母のことなど2015/03/26 23:39

 母の事故死のことで、多くの方からお悔やみをいただき、また心配や気遣いをいただき御礼を申し上げます。葬儀も終わり、弟も先日何とか近くの介護付きの施設に入り、私も一息ついたところである。

 母は私たち兄弟にとっては偉大な母であったが、その母に親不孝ばかりしていたことが今になって悔やまれる。親からの恩は親には返せないということが切実にわかる。親からの贈与は次の世代の誰かに返すということなのだろう。それを肝に銘じたい。

 母は、昭和3年生まれで八十六歳。まさに昭和の激動の時代に翻弄されながら生きた人だった。12歳の時に親に連れられて満州へ渡る。18の時に満州義勇軍に来ていた同郷の青年と結婚。私の実父である。彼はすぐに出征。直後日本の敗戦によって彼はシベリア抑留。母は妊娠引き上げの途中出産したが、日本に帰る途中赤ん坊は亡くなる。母の母はやはり引き上げの途中に死亡。日本に帰り、シベリア抑留から帰った父と暮らし、私たち兄弟が生まれる。だが、次第に父の生活が荒れ、仕事を辞め賭け事に夢中になり家庭は崩壊。母は離婚し子供二人を一人で育てることになる。

 親戚の経営する長屋に母と私たちは住み、その部屋の隣の職人と一緒になる。その職人が私の名前の父(養父)である。彼は、自分とは血の繋がっていない連れ子がいた。私より二つ上だった。私は大学まで実父の名前。母は旧姓。一緒になった父は父の名前、その連れ子の名前もまた違っていた。一時期、わが家には四つの名前(姓)があった。戦後の貧しい家族にはこういうケースは多かったのだと思う。

 職人の父は酒乱だった。北野武の自伝を読むと私は自分の少年時代を思い出す。ただ、違うのは、母は毎日必死に働いていて子供は放っておかれたということだ。父の稼ぎは余りなかった。貧乏人の子供のほとんどがそうであるように、私たち兄弟は成績は余り良くなかった。

 私が商業高校に入ったのは大学に行けるとは思ってなかったからだ。酒乱の父は私が勉強すると職人の息子は勉強なんかしなくてよいとよく怒っていた。中学のとき、反発心が旺盛だった私は逆に勉強した。それがよくなかったのか、成績がそこそこよくなって、商業高校にはなじめなかった。だから大学に行きたいと思い始めた。母が頑張って借金までしてくれて大学に入ったが、学生運動で結果的に大学をやめることになる。とんだ親不孝である。弟も時代の影響か私に対抗したのか、高校を出て定職につかず、アジアを放浪して小説などを書き始める。

 父はぶつぶつ言っていたが、母はわたしたち兄弟の放蕩になんにも言わず、働きながら時々私たちの生活費の心配をしてくれた。

 四十歳を過ぎて私は教員になって何とか親に仕送り出来るようになったが、弟は相変わらずで、父が脳梗塞で亡くなると、弟は母と暮らすようになり、弟も四十を過ぎると職も得た。弟も落ち着くと母は幸せそうだった。が、人を世話するエネルギーは犬猫に向かい、捨て犬や野良猫の世話に没頭し、一時期、借家の実家は一〇匹以上の猫がいた。

 このまま何とか老後をと思っていたら、三年前、六十歳になった弟がパーキンソン病にかかり、自力で生活出来なくなる。背中が曲がり歩くのもつらいとこぼす母がその弟の介護をするはめになったのだ。母は何で最後にこんな目にあわなくてはならないのだろうとこぼしていたが、母は死ぬまで人の面倒をみるように生まれてきた人なのだと言うしかなかった。

 弟が病気になってから、私は月に一度は帰って買い物などを手伝ったりしていた。考えてみれば、弟の病気がなければ一年に一、二度帰るかどうかという程度だったから、弟の病気は私に最後の親孝行の機会を与えてくれたことになる。

 母は読書家だった。小学校しか出ていないが、本は山ほど読んでいる。特に中国の歴史物が好きで気になる本があると近くの本屋に注文して届けてもらっていた。母の枕元には、岩波から出ている井波律子『中国人物伝』全4巻のうち第3巻が読みかけて置かれていた。論文のようなけっこう難しい本である。棺の中にその読みかけの本を入れてあげた。

 その母の突然の死は、人間の生のあっけなさを目の当たりにさせる。誰にも予想がつかないこんな幕切れがあるのだということを受けとめるしかなかった。考えて見れば、事故で今でも大勢の人が亡くなっている。その遺族はみんな同じ思いなのだろう。