みをもつからで、それは宗教である、という。つまり、物理的強制力のない国家は現実には存在しないし、国家を悪として多様な価値観を受け入れる共同体を夢見たとしても、それは、反対者に対してどう振る舞うのかという嫌な面を見ないことにおいて成立する、という。だから、反権力、反国家を唱える理想論者が、権力に近づいたとき、自分の理想論の反対者を暴力的に排除し、結局国家主義あるいは権力を反復してしまうのだという。

 この本タイトルがやや過激だが、内容は読ませる。結局、コミュニティを機能させるためには権力は避け得ない。としたら、それをなくすのではなくどうコントロールするのか、そのように考えるべきだということだろう。なくすべきだという理想論者は必ず自ら権力を反復する。それは、歴史が証明していることである。結局、コミュニティ論も、権力としての公をどうコントロールしていくのか、ということになるだろうか。
 
 コミュニティ論もなかなか難しい。