匂いと聖性2012/02/06 00:08

 学会誌に載せる論文を何とか書き終えた。納西族の儀礼調査報告といったものなので、それほど苦労はしなかったが、やはり、それなりにしんどかった。

 土曜は久しぶりに学会の例会へ。授業が終わり、入試まで一休みなので、行くことにした。それから、ちょうど私の書いた紀要論文の抜き刷りも出来たばかりなので、知り合いに配ろうということもあった。郵送で送る手間が省ける。

 テーマは「匂い」である。ユニークなテーマで、特に仏教などの説話に、僧が死んでその遺体から馥郁とした香りが漂うという話が多い。この場合香りはその僧が聖なる僧であることを示す奇瑞である。このような例をいくつかとりあげながら、聖性というものが、実はこの匂いのような身体的な感覚の上に成立する、という点に、聖なるものの、ある固定観念とは違うところが見えてくる、というような発表だった。

 ただ香りという事柄がどう表現に表れるのか、という表現の分析がないとか、香りだけではとても聖なるもの奇瑞とは言えないのではないか、とか批判的な質問が相次いだ。文化論的な発表だったので、表現にこだわる学会ではやや違和感を持たれたようだ。

 ただ、私は発表者とは違う興味でこの発表を面白く聞いた。匂いで聖性が生まれる、ということは案外本当かも知れない、と思ったのである。例えば、遺体に香の匂いをたきつけて、ここに奇瑞が起こっている、と思わせることは可能だし、実際やっていることではないか。つまり、聖性に近づくためには途方もない修行が必要だ、というのは一般的な見方だろうが、一方、匂いのような人間の感覚をちょっと操作すれば簡単に聖性など作れるということではないか、と思ったのである。

 実はそれを実践したのがオウム真理教である。オウムは信者に対し覚醒剤を使ったり、ヘッドギヤをつけたり、人間の感覚を操作するいろんなことをやった。そのやり方で、聖なる世界を信者に信じさせていった教団である。これは、オウム真理教だけが特異なわけではなく、実は、古来からやられてきたことでもある。そういう見方で、古来の宗教の聖性を見直してみることもまた面白いことではないか。そう思ったのである。それで、つい質問ならぬ感想を言ってしまったが、あまりつたわらなかったようだ。

琵琶法師2012/02/09 21:43

 久しぶりに風邪を引いた。インフルエンザだろうか。予防注射はしておいたのだが。ただ、休むわけにもいかないのでだるい身体をがまんしつつ出校はしている。なにせ、入試の真っ最中である。

 今年はわが学科最悪の年である。A日程の受験者が激減した。理由がわからない。想定外としかいいようがない。短大の志願者が減りつつあるのはわかっているが、これほどの急激な減り方は、わが短大に何かスキャンダルがあったとか考えないと理解しにくい。就職率だってそんなに悪くはない。去年の大震災の影響がここにも影響をあたえたということなのだろうか。

 B日程が残っているが、どのくらい応募があるか。受験生のみなさんB日程はねらいめですよ。試験の採点、学会誌の原稿、来年度に向けた諸々の雑務等、時間がない。いつものことだが。今年の4月と5月に、よせばいいのに、某文化講座を引き受けてしまった。7回ほどの一回こっきりの講座でどうしてもと言われてつい引き受けた。タイトルが、「日本史におけるシャーマニズム」。卑弥呼とか安倍晴明とか卜部について語って欲しいと言われた。何で私なのか。他にも斎藤英喜とかいろいろいるだろうに、思うに勤め先の場所と文化講座の場所との近さが決め手だったようだ。

 安倍晴明とか卜部は詳しくないが、シャーマニズムについてならいろいろしゃべることは出来るかも知れないと、引き受けた。ということで、斎藤英喜の本や繁田信一の本などを読んでいるところだ。文字通りのシャーマンを日本の歴史の中で探すと、ほとんど無理な話になるが、シャーマン的な技能を持つ呪術師のような宗教者として考えれば、かなり論じる対象は広がる。兵藤裕巳『琵琶法師』(岩波新書)に描かれている琵琶法師もまたシャーマン的な人たちである。兵藤裕巳はそのように描いている。

 かつて、政治にとって怨霊は最大の脅威であった。怨霊による祟りがあればそれを解決しなければならない。その時に活躍するのが、陰陽師などの呪術宗教者である。特に滅んだ平家の怨霊は当時の貴族や武士政権にとって脅威であった。その怨霊を鎮めるために語られたのが平家物語だが、その物語を語るのは、この世とあの世との境界に位置して自在に往還できるシャーマン的な力を持つ琵琶法師だったと兵藤は述べる。

 この琵琶法師の話は「耳なし芳一」として知られている。この物語はラフカディオハーン(小泉八雲)の『怪談』に入っているのでよく知られていよう。兵藤はラフカディオハーンも普通じゃないと書いている。ハーンは、日が暮れても部屋のランプをともさないことがあったという。妻の節子があるとき襖を開けずにとなりの部屋から「芳一」「芳一」と小声で呼ぶと「はい、私は盲目です。あなたはどなたさまでございますか」といって、そのまま黙り込んだという。(小泉節子『思い出の記』)ハーンはほとんど芳一になっていたのか、芳一が乗り移っていたのか。面白い話である。

 ということで、今、平清盛をやっているので琵琶法師の話も盛り込むことにした。

                        首すくめ寒き孤独を避けにけり

サバイバルの時代に思うこと2012/02/14 00:31

 12日は一年遅れの卒業パーティであった。いつものディズニーホテルで。風邪気味だが出かける。去年、卒業パーティを3月16日に予定していたが、3.11の大震災で中止になった。あの時の記憶がまたよみがえる。ホテル側との交渉や、払い込んでいた会費を払い戻すなど、いろいろ大変だった。でも、是非、卒業パーティをやりたいという卒業生の思いや、助手さん達の熱意が、卒業生に連絡をとり何とか一年遅れの卒業パーティにこぎつけた。その熱意と実行力、たいしたものである。

 さすがに、たくさん集まるというわけにはいかなかったが、でも、七十名近くが集まった。これだけ揃うと、会場にミッキーマウスとミーニーが来てくれる(百名くらいになるとドナルドも来てくれます)。現れると、みんな大騒ぎ。ここで卒業パーティをやる理由がよくわかる。

 一年経つということは、みんな社会人になっていろいろ体験しているということである。私のテーブルにいた卒業生の一人は、仕事があまりに厳しく精神的に参ってしまって仕事を辞めたと言っていた。やはり、社会は甘くない。でも、こうやって顔を出して楽しそうにしているので安心である。

 挨拶のコメントで、これからはサバイバルの時代だから、一人で生きると思わずに人との関わりを大事にした方がいいよ、というような話をした。「絆」という流行の言葉は好きではないが、大震災の悲惨な状況の中で生まれてきた、サバイバルの知恵であることは確かだ。「絆」について、自分をしっかり持たないと人に振り回されることばだよ、とコメントした教員もいたが、自分を持つとか持たないとか考える前に生活出来るか出来ないかというぎりぎりの状況に追い込まれたときに必要とされた言葉だと考えたい。

 わが女子大は女性の自立をうたっているけれど、自立するということは、一人では生きられないことを知ることでもあろう。ワーキングプアにならずに済んで、それなりの関係にも恵まれている人たちが、努力しなきゃ駄目だとか、自立しろ、とか語っても、誰も信用しない時代になっているのである。つまり、今大学で自立を言うことは、こういう時代の厳しさを勘定に入れていないところがある。とりあえず、何とか食べていけよ、一人で生きるのはけっこう厳しいぜ、というのが、たぶん今最も有効なメッセージだ。

 大学の文系の人気がないのは、いまだに自立とか言っているからだと思わないことはない。高度成長期の恩恵を受けた生活の厳しさを知らない教員が、抽象的に人間の自立を言っても、ワーキングプアになったらあんた自立出来んのか、と反論されて黙ってしまうのが落ちだ。大学の教員は職を失ったときにあわてふためくだろう。プライドが高いから仕事を選ぶだろうし、結局、働く事も出来ずにワーキングプアまっしぐらになるのが落ちだが、日本の役人と同じで、なかなか潰れない職場なので、そんなことは少しも考えない。

 「トスカーナの休日」というダイアンレイン主演の映画があった。アメリカの女性作家がイタリアのトスカーナの地に癒やされそこに住むという話だが、そこで買った家の修復に労働者が働きに来る。その中の一人は教養がありそうな初老の男だったが、元東欧の国の大学教授だという。ベルリンの壁崩壊後、経済が行き詰まり、出稼ぎに来ているという。

 中国の大学教授だつて、文革の頃はひどい目に遭い、貧乏な暮らしを強いられてきた。日本の大学教授は、私もそうだが幸せなものである。テレビのインタビューである若者が、日本は早く破綻した方がいい。俺たちは失う物がもう何もないから、その方がいい、と話していたのが印象的であった。数年後には現実になるかも知れない。そのとき、いちばん辛いのが私たちのような層だろう。そうなつたら困るが、でも、そうなったときに老年の私がどう生き抜いていくのか。これでもプライドは高くないのでどんな職業にも就ける自信はある。後は体力勝負だが、それだけは自身はないが。

 しかし、考えて見れば、仮に、巨額の債務によって国家が破綻すれば、それは、マルクスが予見した資本主義の破綻の一形態であり、一種の革命前夜の状態なのではないか。違うとすれば、革命を担う主体がマルクスやレーニンが考えたようなものではないということであろう。プロレタリアートの党などもうない。知恵と工夫を持った人たちの共同体が、地道に社会を再建していく、ということになろうか。それもいいのではないかとふと思う時はある。

ヒアアフターを観る2012/02/22 00:32

 ようやく忙しさも一段落というところか。ただ、新学期へのもろもろの準備で、毎日のように出校はしている。ほとんど会議ではあるが。いろんな委員をやっているものだから会議が多い。某学会の運営委員なるものもやっていて、月に一度はでなきゃいけない。土曜には研究会もある。ということで、じっくり本を読むという気分ではないが、この期間に本を読まないと、本を読む時がなくなる。

 四月からNHK文化センターで7回ほど講座を頼まれた。「日本史の中のシャーマニズム」というテーマで、その準備に今陰陽師関係の本をいろいろと読んでいるところなのだが、それとは関係なく『銃・病原菌・鉄』が文庫になったので、四月までに読もうと買ってある。それから、山崎正和『世界文明史の試み』も読もうと買ってある。絶対読むぞ。

 授業のパワーポイントに使用していた計量ノートパソコンが壊れてしまって、四月からの授業に使うために、新しいノートパソコンを探していた。今、ちょうど、11年の冬モデルから、12年の春モデルに切り替えの時期で、店頭では売れ残った冬モデルがかなりの値引きで売っている。メーカー希望価格14万円の富士通のノートパソコンが、現品限りで8万円で出ていた。となりにはほとんど同じ機能でただハードディスクがSSDとかいうのにかわっただけの春モデルが13万4千円である。新製品を買うかどうかかなり迷ったが、8万円の展示品の旧モデルを購入。仕方がない。仕事上の必要経費である。

 久しぶりにDVDを借りてきた。クリントイーストウッド監督の「ヒアアフター」を観る。「ヒアアフター」はあの世という意味。冒頭、インド洋を襲ったあの津波の場面から映画は始まる。津波に巻き込まれたフランスの女性ジャーナリストが、臨死体験を味わうが、それから仕事が出来ずに、ついに臨死体験の本を出版する。イギリスでは、双子の兄弟の話が展開。兄が交通事故で死に、母は薬物中毒で、少年は里子に出される。少年は兄の死から立ち直れない。アメリカでは、マット・デイモン演ずる霊能者が、その能力に悩まされている。彼の霊能力を知る兄は彼を利用して商売をしようと画策する。この三つの互いに無関係な物語が、最後に交錯し、一つの物語になる、というなかなか凝った脚本の映画である。

 特に面白かったのは、マット・デイモン演ずる霊能者が死者をおろす場面である。彼は客に、まず、親は病気だったか、イエスかノーで答えてくれと、というように語る。つまり、霊力で見えた世界を、一つ一つ問いという形にして相手に確認しながら、相手の信頼をつかみ、そうして核心に入っていくのである。実は、この方法は、日本のイタコも同じであり、私が調査した中国白族のシャーマンもまた同じである。彼は、映画の中で一貫して同じ語り口を繰り返す。シャーマンの語り口をよく勉強しているとそのことに感心をした。

 死後の世界をテーマにした映画は多いが、この映画はその中でも秀逸である。特に、死者と語ることが生者の救済になる、という死者おろしの基本的な社会的機能を忠実に再現しているという意味で、実にわかりやすいメッセージを持った映画である。物語としてもよく出来ていて、荒唐無稽にもなっていない。そのことは霊能者の描き方によく出ている。少年が死んだ兄をこの世におろしたくて、何人かのインチキな霊能者に会いに行く場面がある。彼らは、皆、死者おろしの伝統的な話形を使わない。本物の霊能者であるマットデイモンだけが、使う。そういうところがこの映画にリアリティを与えているのである。良い映画であった。かなり年老いたクリントイーストウッドが何故このような映画を撮ったのか、そのことに興味が惹かれた。

                        昨日から肌着一枚の冬を捨つ