無本意学生2012/03/05 01:07

 土日と京都へ出張。京都産業大学で行われたFDフォーラムに参加。これも毎年のことで、この時期京都に出かけている。今年は、大学授業のパラダイム転換というテーマのシンポジウムに参加した。

 あのサンデル教授の対話型授業を日本の紹介した千葉大の小林先生の発表があった。内容は、小林先生も千葉大で対話型授業を実践しているので、その報告である。もうお一人は、静岡大の先生で、キャリア教育の授業実践例の報告、そして、もうお一人は、すでに定年退職され今は特任で教えていられる先生の、言わば旧方式による授業のお話で、この話が一番よかった。歴史の先生だが、ITもパワーポイントも使わず、資料を配付し黒板に板書するオーソドックスの授業をしていただけだ、という。ただ、FD活動が盛んになる前から自分でアンケート用紙を作ってやっていたそうで、批判的意見は全て公開し、良い評価がでるとみんなにお礼を言ったという。なんか、素朴な先生で、会場も他のパネラーも、みんな褒めていた。

 結局、良い授業というのは、教員の魂の問題なのだと実感。双方向だとか工夫とかも大切だが、教員が教えようとする知識を通して伝わる心の問題に帰すのではないのかということだ。千葉大の小林先生は、結局はエッセンスを伝えられるかどうかだと語っていたが、エッセンスとは、知識の要点ではなく、知識をどういう心で伝えるのかその心のこと。やはり、抽象的だが、突き詰めればそこにいくのだろう。

 ただ、こういった議論は、ある程度の知識を受容できるレベルの高い大学での話である。最後に会場からの意見が幾つかでたが、われわれのような低偏差値の大学では、そんなに上手くはいかない、書けない読めない学生を相手にどれだけのエネルギーを使っているか分かりますか、という悲鳴に近い意見も出た。このフォーラムに出ると新しい言葉に出会うのだが、今年出会ったのが「無本意学生」という言葉である。

 低偏差値の大学では新入生の大半はこの「無本意学生」だという。「不本意」ではない。「不本意学生」は、志望校に落ちてここに入ってきている、という自覚があるからまだいい。自分がまだ見えている。ところが「無本意学生」は、自分の本意が何処にあるのかわからない。これおいしいから食べたらとごちそうを口に持っていっても、おいしいものを食べたいという欲望がないから食べようとしない、というのと同じだという。好奇心がないから、どんなに啓発しても乗って来てくれないということだろうか。こういう学生が多いのだという。

 東京の低偏差値大学のある先生は、会場の教員に向かって、何を書こうとしているのかよく分からない学生の文章を読み、今この学生はいったいこの文章で何を発信しようとしているのか、いったい何処にいるのか、まずその位置をつかむところから教育が始まる、それが私たちの現実なんです、おそらく、東大の先生より五倍は大変です、と語った。

 そうか今「無本意学生」とどうつきあうのか苦闘している先生もいるのだと実感。まだそこまでの学生とのつきあいを体験していない私は恵まれているのだと言えるだろうか。でも、他人事ではない。

 好奇心とは生への強い欲求の現れである。「無本意学生」は、たぶん、この欲求を何らかの理由で抑制しているのだと思う、その理由は、強い欲求を持ったとしてそれが実現できないことを知っているので、防衛機制が働く、ということだろう。今の学生は、これまで一度も好景気を体験したことのい年代である。好景気という欲望実現の機会のないまま育ってきた者たちにとって、無駄な欲望、つまり好奇心を持たないことという選択が本能的に行われてしまうということか。

 とすると、おいしい料理を出してもあんまり効き目がないということだ。おいしい料理を食べてみたいという欲望そのものを引き出してやらないといけないということだ。これは教えられるものではない。そういう「無本意学生」に教員は魂で向かったとして、効果はあるのだろうか。あると信じたい。

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