スマホに換える2012/07/23 00:37

 この週末久しぶりに山小屋へ。ただしほとんど雨で、持ち込んだ柳田国男関係の資料などを読んで過ごす。先週の読書はかどらず。読んだのはSF『ねじまき少女』上下巻(パオロ・パチガルピ ハヤカワ文庫)と、宇野常寛『リトルピープルの時代』(幻冬舎)のみ。

 『ねじまき少女』は各国の賞を総なめにしたSFなので読んでみた。未来のタイが舞台で、作者はタイ人ではなく、1973年にコロラドで生まれたアメリカ人。読み通すのに疲れたがつまらなくはなかった。確かにSFだが、現在のタイの政治状況や洪水や猥雑で混沌とした社会を反映させた展開で、その展開に日本のロボットテクノロジーが大きな役割を果たす。現代のタイの混沌を寓話のように描いているようにも読めないことはない。SF的には遺伝子操作が徹底して行われ、おかしくなってしまった世界を描いた、と言えるもの。アジアのしかもタイを舞台にしたSFは珍しい。SFのオリエンタリズムといったところか。アメリカ人がアジアをどう見ているか、ということがよくわかるSFである。

 日本の企業が作ったアンドロイド(ねじまき少女)が、混沌とした世界の希望のように描かれる。このアンドロイド、タイでは男達の性の奴隷として扱われているが、実は、途方もない身体能力を持つ超人的存在であることが明らかになる。このイメージは、世界が見る日本アニメのイメージ、陵辱されるメイドや戦闘美少女のモティーフをもとにしていると思われる。読んでいて疲れたのは、たぶん、私がアジアの側の人間なので、この外部からのアジアのイメージにどこかいらつくところがあったからかも知れない。よくわからない。言えることは、あんまり希望はなさそうな物語だということ。これが現代のSFなのだということか。

 宇野常寛の『リトルピープル』は、五百頁もある厚い本だが、こちらは読みやすい。ここでの宇野常寛の言っていることは『希望論』で展開していることと同じである(当然だが)。いろいろと勉強になったが、とにかく、仮面ライダーが、こんなにも複雑に深化していたとは知らなかった。というより、仮面ライダーそのものをまともに見たことがないので、その展開のあまりの前衛性に正直驚いた。ある時期から、仮面ライダーは、善悪の対決ではなくなり、何人もの仮面ライダーが現れて互いに殺し合いをする、などというバトルロワイヤル的なバージョンもあらわれるなど、子ども向けのヒーローものなのに、あまりに、時代状況を反映したものになっている、ということらしい。

 そろそろ読書にも疲れてきた。そう言えば、携帯をiPhoneに買い換えた。別に理由はないが、これも時代に乗り遅れまいとする態度、ということ。たぶん使いこなせないだろうが、とりあえず、当面は楽しめそうだ。わたしも、スマホを覗き込みながら周囲を遮断して自分の世界を確保しているあの電車の中の大勢の一員になったということか。

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