入学式で思うこと2012/04/03 00:56

 今日(2日)は入学式である。今年は桜の咲くのが遅いが、大学前のしだれ桜はすっすり咲いていた。天気も良かったので、入学式日和というところだ。いつものように、セレモニーがある。私はこの四月から学科長なので壇上で挨拶をさせられた。

 今年はわが学科の新入生は定員を割り込んだ。覚悟はしていたが、やはり届かなかった。こういう時に学科長をやるのは楽しくはない。どうやったら、学生を集められるのか、知恵をださないといけない。これは時代の問題だからどうやっても無理だろう、という思いはあるが、そうは言ってられない。とりあえず大学も企業だからそこで働く者は生活がかかっている。時代のせいにする訳にはいかない。

 毎年だが、壇上で新入生の顔を見ると、少し不安と緊張のせいか、みんな一様にやや暗めである。だが、しばらくすると、この顔がとても元気になっていく。それを感じ取れるのが教員としてなかなか楽しいのである。ただ、短大は2年だが、2年後には社会に送り出さなくてはならない。ちゃんと鍛えてしっかりとした大人にしていかなくては、といつも入学式に思うが、鍛えるなんて出来るわけはない。むしろ、学生たちが自分で成長していくその手伝いをほんの少しするだけ、といったほうが実際は正しいのだろう。むしろ、鍛えられるのは、わたしたちのほうだ。

 就職の厳しい時代である。楽しくやろうよ、社会に出れば何とか食べていけるさ、などと明るく言えないことが、寂しい。老婆心でつい、将来はたいへんだよ努力しなくては、と言ってしまう。そんなことわかっているだろうに、一応教員の立場として言わざるを得ない。本当は、たくさん本を読んでいろいろ考える2年間を持つことだけでそれで十分。そういう2年間を持てれば、就職出来なくてもやっていける、と自信を持って言えればいいのだが。これは高度成長期の私の若い頃の感覚が入っているから、そのまま言うのは無責任になる。

 とにかく、どんな職業でもいいから、食べていける道を探せ。そのうえで、好きなことを探せ、勉強もしろ、というのが最も現実的だが、これだと夢がない。しかし、夢を持って、その実現を目指せ、などと脳天気に言える時代でもない。

 私の家は貧しかった。だから、高校を出て就職して地道に働いて親を楽にする、という生き方をどうして選ばなかったのか、とふと今でも思うことがある。少なくとも、私の周囲はみんな貧しかったから、私の同世代はそのように選択した者が大半だった。それと真逆な生き方をして親不孝をしたことを悔やむことがないわけではない。そういう私が、地道に生きろ、などという資格があるだろうか、といつも思うのである。地道に生きなかったからそれを言う資格があるとも言える。よくわからない。

 入学式のあとのガイダンス。新入生は教員を興味津々と眺め品定めをしている。私たちもそうだ。双方期待したほどではないと思いながら、でも心の中では期待は大きく膨らんでいる。毎年そうだが、教員にとって入学式のこの時期がとても心地よいときなのである。

                      入学式みんな同じ目で見る宙(そら)

恒例の花見2012/04/10 01:19

 先週の土日はたぶんみんな花見の週末ではなかったろうか。私も、土曜は友人達と狭山湖での花見だった。これは毎年恒例なのだが、今年は寒くて、狭山湖畔にはほとんど花見客がいない。桜もまだ五分咲きといったところである。とにかく風が冷たい。ということで、近くの友人宅で花見ということになった。これも恒例である。

 日曜は、マンションの花見。これも恒例である。日曜は天気もよく花見日和。マンションの庭の桜の下で住人達がそれぞれ食べ物や酒を持ち寄って一日宴会をする、というもので、マンションが出来てから毎年やっているという。このマンション35年経つから35年はやっているということになる。

 まずアプローチの連絡ボードに、係が花見の候補日をあげ、住人がそれぞれ自分の部屋の記号の箇所に出られる日に○を入れる。実は、始め多数決で土曜日の7日に決まったのだが、新しく入居したひとなどが日曜日の法が都合がいいということもあり、日曜の希望者が多くなったので、日曜に変更となったが、これは正解であった。土曜日だったら寒くて震えながらの花見であったろう。

 このマンションは入居者が設計から建築まで共同して行ったいわゆるコーポラティブハウスなので、入居者同士のつながりが強い。創始の時からの住人(15戸)は少なくなってきていて、かなり入れ替わっている。私たちも5年前に越してきた。それでも、伝統というものはたいしたもので、長屋のように住人が顔見知りである。ただ。中には一度も顔を見たことのない人もいるが、それはそれなりに了解されている。例えば有名な翻訳家のY氏は一二度すれ違っただけで、顔をほとなんど見たことがない。みんなも同じである。奥さんの話によると生活がほとんど夜昼逆転しているので、みんなと合うことはないという。

 去年越していった人も花見に来た。また、引っ越していったが、オーナーとして部屋を賃貸にしている創始の住人も来てくれた。新しく越してきた二戸の住人も顔を出した。さらに、空き家になっていて賃貸物件になっている部屋があるのだが、たまたま花見の当日にそれを見に来た若い夫婦をだれかが連れてきて、花見に参加してもらった。というわけで、かなり賑やかな花見となった、5年住んでいるが、初めて顔を見る人もいる。同じ建物に住んでいるのに、顔を知らないというのも不思議と言えば不思議だが、日本ではこれが普通である。

 花見が終わり今日(月)は出校。11日から授業。市民文化講座も始まる。その講義ノート作りでかなり時間を費やしたが、こういうのもそれなりに楽しいものである。5月の学会の準備もあり、やることは多い。

 DVDを何本か見る。原田芳雄の『大鹿村騒動記』はともて面白かった。芸達者な役者たちが楽しんで演じているのがよくわかる。新しい映画ではないが『アンノウン』は、スパイものだが、展開の先が読めなくて、けっこう面白い。『ボーンアイデンティティ』と設定は似ているが、こっちの方がサスペンスとしてはよく出来ている。それからニールジョーダンの『プルートで朝食を』。『クライングゲーム』と同じような設定だが、こっちは完全にお姉エ系が主人公。こけれがなかなか泣かせる。それでいてとても洒落ている。さすがニールジョーダンである。それから、1983年の古い映画だがクローネンバーク監督の『デッドゾーン』。事故で予知能力を持ってしまった男の物語だが、傑作という評価が高いのも頷ける。

 DVDは原則として旧作しか見ない。ツタヤで四本千円だから。だから、良い映画を観たときはとても得した気分になる。今回はとても得した気分になった。

吉本の通訳2012/04/14 00:28

今週は毎日出校。アジア民族文化学会の発送準備で忙しい。ポスターの発送、機関誌の発送準備といろいろある。ほとんど一人でやる。手伝いを頼むことも可能だが、みんな忙しく、結局合間を見て自分でやるのが一番効率がよい。

 水曜は市民講座の最初の授業。シニア文化講座ということで、受講者は年配の人ばかり。教室は、地下鉄の青山一丁目の駅の上のビルにある。「日本史におけるシャーマニズム」というテーマで、まずシャーマニズムの紹介から入った。私はいつも女性ばかりに教えているのだが、今回は男性の割合が多い。歴史と銘打った授業だからだろうか。私は歴史は専門でないので、歴史好きの受講者から結構突っ込まれれそうだ。準備が大変である。

 それにしてもだ。私より年配の人たちの学習意欲とはすごいものだなとつくづく感心する。みんな若い時にはそれなりの教育を受けた人たちだろうに。「シャーマニズム」について一体どういう興味なのだろうか。冒頭一番、みなさん本当に好奇心の強い方々ですね、と語りかけた。好奇心こそが長生きの秘訣なのかも知れない。私も好奇心だけは負けないと思っている。そうでなきゃ、こういう講座を引き受けない。

 今日、夜8時からのBSフジのプライムニュースで、吉本隆明特集をやっていた。この保守的な番組で吉本を取り上げるのが面白く、つい見てしまった。ゲストは、三浦雅士と芹沢俊介。司会者が、どうして吉本はそんなに若者に影響をあたえたのか、という質問に、二人のゲストが彼の思想はこうなんだ、と答えるのだが、三浦雅士がやたらに早口で饒舌で、こんいう人だったんだと初めて知った。

 感想は、吉本隆明は、世代や人によって違った読まれ方をするのだなあ、というものである。テレビでの短い発言だから、簡単には決めつけられないにしても、吉本の偉さを一言で言うときに、やはり、世代やどういう生き方をしたか、というところで大分違うのだなと感じた。むろん、理解力という問題もあるだろうが、二人の吉本の思想の褒め方と私のとは大分違うように感じた。

 私は、吉本の思想の一つのポイントは、知識や観念を突き詰めて生きることが、人間にとっての自然過程だとしながらも、それが何故時に無力なのか、あるいは、何故間違うのかという問題を徹底的に極めようとしたことだと思っている。転向論から始まるのは、理念的に生きることの脆さをそこに見たからだ。吉本の出した一つの答えは「大衆の原像」だった。つまり、理念的に生きる事がどうしても抱え込む超越的な位置取りを、いったん生活の側に下ろさないと、その理念が無力になったり間違うことがある、ということである。

 知識人を評価するとき、知識人とは、知識を積極的に肯定しながらその知識の高ピーな位置取りをいかに無効にするかという矛盾にさらされること、を理解しているかどうか、という見方をした。吉本が最も理想とした知識人は親鸞だった。親鸞は、その矛盾をみごとに自覚して生きた思想家だったと考えたからだ。

 今日の吉本特集の番組を見ていて、ゲストはこのようなことを一言も語らなかった。それでどうも、私とは理解の角度が違うのだなと思ったのである。別に私の見方が正しいなどとは思っているわけではないが、改めて、吉本は人それぞれにそれぞれの吉本像で読まれていると感心したのである。司会は二人のゲストを吉本の思想の通訳者と紹介していたが、あまりいい通訳をしていなかったように思うのだが。

呪術の話2012/04/19 12:38

 授業も始まり、学科長の仕事も始まり、市民講座も始まり、労働の日々が続く。こういう日々はあっという間に過ぎ去って、気がつくと一年が終わっていたりする。この歳になると、新しい何かに挑戦することはあまりないので、時間は基本的に生活のくり返しのなかで消費されていくだけだ。だから、時間の経つのは早い。

 昨日は「アジア民族文化研究11号」の発送作業である。今回の機関誌は300頁ほどあり、かなり厚い。しかし、よくこれだけの厚い機関誌が発行出来るものだと我ながら感心する。もともと、わが学会は一次資料をなるべくたくさん掲載することを方針としてきたので、これだけの厚さになった。貴重な資料を持っている研究者が、発表の機会のないまま、その資料を埋もれさせてしまうということはよくあることである。わが学会はそういう資料の発掘もまた目指している。

 ただ、これだけ厚いと発送作業が大変である。資金のない学会なので、会員への封筒の印刷は自前。最初は大会のポスターまで自分で印刷していた。それが自前でなくなったのは、印刷費が安くなったおかげ。デフレさまさまである。機関誌の印刷費もかなり安い。こちらは安くて助かるのだが、一方で、この安さじゃ印刷業界の人は大変だろうなあと心配になる。何人の人が職を失ったのか。インフレ政策はやはり必要だろうなあ、と思うことはある。ただ、自分のところだけはデフレでいて欲しい(給料を除いて)というのはみんなに共通したわがままだろうが。

 毎年、会員に住所不明の人がけっこういる。退会者を含めると無視できない数になる。まだ何とか機関誌発行を維持できる会員数だが、そのうち危うくなるかも知れない。その時をいかに先延ばしにするのか、今その努力の日々だが、そのためにも学会活動のレベルを維持し、絶えず刺激を与え続ける学会にならなければならない。

 青山で始まった市民講座はまだ二回ほどだが、とりあえず好調である。受講者はほとんど私より年配の方だが、シャーマニズムについてとても好奇心を持って聞いてくれる。ただ、これから歴史の講義に入っていく。今までは、映像をつかったりして楽しくできたが、文字資料が主である歴史の講義は気が重い。

 講義のために平安時代の呪術関係の文献を読んでいて思うのは、結局これって関係の不安ではないのか、ということである。呪術の記録というのは、ほとんどが、権力闘争に敗れたものたちの、勝者への呪詛である。その呪詛を陰陽師が請け負うのだが、その呪詛返しもまた陰陽師が請け負う。

 呪詛の代表的なのは人形による呪いである。私と奥さんは今韓流時代劇の「トンイ」にはまっているのだが、王妃が病で亡くなる場面がある。王妃は「トンイ」を次の王妃にしたいと思っている。それを阻みたい側室で韓国三大悪女の一人「ヒビン」の側は、王妃を早く亡き者にしたいと巫女を使って呪詛を行う。それが、人形を使うものだった。

 人形に呪符を書き、呪う相手の近くに埋めるというものである。これは実際に史実であったようである。この呪詛が発覚してヒビンは窮地に陥るのだが、この呪詛は日本の奈良時代や平安時代の呪詛と同じである。呪詛の容疑は勝者側の捏造である場合が多いが、実際にも行われていた。人形を相手方の建物の床下に埋めるというもので、この人形が発見されて呪詛が発覚する、ということがある。

 この人形を使った呪詛は中国からもたらされたものであろうが、民間ではなく王族や貴族が行っていた、というところが面白い。韓国王朝は儒教によって国を治めていたはずだが、やはり呪術文化は消えていないということだ。日本は、もっと消えていない。
 
 権力の取り合いになったとき、相手が病気になってくれればと誰もが思う。それは神の所為だから誰も異を唱えられない。その神の意思を人の側が直接コントロールしようとするというのが呪術である。呪術の要点は、その作用が神もしくは超自然的な力に起因するように見させることにある。

 失恋もそうだし、権力闘争のそうだが、人と人との関係が最悪になったとき、神の力を利用してこちらの都合の良いように相手を傷つけたい。そういう願望がある限り、呪術はなくならないだろう。疎ましい話だが、これも人間の一面と言うことだ。

                       傷つけて傷つけてしまう春の闇