『色彩のない多崎つくると、彼の巡礼の年』をラカン的に読む2013/05/17 01:18

 村上春樹の『色彩のない多崎つくると、彼の巡礼の年』をラカンの理論で読んだらどうなるか。ラカンをまだ習熟しているわけではないので、心許ないのだが、案外うまく当て嵌まる気がするのだ。もっとも、村上の小説は、心の奥底に抱え込む闇を描くのをテーマにしているのだから、どんな精神分析理論でも適用可能であろう。

 精神病と神経症の違いをラカンは次のように考える。まず、人間は母からの離脱を誰もが経験する、この経験がなければ例えば言語活動が出来ない。この母子分離を促すのが父の役割である。子は父に対して攻撃的になるが父から抑圧される(結果としての去勢不安)ことで、別の父(言語であり社会である)との関係を見出す。この父をラカンは象徴的父とも「父-の-名」ともいう。母との分離を恒常的なものにするためには、象徴的な父は曖昧であってはならず、固有名を持たなければならない(象徴的な意味で)。それで「父-の-名」と呼ぶのである。この母からの分離を確かなものにする「父-の-名」との葛藤を経て、「父-の-名」は主体の無意識の中にしまい込まれ、一方主体は他者としての言語活動に取り込まれることで、社会生活が可能になる、ということである。

 精神病は、この「父-の-名」との葛藤が充分に行われなかったことに起因する。この葛藤が不十分であれば、母との分離が不安定なままであり、最初から抱え込んでいる心の闇が現れやすい状態になる。そこで、主体は、言語活動の中で新たに「父-の-名」を一から作り直して葛藤を出現させ、母子分離をやり直そうとする。それが精神病なのだという。新たに作り直される「父-の-名」との葛藤は、言語活動によって主体が「使われる」ことで現れる。どういうことかと言えば、現実のある対象が「父-の-名」として名指しされ、主体との葛藤の当事者にされるというように現れるのであるが、その行為自体は、主体が、言語に使われることである、ということなのだ。難しいが、私も全部理解したわけではない。

 強迫神経症は、相反する二つの欲望を持つ状態である。例えばそれは、①恋人を承認しない父から愛と承認を得たい、という欲望、②は恋人の愛を得たいという欲望。この二つの欲望を追求すれば必ずジレンマになる。このジレンマに陥ると人は生きているのか死んでいるのかわからない状態になる。これはよくわかる。何かを欲望したとき、そのことで自分が排除されるのではないかという不安、神経症とはそういうものだろう。欲望がなければ神経症もないということだ。ラカンは欲望は他者の欲望を欲望することだと言う。それは関係の中に人間が存在するということであり、その関係の中で構築される言語活動の中を生きていることであって、その言語活動によって、他者の欲望を欲望する、という関係のゲームが生み出されるわけである。つまり、強迫神経症であるジレンマもまたこの言語によって生み出されるものであろう。言い換えれば、言語活動を生きる限り欲望を持たないことはあり得ないのであり、神経症から逃れられることもない、ということになる。

 さてラカンの理論の一部を私なりにおさらいしてみたが、実は、これらの理論は、村上春樹の『色彩のない多崎つくると、彼の巡礼の年』の解説なのである。少しはおわかりいただけたろうか。

 まず主人公の多崎つくるは、理想的な共同体を目指したグループから排除されたことで強迫神経症にさいなまれる。彼は精神病になったわけではない。高校生の仲間との理想的共同体という「象徴的父」の承認を得ることと、彼らがそれぞれの個人の内部で密かに持つ欲望は相反してる、というジレンマ状況が、ついに破綻を生む。その破綻が、多崎つくるの排除という形で象徴的に現れたのである。この場合、シロの精神病は一つのきっかけにすぎない。多崎つくるは、解決のつかないジレンマにさいなまれる。象徴的父である共同体から承認を得たいという強い欲望をもっている。だが、そこから拒絶される。一方でその象徴的父が決して承認しない、メンバーの女の子へ欲望を抱え込む。この行き詰まりが決定的な外傷という形で到来したとき、彼は激しく消耗する。が、少年期でないことが彼の立ち直りを助け、彼は、二人の女の子の欲望をくすぶらせたまま、別の会社・仕事という象徴的父の承認のもとに生きていくのである。

 一方、シロは、完全な精神病である。象徴的な父との葛藤を経なかったシロは、多崎つくるを、自らを抑圧し対決しなければならない象徴的な父として、父との葛藤をもう一度生きようとするのである。何故多崎つくるだったのか、ひょっとすると多崎つくるの密かな欲望を感知していた、ということかも知れない。が、そのことは直接関係ない。多崎つくるでなければ他の誰かでも良かったのである。それが精神病というものなのだ。

 この小説はカウンセリング小説である。神経症の多崎つくるをカウンセリングする女性沙羅が現れる。彼女と多崎つくるの関係は、臨床心理士とクライアントの関係そのものである。この関係が擬似的恋愛関係になると言われる。それほどクライアントは依存するということだろう。村上春樹は、その依存を沙羅が裏切るように展開させるが、さてそこはどうなるやらである。多崎つくるは自分の強迫神経症の原因を解き明かす旅に出る。その結果、象徴的父の解体を知る。この時点で、彼は神経症から逃れられることが出来る条件を手に入れたのだ。だが、シロの問題が残る。が、これは多崎つくるとは直接関係ない。

 シロを救うために多崎つくるを排除したのは、明らかにメンバーの失態だったろう。眼前の葛藤の対象としての象徴的父を排除してしまつたら、その父は不在になり、シロはますます象徴的父をでっちあげざるを得なくなる。つまり、精神病は重くなるしかないのだ。

 多崎つくるはこれからどうなるか、というところでこの小説は終わる。村上春樹がラカン派なら、もっと深い絶望を味わう方向へと進むだろう。沙羅との恋愛も結局は、根底に抱えた不安を抑えるための防衛機制にすぎないことを知るまで。が、村上春樹の読者は村上がラカン派でないから読んでいるのだ。私もそうだ。人には不安や葛藤を鎮める安定した場所がきっとあるに違いない、たとえそれが幻想だとしても、というスタンスを崩さないのが村上のバランス感覚だ。絶望の方へ誘い込みながら、寸止めにして、希望を与えて閉じる。

 それにしても、村上の小説の神経症の主人公には、いつも沙羅のようなカウンセラーとしての女性が現れる。羨ましいといつも思う。この女性はなにを象徴しているのだろう。村上の母子分離はうまくいったのだろうか。興味あるところである。