呪術の話 ― 2012/04/19 12:38
授業も始まり、学科長の仕事も始まり、市民講座も始まり、労働の日々が続く。こういう日々はあっという間に過ぎ去って、気がつくと一年が終わっていたりする。この歳になると、新しい何かに挑戦することはあまりないので、時間は基本的に生活のくり返しのなかで消費されていくだけだ。だから、時間の経つのは早い。
昨日は「アジア民族文化研究11号」の発送作業である。今回の機関誌は300頁ほどあり、かなり厚い。しかし、よくこれだけの厚い機関誌が発行出来るものだと我ながら感心する。もともと、わが学会は一次資料をなるべくたくさん掲載することを方針としてきたので、これだけの厚さになった。貴重な資料を持っている研究者が、発表の機会のないまま、その資料を埋もれさせてしまうということはよくあることである。わが学会はそういう資料の発掘もまた目指している。
ただ、これだけ厚いと発送作業が大変である。資金のない学会なので、会員への封筒の印刷は自前。最初は大会のポスターまで自分で印刷していた。それが自前でなくなったのは、印刷費が安くなったおかげ。デフレさまさまである。機関誌の印刷費もかなり安い。こちらは安くて助かるのだが、一方で、この安さじゃ印刷業界の人は大変だろうなあと心配になる。何人の人が職を失ったのか。インフレ政策はやはり必要だろうなあ、と思うことはある。ただ、自分のところだけはデフレでいて欲しい(給料を除いて)というのはみんなに共通したわがままだろうが。
毎年、会員に住所不明の人がけっこういる。退会者を含めると無視できない数になる。まだ何とか機関誌発行を維持できる会員数だが、そのうち危うくなるかも知れない。その時をいかに先延ばしにするのか、今その努力の日々だが、そのためにも学会活動のレベルを維持し、絶えず刺激を与え続ける学会にならなければならない。
青山で始まった市民講座はまだ二回ほどだが、とりあえず好調である。受講者はほとんど私より年配の方だが、シャーマニズムについてとても好奇心を持って聞いてくれる。ただ、これから歴史の講義に入っていく。今までは、映像をつかったりして楽しくできたが、文字資料が主である歴史の講義は気が重い。
講義のために平安時代の呪術関係の文献を読んでいて思うのは、結局これって関係の不安ではないのか、ということである。呪術の記録というのは、ほとんどが、権力闘争に敗れたものたちの、勝者への呪詛である。その呪詛を陰陽師が請け負うのだが、その呪詛返しもまた陰陽師が請け負う。
呪詛の代表的なのは人形による呪いである。私と奥さんは今韓流時代劇の「トンイ」にはまっているのだが、王妃が病で亡くなる場面がある。王妃は「トンイ」を次の王妃にしたいと思っている。それを阻みたい側室で韓国三大悪女の一人「ヒビン」の側は、王妃を早く亡き者にしたいと巫女を使って呪詛を行う。それが、人形を使うものだった。
人形に呪符を書き、呪う相手の近くに埋めるというものである。これは実際に史実であったようである。この呪詛が発覚してヒビンは窮地に陥るのだが、この呪詛は日本の奈良時代や平安時代の呪詛と同じである。呪詛の容疑は勝者側の捏造である場合が多いが、実際にも行われていた。人形を相手方の建物の床下に埋めるというもので、この人形が発見されて呪詛が発覚する、ということがある。
この人形を使った呪詛は中国からもたらされたものであろうが、民間ではなく王族や貴族が行っていた、というところが面白い。韓国王朝は儒教によって国を治めていたはずだが、やはり呪術文化は消えていないということだ。日本は、もっと消えていない。
権力の取り合いになったとき、相手が病気になってくれればと誰もが思う。それは神の所為だから誰も異を唱えられない。その神の意思を人の側が直接コントロールしようとするというのが呪術である。呪術の要点は、その作用が神もしくは超自然的な力に起因するように見させることにある。
失恋もそうだし、権力闘争のそうだが、人と人との関係が最悪になったとき、神の力を利用してこちらの都合の良いように相手を傷つけたい。そういう願望がある限り、呪術はなくならないだろう。疎ましい話だが、これも人間の一面と言うことだ。
傷つけて傷つけてしまう春の闇
昨日は「アジア民族文化研究11号」の発送作業である。今回の機関誌は300頁ほどあり、かなり厚い。しかし、よくこれだけの厚い機関誌が発行出来るものだと我ながら感心する。もともと、わが学会は一次資料をなるべくたくさん掲載することを方針としてきたので、これだけの厚さになった。貴重な資料を持っている研究者が、発表の機会のないまま、その資料を埋もれさせてしまうということはよくあることである。わが学会はそういう資料の発掘もまた目指している。
ただ、これだけ厚いと発送作業が大変である。資金のない学会なので、会員への封筒の印刷は自前。最初は大会のポスターまで自分で印刷していた。それが自前でなくなったのは、印刷費が安くなったおかげ。デフレさまさまである。機関誌の印刷費もかなり安い。こちらは安くて助かるのだが、一方で、この安さじゃ印刷業界の人は大変だろうなあと心配になる。何人の人が職を失ったのか。インフレ政策はやはり必要だろうなあ、と思うことはある。ただ、自分のところだけはデフレでいて欲しい(給料を除いて)というのはみんなに共通したわがままだろうが。
毎年、会員に住所不明の人がけっこういる。退会者を含めると無視できない数になる。まだ何とか機関誌発行を維持できる会員数だが、そのうち危うくなるかも知れない。その時をいかに先延ばしにするのか、今その努力の日々だが、そのためにも学会活動のレベルを維持し、絶えず刺激を与え続ける学会にならなければならない。
青山で始まった市民講座はまだ二回ほどだが、とりあえず好調である。受講者はほとんど私より年配の方だが、シャーマニズムについてとても好奇心を持って聞いてくれる。ただ、これから歴史の講義に入っていく。今までは、映像をつかったりして楽しくできたが、文字資料が主である歴史の講義は気が重い。
講義のために平安時代の呪術関係の文献を読んでいて思うのは、結局これって関係の不安ではないのか、ということである。呪術の記録というのは、ほとんどが、権力闘争に敗れたものたちの、勝者への呪詛である。その呪詛を陰陽師が請け負うのだが、その呪詛返しもまた陰陽師が請け負う。
呪詛の代表的なのは人形による呪いである。私と奥さんは今韓流時代劇の「トンイ」にはまっているのだが、王妃が病で亡くなる場面がある。王妃は「トンイ」を次の王妃にしたいと思っている。それを阻みたい側室で韓国三大悪女の一人「ヒビン」の側は、王妃を早く亡き者にしたいと巫女を使って呪詛を行う。それが、人形を使うものだった。
人形に呪符を書き、呪う相手の近くに埋めるというものである。これは実際に史実であったようである。この呪詛が発覚してヒビンは窮地に陥るのだが、この呪詛は日本の奈良時代や平安時代の呪詛と同じである。呪詛の容疑は勝者側の捏造である場合が多いが、実際にも行われていた。人形を相手方の建物の床下に埋めるというもので、この人形が発見されて呪詛が発覚する、ということがある。
この人形を使った呪詛は中国からもたらされたものであろうが、民間ではなく王族や貴族が行っていた、というところが面白い。韓国王朝は儒教によって国を治めていたはずだが、やはり呪術文化は消えていないということだ。日本は、もっと消えていない。
権力の取り合いになったとき、相手が病気になってくれればと誰もが思う。それは神の所為だから誰も異を唱えられない。その神の意思を人の側が直接コントロールしようとするというのが呪術である。呪術の要点は、その作用が神もしくは超自然的な力に起因するように見させることにある。
失恋もそうだし、権力闘争のそうだが、人と人との関係が最悪になったとき、神の力を利用してこちらの都合の良いように相手を傷つけたい。そういう願望がある限り、呪術はなくならないだろう。疎ましい話だが、これも人間の一面と言うことだ。
傷つけて傷つけてしまう春の闇
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