中間共同体2012/07/14 00:08

 風邪から何とか回復。一週間で何とか元にもどったというところだ。医者にもらった抗生物質が効いたようだ。

 今日は胃カメラの検査である。大腸検査が先々週で、7月は内視鏡検査の月となつた。別に悪いからといわけではなく、毎年やっているもの。たまたま7月に二つ続く。同じ病院でやっているので面倒だから二つ一緒にやってくれとたのんだが、それは規則で出来ないという。検査すると、深刻なものではないがそれなりに異常が見つかる。胃も腸もとってもきれいで何の問題もありませんということにはならない。それで検査の後は山のように薬をもらう。私の行っている病院は国立にある小さな病院だが、けっこう流行っていていつも満員である。大腸についてはけっこう有名らしい。麻酔を使うので、検査はほとんど眠っている間に終わってしまう。この楽さがいいので毎年ここで行っている。

 今週の週末は久しふりに休めそうだ。校務も学会もない。ただ月曜は休日だが出校日である。月曜は休日が多いので祝日でも出校日にしないと授業回数15回にならないのだ。久しぶりに仕事がないが、論文を書くための資料の読み込みでほとんど潰れるだろう。

 この一週間、古本市の為の読書は、奥田英朗『無理』上下、堂場舜一『アナザーフェイス』、森晶麿『黒猫の遊歩あるいは美学講義』、島田雅彦『英雄はそこにいる』を読む。

 奥田英朗の『無理』上下は確かにコピー通りに一気に読ませるが、どういう狙いの読み物なのかいまいちよくわからなかった。不況にあえぐ地方都市でいろんな問題を抱えた人たちの群像劇といったところだが、最後に希望を持たせて終わるのか、ただリアリズムに徹した悲劇なのか、読後に感動させるように仕掛けがあるのか、どうもどれでもなく、様々な登場人物が最後に全部かかわってしまうという仕掛けを作って自己満足してしまった読み物、というところだろうか。『アナザーフェイス』は、子持ちの刑事物だが、途中で犯人何となくわかっちゃうし、犯人はドジだし、最近流行の警察内の人間劇もいまいちだし、売れてるわりにはあんまり驚くことのない刑事小説だった。

 島田雅彦『英雄はそこにいる』は、期待して読んだが、島田雅彦、本気で書いていない。シャーマン探偵を登場させて事件を解決していく流行の設定だが、この主人公ほとんど活躍しない。犯人役の主人公がテロリストとして登場するが、実は、英雄の役回りとして登場し、手がけるテロや暗殺に折り挟むように、現代の政治や社会問題の解説が入って、どうやらこの犯人、このような社会問題に立ち向かっているらしいことがわかる。単純なエンターティンメントじゃないぜ、というところだが、逆にそのことが読み物の面白さを奪っている。島田雅彦の意図もわからないではない。現代世界の不合理を、かつての義賊のような英雄のテロリズムに託す気持ちは、確かに娯楽読み物の王道だが、その立ち向かう社会問題が現代のものでありすぎリアル過ぎる。そういう問題に立ち向かうと否応なく政治的になる。つまり、作家の政治的な立場が何となく見えてしまう。だから時々楽しめないのだ。

 森晶麿『黒猫の遊歩~』。アガサ・クリスティ賞もらったというので読んだが、こういうのは苦手。読まなきゃよかったが、まあ、古本市には貢献するだろうと思う。

 それからもう一冊この古本市の読書ではないが宇野常寛・濱野智史『希望論』(NHKブックス)。これは面白かった。二人による対談形式の本だが、インターネット社会の、コミュニケーションネットワークによる現実の拡張に、希望があるのだという。このように言っても何にもわかならないだろうが。もう一つ参考になったのが「中間共同体」という言い方である。

 3.11以降試されたのが公であり、公に対する私たちの姿勢だったことは周知のことだ。原発事故で、誰もが公は信用できないといい、公を信じずに自分たちで判断して生き延びろと、多くの知識人が主張した。確かに一理あるが、しかし、公を信じるな、自分で判断しろといったとき、それは、ほとんど判断出来ない奴はこの世を生きる資格がないし生きられないといっているのと同じではないか。

 公を介さない情報を入手できるか、あるいはたくさんの情報を分析できるのはごく一部のものたちだけである。つまり、情報優位者だけであり、ほとんどの者は、公を通じてしか情報を知りようがない。インターネットにはたくさんの情報が飛び交うが、これも、有象無象含めて情報が多すぎて、必要な情報を取り出せるのはやはり専門的なもの達だけだ。こういう現状の中で、いきなり公を信じるな、自分で判断しろ、というのは、情報弱者には余りに酷であり、ほとんど棄民あつかいとなろう。情報優位者は、放射能の及ばない地域に自主的に避難できるが、そうでないものは、何にも出来ず、公の手配した避難計画に従うしかない。

 つまり、わかったことは、震災や原発事故というような災害の中では、それが腐敗したものであろうと「公」に頼らざるを得ないということであり、その時の「公」とは、こういう時のためにわれわれが作りだした仕組みのはずである、ということある。つまり、国家権力だからという理由だけで信じないというわけにはいかない、ということがリアルに分かった出来事だということである。

 『希望』で宇野常寛が言う「中間共同体」という言葉は、私の理解では、個人の生活領域と、国家のような大きな「公」の間をつなぐ半「公」の領域と言った意味か。むろん、かなり曖昧な概念であるが、地域的にも、あるいは関係の問題として、あるいはシステムの問題として様々な意味につかわれる概念として理解出来る。信じないというレベルの「公」でもなく、情報格差のある個々の生活者のレベルでもなく、その中間領域に、人と人とが関係しあう一種の公が必要だという発想である。難しいが意味しようとしているところはよくわかる。「公」が信用出来なくても、それなしでは何も出来ない(出来るのは特権的な存在)。とすれば、それぞれの自分たちが関われる「公」を作るしかない。新しく作るのは革命だが、それは無理だから「既存の公」を変えるということになる。たぶん、かつて柄谷行人たちが始めた地域通貨共同体も似たようなものだったと思うが、宇野の言うのは、もつと手近に、ということらしい。例えば地方の選挙に出るとか。

 税金の分配システムとして、国家という大きな公に大半を還元するのでなく、地域地域の小規模中間共同体に大半を還元するシステムをつくることは、これからの社会改革の流れになろう。「公」の信用度はたぶんにそのことと関わっている。

 国家という大きな「公」の信用度はすでに地に落ちたが、それでも揺るがないのは、国家観の戦争がまだあり得ることや、社会福祉が国家の「公」に独占されているからである。領土問題は国家が「公」の信用度をあげるためには必須のテーマであり、当事者の互いの国が問題を解決に導けないのは、実は、その方がそれぞれの「公」にとって都合がいいという面がある。現在のアジアの領土問題はそういう観点から見れば、それぞれの国家がその信用度を保つために必要な担保物件ということであろうか。

 いずれにしろ、国家観の紛争を平和裏に解決するのは、『希望』が述べるような中間共同体がそれぞれの国家の公の信用度を相対的に低下させる事が必要だろう。だが、これは、一国だけで成立すればいいという問題ではないので、なかなかやっかいではある。

 中間共同体の発想は、ある意味では、国際的にみれば日本のガラパゴス化の一つなのかも知れない。が、今このガラパゴス化が日本いや世界にとって重要だというメッセージを『希望』は述べている。これが面白い。例えば、2チャンネルは、ソーシャルネットワークのガラパゴス化だが、しかし、この2チャンネルの圧倒的なエネルギーを無視してはネットワーク社会を利用した共同体の構築は無理だという。

 「市民」ではなく「おたく」が中心だった日本のネットワーク共同体は、かつては、仮想現実をネットワーク空間に創出し、そこを基点に共同体を作り、クールジャパンとして世界をリードしたが、今は、「拡張現実」の構築の時代であって、「仮想」はあくまで日常の延長に過ぎない。日常を肯定しその日常を生きていかざるを得ないことを引き受けたうえで、プラスアルファとして「仮想」を設定することで日常を共有しようとするその共同性の作り方が、「拡張現実」というものである。(私の理解では)。

 例えば「キャラ」という二次元的な仮想上の特性を現実に照射してその価値を共有する、というのも一種の拡張現実であろう。その例がAKB48である。

 中間共同体とは、ほどよい地域共同体を意味するのではなく、2チャンネル化した日本のガラパゴス的なソーシャルネットワークへの欲望を、うまく制御もしくは設計(これをアーキテクチャーと呼んでいる)しながら、AKB48の政治や社会運動版を作るということであるように思われる。つまり、ヨーロッパ的市民社会を支えていたソーシャリズムを基本として進んできた社会が、結局は、既得権を他者に譲らないという利己的階層を排除出来ず、若年層の貧民化を生んでしまったという現状に直面し、困っている層のエネルギーとその声を集約する機会を検討していけば、国家という公ではなく、分断された個人ではなく、2チャンネル的ネットワークを抱え込んだ中間共同体しかない、というのが、どうやら結論のようである。

 この読みが当たっているかどうかはわからない。が、『希望』は久しぶりにいろんな事を考えさせてくた本であった。