ちょっと読み過ぎました…2012/07/02 23:33

 先週の金曜は大腸検査。毎年この時期行っている。土曜は研究会。研究会が終わってそのまま最終の梓で茅野へ向かう。山小屋に泊まる。次の日の朝、佐久平に出て新幹線で長野へ。昼から学会の会議と研究発表大会。委員として司会などする。懇親会のあと、夜9時の新幹線で東京へ。泊まりたいところだが、月曜に授業がある。家に帰って、風邪を引いたことに気づく。新幹線の冷房が原因だったのか、疲れがたまっていたのか。夏風邪である。それから、本を読みすぎたのか、首の頸椎が痛くなり、気分が悪い。踏んだり蹴ったりである。

 今週は、市民講座が二つあり、土曜は学会で発表。いつものことだが、どうなることやら。

 先週は、5冊の本を読んだ。原田マハ『楽園のカンバス』、三浦しおん『舟を編む』、伊坂幸太郎『PK』、東野圭吾『ナミヤ雑貨店の奇跡』、磯前純一『喪失とノスタルジア』。それから『謎解きはディナーのあとで』。

 面白かったのは、『楽園のカンバス』と『ナミヤ雑貨店の奇跡』。この二冊はお薦め。『楽園のカンバス』は画家アンリ・ルソーへのオマージュであり、アンリ・ルソーが好きな私にはなかなか読ませる小説だった。『ナミヤ』よく出来たストーリーで、世の中を少し明るくする本である。

 『舟を編む』は評判ほどではない。もう少しドラマチックな展開があるのかと期待したが、どちらかというと、辞書作りの苦労話が前面にですぎて小説としては物足りなさがある。本屋大賞一位というが、本屋の店員さん大丈夫かな。商売優先していないか。伊坂幸太郎『PK』は、まあこんなものだろう。『謎解きはディナーのあとで』はほとんど古本市のための読書だが、国立市が舞台なので、国立のマンションに住んでいるKさんに早速教えてあげた。磯前順一『喪失とノスタルジア』は評論。近代以降、表現し得ない何かを、日本人はそれをどのように「内面」として表出していったか。文学ではなく、思想や宗教の問題として展開した本だが、時々椎名林檎の歌詞が出て来たりして、譬えの説明が面白い。ポストモダンの解説書というところか。勉強になった。

 私が風邪を引いて、首が痛くなったのはこの読書のせいだというのは確かだ。

風邪を引いても本は読む2012/07/06 23:03

 今週は最悪である。先週日曜日の長野からの帰りに引いた風邪が直らず、金曜日、ついに医者で薬をもらうまでになった。身体がだるく、咳が出る。熱はないようだが、夏風邪なので、熱はあってないようなものである。いずれにしろ暑いのだ。

 授業や会議は休めない。土曜日のシンポジウムの準備の資料作りも手を抜けない。木曜語の市民講座、次の日曜日の市民講座の資料作りもあって、よくもまあ、こんな忙しい時に風邪を引いたものだとあきれている。

 それでも読書が癖になっている。今週は、帚木蓬生の『日御子』、村上龍の『歌うクジラ』、田中慎也『共喰い』、有川浩『三匹のおっさん』を読んだ。『日御子』と『歌うクジラ』は大著。歌う…は上下巻である。ほとんど斜め読みである。『歌うクジラ』はグロテスクな描写が多く気持ち悪くてまともに読めない。よくまあこんなに人間の身体を切り刻むものだと、作者のその執着に逆に感心したほどだ。だから、早く読めた。気持ち悪いところは読み飛ばしていたからだ。『日御子』は、ほとんどあらすじ型小説。邪馬台国の卑弥呼登場前後の歴史小説で、これも斜め読みで十分な小説である。新幹線で読もうと長野駅前の平安堂で買った。 

 『共喰い』は評判通りだが、中上健次をふと思い出す小説である。さすがに斜め読みはしなかった、というより出来なかった。中上健次は、宿命が負性として奔出する暴力や性を描いたが、この小説は、そういうのではなく、女への暴力や性を抑圧出来ないことと、この世に生まれた以上生きなければならないこととが、直結してしまう、父子の話である。そこに世の中の負性や聖性という幻想があるわけではない。父子は、結局、その被害者である女たちのたくましい力によって成敗されてしまう。どう言っていいのか、喜劇すれすれの悲惨な人間という生き物の生活誌である。読み応えがある小説だった。

 それから岩崎夏海『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』も読んだ。一時間もかからないで読了。現実はこんなにうまくいかんぞ、という他愛のない感想。それにしても、定番のように女子高生が不治の病で死ぬのは何とかならんのか。『三匹のおっさん』は、私と同世代のおっさんが、悪い奴らをやっつけるという、団塊世代層をターゲットにした読み物。狙い所はいい。ただ、やっつける相手がみんな弱すぎる。かといって強すぎると荒唐無稽になるし、難しいところだ。

中間共同体2012/07/14 00:08

 風邪から何とか回復。一週間で何とか元にもどったというところだ。医者にもらった抗生物質が効いたようだ。

 今日は胃カメラの検査である。大腸検査が先々週で、7月は内視鏡検査の月となつた。別に悪いからといわけではなく、毎年やっているもの。たまたま7月に二つ続く。同じ病院でやっているので面倒だから二つ一緒にやってくれとたのんだが、それは規則で出来ないという。検査すると、深刻なものではないがそれなりに異常が見つかる。胃も腸もとってもきれいで何の問題もありませんということにはならない。それで検査の後は山のように薬をもらう。私の行っている病院は国立にある小さな病院だが、けっこう流行っていていつも満員である。大腸についてはけっこう有名らしい。麻酔を使うので、検査はほとんど眠っている間に終わってしまう。この楽さがいいので毎年ここで行っている。

 今週の週末は久しふりに休めそうだ。校務も学会もない。ただ月曜は休日だが出校日である。月曜は休日が多いので祝日でも出校日にしないと授業回数15回にならないのだ。久しぶりに仕事がないが、論文を書くための資料の読み込みでほとんど潰れるだろう。

 この一週間、古本市の為の読書は、奥田英朗『無理』上下、堂場舜一『アナザーフェイス』、森晶麿『黒猫の遊歩あるいは美学講義』、島田雅彦『英雄はそこにいる』を読む。

 奥田英朗の『無理』上下は確かにコピー通りに一気に読ませるが、どういう狙いの読み物なのかいまいちよくわからなかった。不況にあえぐ地方都市でいろんな問題を抱えた人たちの群像劇といったところだが、最後に希望を持たせて終わるのか、ただリアリズムに徹した悲劇なのか、読後に感動させるように仕掛けがあるのか、どうもどれでもなく、様々な登場人物が最後に全部かかわってしまうという仕掛けを作って自己満足してしまった読み物、というところだろうか。『アナザーフェイス』は、子持ちの刑事物だが、途中で犯人何となくわかっちゃうし、犯人はドジだし、最近流行の警察内の人間劇もいまいちだし、売れてるわりにはあんまり驚くことのない刑事小説だった。

 島田雅彦『英雄はそこにいる』は、期待して読んだが、島田雅彦、本気で書いていない。シャーマン探偵を登場させて事件を解決していく流行の設定だが、この主人公ほとんど活躍しない。犯人役の主人公がテロリストとして登場するが、実は、英雄の役回りとして登場し、手がけるテロや暗殺に折り挟むように、現代の政治や社会問題の解説が入って、どうやらこの犯人、このような社会問題に立ち向かっているらしいことがわかる。単純なエンターティンメントじゃないぜ、というところだが、逆にそのことが読み物の面白さを奪っている。島田雅彦の意図もわからないではない。現代世界の不合理を、かつての義賊のような英雄のテロリズムに託す気持ちは、確かに娯楽読み物の王道だが、その立ち向かう社会問題が現代のものでありすぎリアル過ぎる。そういう問題に立ち向かうと否応なく政治的になる。つまり、作家の政治的な立場が何となく見えてしまう。だから時々楽しめないのだ。

 森晶麿『黒猫の遊歩~』。アガサ・クリスティ賞もらったというので読んだが、こういうのは苦手。読まなきゃよかったが、まあ、古本市には貢献するだろうと思う。

 それからもう一冊この古本市の読書ではないが宇野常寛・濱野智史『希望論』(NHKブックス)。これは面白かった。二人による対談形式の本だが、インターネット社会の、コミュニケーションネットワークによる現実の拡張に、希望があるのだという。このように言っても何にもわかならないだろうが。もう一つ参考になったのが「中間共同体」という言い方である。

 3.11以降試されたのが公であり、公に対する私たちの姿勢だったことは周知のことだ。原発事故で、誰もが公は信用できないといい、公を信じずに自分たちで判断して生き延びろと、多くの知識人が主張した。確かに一理あるが、しかし、公を信じるな、自分で判断しろといったとき、それは、ほとんど判断出来ない奴はこの世を生きる資格がないし生きられないといっているのと同じではないか。

 公を介さない情報を入手できるか、あるいはたくさんの情報を分析できるのはごく一部のものたちだけである。つまり、情報優位者だけであり、ほとんどの者は、公を通じてしか情報を知りようがない。インターネットにはたくさんの情報が飛び交うが、これも、有象無象含めて情報が多すぎて、必要な情報を取り出せるのはやはり専門的なもの達だけだ。こういう現状の中で、いきなり公を信じるな、自分で判断しろ、というのは、情報弱者には余りに酷であり、ほとんど棄民あつかいとなろう。情報優位者は、放射能の及ばない地域に自主的に避難できるが、そうでないものは、何にも出来ず、公の手配した避難計画に従うしかない。

 つまり、わかったことは、震災や原発事故というような災害の中では、それが腐敗したものであろうと「公」に頼らざるを得ないということであり、その時の「公」とは、こういう時のためにわれわれが作りだした仕組みのはずである、ということある。つまり、国家権力だからという理由だけで信じないというわけにはいかない、ということがリアルに分かった出来事だということである。

 『希望』で宇野常寛が言う「中間共同体」という言葉は、私の理解では、個人の生活領域と、国家のような大きな「公」の間をつなぐ半「公」の領域と言った意味か。むろん、かなり曖昧な概念であるが、地域的にも、あるいは関係の問題として、あるいはシステムの問題として様々な意味につかわれる概念として理解出来る。信じないというレベルの「公」でもなく、情報格差のある個々の生活者のレベルでもなく、その中間領域に、人と人とが関係しあう一種の公が必要だという発想である。難しいが意味しようとしているところはよくわかる。「公」が信用出来なくても、それなしでは何も出来ない(出来るのは特権的な存在)。とすれば、それぞれの自分たちが関われる「公」を作るしかない。新しく作るのは革命だが、それは無理だから「既存の公」を変えるということになる。たぶん、かつて柄谷行人たちが始めた地域通貨共同体も似たようなものだったと思うが、宇野の言うのは、もつと手近に、ということらしい。例えば地方の選挙に出るとか。

 税金の分配システムとして、国家という大きな公に大半を還元するのでなく、地域地域の小規模中間共同体に大半を還元するシステムをつくることは、これからの社会改革の流れになろう。「公」の信用度はたぶんにそのことと関わっている。

 国家という大きな「公」の信用度はすでに地に落ちたが、それでも揺るがないのは、国家観の戦争がまだあり得ることや、社会福祉が国家の「公」に独占されているからである。領土問題は国家が「公」の信用度をあげるためには必須のテーマであり、当事者の互いの国が問題を解決に導けないのは、実は、その方がそれぞれの「公」にとって都合がいいという面がある。現在のアジアの領土問題はそういう観点から見れば、それぞれの国家がその信用度を保つために必要な担保物件ということであろうか。

 いずれにしろ、国家観の紛争を平和裏に解決するのは、『希望』が述べるような中間共同体がそれぞれの国家の公の信用度を相対的に低下させる事が必要だろう。だが、これは、一国だけで成立すればいいという問題ではないので、なかなかやっかいではある。

 中間共同体の発想は、ある意味では、国際的にみれば日本のガラパゴス化の一つなのかも知れない。が、今このガラパゴス化が日本いや世界にとって重要だというメッセージを『希望』は述べている。これが面白い。例えば、2チャンネルは、ソーシャルネットワークのガラパゴス化だが、しかし、この2チャンネルの圧倒的なエネルギーを無視してはネットワーク社会を利用した共同体の構築は無理だという。

 「市民」ではなく「おたく」が中心だった日本のネットワーク共同体は、かつては、仮想現実をネットワーク空間に創出し、そこを基点に共同体を作り、クールジャパンとして世界をリードしたが、今は、「拡張現実」の構築の時代であって、「仮想」はあくまで日常の延長に過ぎない。日常を肯定しその日常を生きていかざるを得ないことを引き受けたうえで、プラスアルファとして「仮想」を設定することで日常を共有しようとするその共同性の作り方が、「拡張現実」というものである。(私の理解では)。

 例えば「キャラ」という二次元的な仮想上の特性を現実に照射してその価値を共有する、というのも一種の拡張現実であろう。その例がAKB48である。

 中間共同体とは、ほどよい地域共同体を意味するのではなく、2チャンネル化した日本のガラパゴス的なソーシャルネットワークへの欲望を、うまく制御もしくは設計(これをアーキテクチャーと呼んでいる)しながら、AKB48の政治や社会運動版を作るということであるように思われる。つまり、ヨーロッパ的市民社会を支えていたソーシャリズムを基本として進んできた社会が、結局は、既得権を他者に譲らないという利己的階層を排除出来ず、若年層の貧民化を生んでしまったという現状に直面し、困っている層のエネルギーとその声を集約する機会を検討していけば、国家という公ではなく、分断された個人ではなく、2チャンネル的ネットワークを抱え込んだ中間共同体しかない、というのが、どうやら結論のようである。

 この読みが当たっているかどうかはわからない。が、『希望』は久しぶりにいろんな事を考えさせてくた本であった。

スマホに換える2012/07/23 00:37

 この週末久しぶりに山小屋へ。ただしほとんど雨で、持ち込んだ柳田国男関係の資料などを読んで過ごす。先週の読書はかどらず。読んだのはSF『ねじまき少女』上下巻(パオロ・パチガルピ ハヤカワ文庫)と、宇野常寛『リトルピープルの時代』(幻冬舎)のみ。

 『ねじまき少女』は各国の賞を総なめにしたSFなので読んでみた。未来のタイが舞台で、作者はタイ人ではなく、1973年にコロラドで生まれたアメリカ人。読み通すのに疲れたがつまらなくはなかった。確かにSFだが、現在のタイの政治状況や洪水や猥雑で混沌とした社会を反映させた展開で、その展開に日本のロボットテクノロジーが大きな役割を果たす。現代のタイの混沌を寓話のように描いているようにも読めないことはない。SF的には遺伝子操作が徹底して行われ、おかしくなってしまった世界を描いた、と言えるもの。アジアのしかもタイを舞台にしたSFは珍しい。SFのオリエンタリズムといったところか。アメリカ人がアジアをどう見ているか、ということがよくわかるSFである。

 日本の企業が作ったアンドロイド(ねじまき少女)が、混沌とした世界の希望のように描かれる。このアンドロイド、タイでは男達の性の奴隷として扱われているが、実は、途方もない身体能力を持つ超人的存在であることが明らかになる。このイメージは、世界が見る日本アニメのイメージ、陵辱されるメイドや戦闘美少女のモティーフをもとにしていると思われる。読んでいて疲れたのは、たぶん、私がアジアの側の人間なので、この外部からのアジアのイメージにどこかいらつくところがあったからかも知れない。よくわからない。言えることは、あんまり希望はなさそうな物語だということ。これが現代のSFなのだということか。

 宇野常寛の『リトルピープル』は、五百頁もある厚い本だが、こちらは読みやすい。ここでの宇野常寛の言っていることは『希望論』で展開していることと同じである(当然だが)。いろいろと勉強になったが、とにかく、仮面ライダーが、こんなにも複雑に深化していたとは知らなかった。というより、仮面ライダーそのものをまともに見たことがないので、その展開のあまりの前衛性に正直驚いた。ある時期から、仮面ライダーは、善悪の対決ではなくなり、何人もの仮面ライダーが現れて互いに殺し合いをする、などというバトルロワイヤル的なバージョンもあらわれるなど、子ども向けのヒーローものなのに、あまりに、時代状況を反映したものになっている、ということらしい。

 そろそろ読書にも疲れてきた。そう言えば、携帯をiPhoneに買い換えた。別に理由はないが、これも時代に乗り遅れまいとする態度、ということ。たぶん使いこなせないだろうが、とりあえず、当面は楽しめそうだ。わたしも、スマホを覗き込みながら周囲を遮断して自分の世界を確保しているあの電車の中の大勢の一員になったということか。

こういう授業一度はやってみたい2012/07/29 15:51

 暑い日が続く。チビが大変である。昼間は家でクーラーをつけているが、人間が出かけてチビが留守番の時どうするか悩む。クーラーを30度にしてつけっぱなしで家を出る。といっても半日程度のことではあるが、この暑さ、毛皮を脱げない犬は大変である。特に、わが家は、南西の角部屋で最上階であるから、日当たりが半端ではない。早く、山小屋へ行きたいが仕事があるからそうはいかない。

 今週の読書。クライブ・カッスラー『フェニキアの至宝を奪え』(新潮文庫上下巻)、マルク・エルスベルク『ブラックアウト』(角川文庫上下巻)、東野圭吾『プラチナデータ』(幻冬舎文庫)、北川智子『ハーバード白熱日本史教室』(新潮新書)である。一週間でよく読んだなと自分でもあきれる。

 最後のをのぞけばバザーを兼ねた古本市出品のための読書なので、どうしても売れるような、ミステリーとか冒険活劇とかハードボイルド、エンタメ系になる。こういう本の読書は時間がかからない。内田樹は『街場の読書論』で、読書にはscanとreadがあると書いていた。つまり、scanするように読むのと、その内容を味わうようにきちんと読むreadである。だから、このところの私の読書はscan読書ということになる。だから早いのである。厚めの文庫本でも一日あれば十分である。通勤の途中、仕事の合間に空いた時間のscan読書で読み切ってしまう。

 クライブカッスラーはいつもの海洋スパイ活劇。それほど時間を忘れるということはなかった。むしろ『ブラックアウト』の方が読み応えはあった。これはヨーロッパでのテロによる大停電を描いた、一種のパニックもの、といったらいいか。大規模停電が次第にヨーロッパ各地を破滅的な状態にしていく様子がかなり細かく描写されている。人類を破滅させるウィルス感染パニックものの停電版と言ったところ。ヨーロッパの原発もメルトダウンをおこすが、日本のフクシマがやたらに例として出される。

 文明社会にとって停電がどれほどの惨事かを容赦なく描いている。やや大げさだとは思うが、フクシマの事故の後ということもあって、けっこうリアリティがある。この惨事を救うのが、もと左翼のプログラマーでさえない中年のイタリア人。元CIAじゃないところがいい。これでもかというくらい悲惨な目に会いながら立ち上がっていくところがスゴイというか、作者がちょっとしつこい。

 さて東野圭吾の『プラチナデータ』は東野に感服。うまい!。よくこういうストーリーを考えるものだ。プロ中のプロというのはこういう作家をいうのだと思う。とにかく、読み出したら止められなかった。

 北川智子の『ハーバード…』はただ感心するばかり。著者は、理系を学んだのに、大学院では日本史専攻に変わり、ハーバードで日本史を教え、体験型もしくはグループワーキング方式の日本史の授業をはじめて、超人気の授業にしてしまった。こんな授業私もやってみたいとただ感服。最近、学生参加型のグループワーキングを主体にした基礎ゼミの授業アンケート結果が思わしくなかったので、落ち込んでいた。授業の意図が学生にあまりつたわらず、何を目的にやっているのかわかっていない学生がいたということである。

 ハーバードで、日本史をグルーブワーキングで行う、というところがスゴイし、その準備も、それを可能にするハーバードのシステムもすごい。日本の大学でも出来ないことはないと思う。ただ、全員に映像作品を作らせる設備や、十数名の受講者に大学院生を一人ティーチングスタッフとしてつけるとか、こういう体制を備えている大学はまだあまりないだろう。しかも、授業結果のアンケートによって教員のランキングが公表される、という厳しさも日本にはない。だが、教員の一人としてこういう授業の成功体験例を読むとやはり刺激される。大変だとは思うが一度はやってみたい。