疑いが晴れた2015/04/01 23:38

ついに四月になったが、今年の前半は私にとって試練の時期だった。母の死と弟の施設への入所は前のブログに書いた通りであるが、実は、書いていないことがもう一つあった。私の健康問題である。

去年の十一月に定期検診を行った。その結果が12月に来た。その結果は、私を打ちのめすのに充分だった。まず、肺に小さな陰があるので要検査とある。さらに、前立腺癌の検診で、PSA値が4.5と出た。3.5が基準値だから、癌の可能性がある。これも要検査である。ダブルパンチである。

 肺のCT撮影を一月に慈恵医大で撮ることになり、正月は、いよいよ私も癌かと、わるいことばかり考えて過ごした。最悪は肺癌と前立腺癌。これはないよな、と思いつつ、全部無罪放免というのも虫が良すぎる、どっちかに捕まるかも知れない、が、捕まるなら、前立腺癌にして欲しい。こっちは初期ならほぼ治癒すると言われているし、などと根拠もないことをあれこれと思い巡らしていたのだ。

 一月に入って正月明けに早速、肺のCT撮影。一週間後、おそるおそる医者に結果を聞きに行くと、何もなかったとのこと。どうも定期検診のレントゲンは、精度が低く、ほんのちょっとでも陰影があると、見逃したときのリスクを恐れ、要検査という報告をするらしい。インターネットで調べたところ、検診の結果肺に陰らしきものがあると言われた人のなかで、実際に肺がんがみつかる割合は8パーセントであるという。しかし、その8パーセントに入らない保証はないから、誰もがびびるのである。

 さて、肺がんの恐怖からは解き放たれたが、前立腺癌が残っている。かかりつけの医者で2月に血液検査をしたら、PSAの値が4.9に僅かだが上がっていた。これはどうも怪しいということになった。折しも、同じ歳の友人が前立腺癌だとわかり治療を受けるという話を聞いた直後である。彼も検診で4.7が出たという。3ヶ月後に6に上がっていて、前立腺に針をさして組織を取る生検を行い、がん細胞が見つかったという。その話を聞いていたから、私はほとんど覚悟した。

 そこで前立腺癌についてかなり調べた。PSAの値が10までの場合、癌の可能性は実は3割程度だという。前立腺肥大でもPSAの値は高くなる。私の場合、確かに夜中にトイレに行く回数は多い。従って、冷静に考えれば前立腺肥大の可能性の方が高い。が、その癌になる3割に入る可能性は、肺がんの確率よりかなり高い。こっちはまぬがれないだろうという根拠のない予感があって私はほとんど前立腺癌を覚悟した。

 かかりつけの内科に泌尿器科で説密検査を受けるように勧められ、インターネットで探して、田町駅前の泌尿器科に行った。まず、直腸からの触診、音波による検査で、前立腺肥大であることは間違いないと言われた。ただ、癌の可能性がないわけではないという。そこで、今度はMRIの検査をすることになった。その結果、どうもここんところの色が違うんだよな、と医者。つまり正常ではないと言うことらしい。癌ですかと尋ねると、前立腺肥大の可能性もあるから、という答え。はっきり言わない。

 とりあえず、肥大の薬を出すからそれを一月飲み続けてもう一度血液検査をしてPSAの値を見ましょう、ということになり、血液検査を、弟を施設に入れた次の日、3月26日に行った。値が下がっていなければ次に生検で、その結果を受けて癌ならば、手術か、放射線治療かという選択をすることになる。ちなみに友人は重粒子線治療という最先端治療を受けた。これは三百万円かかるそうで、彼は癌保険にはいりオプションに最先端治療を入れていたので保険がきくという。ちなみに私は癌保険には入っていない。

 私は、小線源治療という方式にすることに決めた。これは、前立腺に放射能を帯びた小さな針を百本以上打ち込み、前立腺内部から直接がん細胞に放射線をあてるというやり方で、治癒率が非常に高く、副作用も少ない。一年で放射線は消えるということだ。ただ、針は一生残る。入院は短期間ですむ。外部からの放射線治療は、50日はかかるので、仕事を持つ身にはつらい。手術で切り取るという方法もあるが、これは、尿道を切断し縫い合わせるので、尿のコントロールが出来なくなり、尿漏れを起こすという副作用がある。これも仕事をする身としてはつらい。ということで、治療方法まで決めて、今日医者に結果を聞きに行った。

 結果。PSAの値は3.1。基準値より下がった。前立腺肥大の薬が効いたようだ。医者は前立腺癌ではないと断言。良かった。安堵。が、前立腺肥大の治療は続けるとのこと。肥大の原因は男性ホルモンにあるので、それを抑える薬を飲むのだという。要するに女性ホルモンをふやすということで、この歳になって、身体を女性化しなくてはならないというわけだ。
 
 しかし、この結果が出るまで長かった。こんなにストレスを抱えて過ごしたのは、たぶん初めてかも知れない。血圧はかなり高くなったが、どうにか乗り切れた。これで、新入生を気分よく迎えられる。

本屋大賞違う気がする2015/04/07 23:28

 相模女子大から私の著書の文章(『神話と自然宗教』)を入試問題に使ったとの知らせが届いた。ありがたい話である。ちなみに私の書いた文章はけっこう入試に使われていて、福岡女学院大学、大東文化大学、東京大学、そして相模女子大である。東京都の教員採用試験問題でも使われた。

 入試問題担当者に私の知人が多いというのが一つの理由だろうが、ただ、入試に使いやすいという面もあるのだろう。私の文章は読みやすいが難しいとよく言われる。テーマは明確なのだが、答えは暗示的で明確ではない。展開はエッセイ風でがちがちに論理的ではない。こういうのが問題作成には適しているのだ。ちなみに東大の国語問題に使われたおかげで、参考書に私の文章が掲載され、印税が少しは入る。私の本は少しも売れていないから、これが私が受け取る唯一の印税ということになる。

 今日、本屋大賞が決まった。上橋菜穂子の『鹿の王』である。実は、勤め先の大学で、学生達と今年の本屋大賞ノミネート作品から、自分たちで大賞を選ぶという企画を行った。今年の一月のことである。その企画者のメンバーとして参加せざるを得なかった私は、仕方なく、ノミネート作品十冊を全部読んだ。ノミネート作品は以下の通り。

 伊坂幸太郎『アイネクライネナハトムジーク』、吉田修一『怒り』上下巻、川村元気『億男』、阿部和重・伊坂幸太郎『キャプテンサンダーボルト』、西可奈子『サラバ!』上下巻、上橋菜穂子『鹿の王』上下巻、月村了衛『土漠の花』、辻村深月『ハケンアニメ』、柚木麻子『本屋さんのダイアナ』、米澤穂信『満願』の十冊である。

 三月終わりに行われた学生の投票で、一位になったのは、柚木麻子『本屋さんのダイアナ』である。二位は伊坂幸太郎『アイネクライネナハトムジーク』、三位は西可奈子『サラバ!』、月村了衛『土漠の花』であった。上橋菜穂子は評判はいいのだが学生は選ばなかった。

 ちなみに私が一位に推したのは西可奈子『サラバ!』である。二位は『本屋さんのダイアナ』。やはり上橋菜穂子は推さなかった。理由は、『鹿の王』は他の本とは異質であると言うことに尽きる。『鹿の王』はロングセラーとして読まれるような風格のある本であって、本屋が短期的にベストセラーを生み出すという目的もある本屋大賞候補にするにはちょっと違うのではないか、という気がするのである。つまり別格であって、本屋大賞にはなじまない。そして、今までの、『精霊の守人』シリーズや『獣の奏者』とくらべると、その物語性においてやや劣る。医学の話にこだわりすぎている。それも、大賞候補から外した理由であった。学生達は、面白いけど共感を持って読むという本ではないといった感想だったようで、他と比較しずらかったようである。

 柚木麻子『本屋さんのダイアナ』が一位になったのは、女子大の学生にとって主人公に一番感情移入しやすく、そして感動できる、という点にあったようだ。確かに私もそう思った。この主人公の女の子に私も共感出来た。傷つきながら成長していくよくある物語であるが、学生達は一番同一化しやすい主人公だったのではないか。

 私が西可奈子『サラバ!』を一位に推したのは、この情けない主人公のライフストーリーに、私は思わず自分を重ねて読んでしまったからである。主人公は中年になって自分を振り返るという展開であるが、その確固たる芯のない、情けない自己嫌悪の人生は、たぶん誰にも当て嵌まるものだろう。私にも大いに当て嵌まった、その意味で身につまされる物語である。こういう感覚はさすがに女子大生には無理だったようで、評判はいまいちであった。伊坂幸太郎『アイネクライネナハトムジーク』の評判が良かった。ただ、この手の、別々の関係なさそうな物語が意外な線で最後にみんな繋がっていく、という伊坂幸太郎特異の手法による小説は、何と行っても『ラッシュライフ』が傑作であって、それの二番煎じは否めない。だから私は推さなかった。

 意外と面白かったのは、吉田修一『怒り』である。英国人の英語講師を殺害して逃避行を続けた千葉大の学生をモデルにした小説だが、三つの話が錯綜する。その展開が実にうまく読ませる。月村了衛『土漠の花』は、海外で後方支援に従事する自衛隊がはからずも、逃げて来た女性を保護するために戦闘に巻き込まれるという話である。敵地からの脱出というサバイバル戦闘もので、戦争アクションものとして迫力がある。が、冷静に読めば、ここに当時要する自衛隊員は、アメリカ特殊部隊顔負けの活躍をする。まああり得ないから面白いのだが。ただ、この小説は政治的に利用されることをねらって書いているところがある。つまり、後方支援とは言え襲われたら戦闘になり、その時に武器を持って戦うのは当たり前だという主張がある。自衛隊に武器を持たせたい安倍首相の感動するのが目に見える小説でもある。

憑依には誰もかなわない2015/04/23 22:00

 ブログも久しぶりである。公私にわたって忙しく、なかなか暇が無い。15日に『短歌往来』に短歌評論の原稿を送って少し楽になったが、五月のアジア民族文化学会大会の準備でまた忙しい。案内やポスターの発送、ほとんど一人でやっている。そして、私も発表者の一人だ。その資料作りはこれからだが、中国語と格闘しなくてはならない。大変であるが、まあ、これも楽しみと言えば楽しみだ。

 去年調査した白族の観音会の調査報告だが、貴重な神懸かりの映像を公開出来る。なにしろ寒い晩山の上で徹夜して撮影したものだ。ただ、儀礼の背景となる「阿叱力(あじゃり)教」についての説明が難しい。もともとインド密教で、雲南に入り、すでに中国に伝わっていた密教や道教、地元のシャーマニズムと習合し、土着の民間信仰として発展した仏教である。大理国のときに国教として盛んになり白族に広がった。民間の宗教組織が担い手になっている。婦人組織の「蓮池会」がよく知られているが、私たちが調査した地域の宗教組織は、「媽媽会」と言う。

 この「媽媽会」の婦人たちが、お寺や廟に世話役として詰めていて、村人達の参拝の世話をしお経を唱えたりしている。この人たちも憑依の仕草をするが、一般の参拝客の婦人のなかで憑依する人たちもいる。この人たちは、巫病らしく、憑依を体験したあと、感受性が鋭くなり、「媽媽会」の世話役になっていくということなのだ。

 憑依を目の当たりにしていつも思うのだが、憑依というパフォーマンスは圧倒的だ。憑依を目の当たりにすると、誰もが何も言えなくなる。ただ、その現象を受け入れざるをえない。なすすべがない。憑依した当人をただ見守り当人が発する言葉を聴くだけだ。人間というのは不思議なものだ。それが脳の何らかの働きによると分かっているのに、神秘的に感じる。

 この神秘性への感覚と言葉の獲得とはたぶん繋がっている。憑依は言葉の限界を最初から突破している。言いかえれば言葉の無力をこれほど突きつけるパフォーマンスはない。憑依に言葉は伴うとしても、それは双方向的ではない。一方的にどのようにも解釈出来るものとしてただ示されるだけだ。

 圧倒的な憑依。双方向的な言葉のやりとりを一蹴する圧倒的パフォーマンス。私は一方で歌垣の歌の掛け合いという双方向的な言葉のやりとりが、何故、一人の言葉のパフォーマンス(和歌)の中に収まっていくのかいつも考えているのだが、結局、この憑依という圧倒的な言葉のあらわれの、形式的な再現なのではと思うようになった。そう思うことで、折口信夫の神懸かり発生説が何となく理解出来るような気がするのだ。まあ、今のことろ思いつきだが。