大変とはこういうことか ― 2015/03/20 00:07
私が抱えていた懸案が最も不幸な形で解決?に向かって動いてしまった。おかげで、私は、先週から、ただただ実家のある宇都宮の身内のために奮闘している。先週の12日に母が事故で亡くなった。自転車で歩道を走っていたところ、見通しのいい交差点で左折してきた車に轢かれたのである。運転手は、私と同じくらいの歳の女性で、あわててブレーキとアクセルを間違えたらしい。その女性はその場で過失致死の疑いで逮捕された(夕方には釈放されたらしいが)。
心配停止状態で病院に運ばれ1時間後に死亡。その連絡が私に入ったのは、2時間後、私は勤め先で会議中で、ケイタイはマナーモードになっていて、いつもは出ないのだが、何度も鳴るので出たところ母が亡くなったという知らせである。すぐに宇都宮の病院に駆けつけた。
そこから、通夜や葬儀の準備と忙しく動く。14日に家族葬という形のさやかな葬儀を終えて、一息ついて、さあ、今度は弟のことである。弟はパーキンソン病で要介護3の状態。自力では生活できない。母が介護していた。ちなみに母は86歳であった。弟は62歳。私より3歳下。母が亡くなった以上、面倒見るのは私しかいない。かといって私には仕事があり、面倒は見れない。
母は常に自分が死んだ後のことを心配していた。弟のケアマネージャーに何度も頼んでいたらしい。ケアマネージャーは何とか施設を見つけるからと言ってくれたらしいが、65歳になっていないということもあり、特養は難しく、介護付きの老人ホームということになるだろうと言うことだった。が、なかなか空きがない、葬儀のあと空きが見つかったと連絡が入る。何とか、展望が開けた。
それにしても母は、用意周到だった。葬儀の写真はすでに撮ってあり、死んだ時の葬儀社まで決めていた。その葬儀社で葬儀の見積もりをし、その見積もり書の日付けが3月10日である。事故にあったのは、その二日後。私と奥さんはその見積もり書の日付けを見て「嘘だろ!」と思わず叫んでしまった。事故の一週間前に私は実家に帰って母と話をしたが、やたらに死んだらこうしてくれと話すのをいい加減に聴いていた。今思えば、母はこうなることを予期していたのだろうか。
母については書くことがたくさんある。実は、1年前に、あまりに母の生い立ちを知らないので、実家に帰る度に聞き書きをした。母は嫌々話をしてくれたが、聞いておいて良かったと思っている。いずれ、まとめる予定。
弟は介護付き高齢者住宅という実家近くの施設に入居が決まった。下見に行ったが、新しい施設のせいか、何となく殺風景で、少々不安になる。弟は当然だが入りたくはない。が、一人で暮らせないことは分かっているので渋々入ることを認めている。可哀相だが仕方かない。
この一週間、弟の世話をして介護の大変さを思い知った。母の苦労もよくわかった。世間では、親の介護のために仕事を辞める中高年のことが話題になるが、正直偉いと思う。介護の大変さは、目を離せないということだ。弟はそこまでひどくはないので助かるのだが、認知症の老人の介護の大変さは、かなり分かったつもりだ。
実家は借家で、居住者である母と弟は障害者のようなものだから、ゴミ屋敷とはいかないまでも、かなり汚い。それに、猫が五匹いる。この家と猫をどうするのか、頭が痛い、猫については、近所の猫世話仲間がいて、何とかしてくれるということになった。もう50年近く借りている借家をきれいにして返さないといけない。業者に頼むしかないだろう。
今日は、弟をショートステイに出して、私は東京に戻ってこれを書いている。明日また戻らないと行けない。東京に戻った理由は、私が医者に薬をもらいにいくためである。
それにしても私が、春の休みのときでよかった。こういう言い方も変だが、母は、事故に会う日のことまで考えていたのかと思うと、泣けるのである。
心配停止状態で病院に運ばれ1時間後に死亡。その連絡が私に入ったのは、2時間後、私は勤め先で会議中で、ケイタイはマナーモードになっていて、いつもは出ないのだが、何度も鳴るので出たところ母が亡くなったという知らせである。すぐに宇都宮の病院に駆けつけた。
そこから、通夜や葬儀の準備と忙しく動く。14日に家族葬という形のさやかな葬儀を終えて、一息ついて、さあ、今度は弟のことである。弟はパーキンソン病で要介護3の状態。自力では生活できない。母が介護していた。ちなみに母は86歳であった。弟は62歳。私より3歳下。母が亡くなった以上、面倒見るのは私しかいない。かといって私には仕事があり、面倒は見れない。
母は常に自分が死んだ後のことを心配していた。弟のケアマネージャーに何度も頼んでいたらしい。ケアマネージャーは何とか施設を見つけるからと言ってくれたらしいが、65歳になっていないということもあり、特養は難しく、介護付きの老人ホームということになるだろうと言うことだった。が、なかなか空きがない、葬儀のあと空きが見つかったと連絡が入る。何とか、展望が開けた。
それにしても母は、用意周到だった。葬儀の写真はすでに撮ってあり、死んだ時の葬儀社まで決めていた。その葬儀社で葬儀の見積もりをし、その見積もり書の日付けが3月10日である。事故にあったのは、その二日後。私と奥さんはその見積もり書の日付けを見て「嘘だろ!」と思わず叫んでしまった。事故の一週間前に私は実家に帰って母と話をしたが、やたらに死んだらこうしてくれと話すのをいい加減に聴いていた。今思えば、母はこうなることを予期していたのだろうか。
母については書くことがたくさんある。実は、1年前に、あまりに母の生い立ちを知らないので、実家に帰る度に聞き書きをした。母は嫌々話をしてくれたが、聞いておいて良かったと思っている。いずれ、まとめる予定。
弟は介護付き高齢者住宅という実家近くの施設に入居が決まった。下見に行ったが、新しい施設のせいか、何となく殺風景で、少々不安になる。弟は当然だが入りたくはない。が、一人で暮らせないことは分かっているので渋々入ることを認めている。可哀相だが仕方かない。
この一週間、弟の世話をして介護の大変さを思い知った。母の苦労もよくわかった。世間では、親の介護のために仕事を辞める中高年のことが話題になるが、正直偉いと思う。介護の大変さは、目を離せないということだ。弟はそこまでひどくはないので助かるのだが、認知症の老人の介護の大変さは、かなり分かったつもりだ。
実家は借家で、居住者である母と弟は障害者のようなものだから、ゴミ屋敷とはいかないまでも、かなり汚い。それに、猫が五匹いる。この家と猫をどうするのか、頭が痛い、猫については、近所の猫世話仲間がいて、何とかしてくれるということになった。もう50年近く借りている借家をきれいにして返さないといけない。業者に頼むしかないだろう。
今日は、弟をショートステイに出して、私は東京に戻ってこれを書いている。明日また戻らないと行けない。東京に戻った理由は、私が医者に薬をもらいにいくためである。
それにしても私が、春の休みのときでよかった。こういう言い方も変だが、母は、事故に会う日のことまで考えていたのかと思うと、泣けるのである。
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