弟の死2016/07/01 23:53

 29日未明に弟が亡くなった。わたしより2つ下、64歳であった。今年一月に施設で転倒して入院。肺炎、脳梗塞と重なり、寝たきりの状態が続き、意識も混濁していた。話しかければ反応はするが、意識があるかどうかわからないと医者は言っていた。結局、抵抗力がなくなり、肺炎を克服しきれずに力尽きたということである。本人は苦しんでいたのでこれで楽になったと思いたい。昨年、パーキンソンで要介護3の弟を面倒見ていた母が事故でなくなり、結局、弟も、一年後に母のもとへ旅立ったということになる。

 弟は、絵を描き、小説を書き、アジアを放浪し、自由にというよりどちらかといえば何かを探してあてどなくさまよっていたというべきか。高校を出て、定職につかず、今で言うフリーター生活を続け、結婚もしなかった。結局、晩年は、ビルの管理会社の仕事に就き、年老いた母と落ち着いた暮らしをしていたが、運命とはむごいもので、5年前にパーキンソンを弟に発病させ、年老いた母が60になった息子の介護をするはめになった。

 葬儀の前に、戒名をつけるというので僧侶に弟の人柄を問われ、答えに窮した。ユーモアがあって楽しいところもあったが、狷介で皮肉やであった。人はよかった。犬猫をとてもかわいがった。まあ、私と似ているといえば似ている。私はあまりユーモアは得意でないが。

 パーキンソンになってから、レビー小体型の認知症を併発し、幻覚や妄想を語り始めた。妄想の方は、病ではなく性格の部分もあったかも知れない。母が死んでから、自分の書いた小説が賞をもらっているはずだと語り出す。妄想だが、この妄想、病になる前からかかっていたとも言える。文章はうまいし、アジアを放浪していたときの体験をベースにしていて、うまく生きられないものたちの悲しみをそこそこ描いていた小説なのだが、作品にまとめる力がなかった。弟の夢はついに本物の妄想に引き継がれてしまった。

 弟に連絡すべき知人友人は誰もいなかった(本当はいたのかもしれないが、交流を示す何の記録も残ってなかった)。葬儀は私と妻、そして、母方の親戚との5名による家族葬でシンプルに行った。生きているときも孤独であったが、死ぬ時も同じであった。

 2週間前に危ないとの連絡を受けたが、どうにか持ち直し、28日昼に宇都宮の病院に行ったが、特に問題はなかった。29日未明午前3時に様態が急変したとの電話を受ける。朝一番の電車で宇都宮に向かった。弟はすでに未明に亡くなっていた。そこから、勤め先に休講の連絡を入れ、葬儀の準備。昨日通夜、今日午前葬儀。午後には、母と父の眠る墓へ納骨と、あっというまに終わってしまった。昨年母の葬儀でお世話になった葬儀社もよく覚えていてくれて、少人数のささやかな葬儀を実に手際よく荘重に行ってくれた。

 お経のことばではないが、人の命ははかないとはまったくこの数日の私の体験そのものであった。とにかく、今週は思いがけずにすさまじい日々だった。疲れたが、たぶん、古来から人が人間の生き死にについて悟らなければならない大事なことを、突きつけられた日々であったように思う。むろん、私にはとても悟りはほど遠いということだけがわかっただけだが。

宇都宮の斎場に紫陽花が群れをなして咲いていた。

おとうとの逝きし日の紫陽花の群れ

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