斬新なアイデアというわけには… ― 2011/05/12 00:43
さすがに疲れがたまってきた。五月に入ってからほぼ休みなしで、とにかく五月は土日が学会や学校の行事で潰れているので、この五月をどう乗り切るか、正念場である。
今年度は研究日というものがなく、月曜から金曜まで授業が入り、土曜は学会、日曜は学校の行事が隔週で入る、という、何ともハードな日々である。この年齢になると、日々ゆっくりと過ごして、ライフワークの研究でもというのが普通なのだろうが、世の中そう甘くはない。どこの大学でもみなさん忙しそうだ。
それでも日々何とかこなしているのは、惰性と言うよりは、自分の研究にまだ不満だからで、まだやらなきゃいけないことがたくさんあるという気持ちがあるからだ。ほんとうにやれるかどうかは別にして、とりあえず、指で数えられるくらいの目標はある。あとは気力と体力が何処まで持つかである。
BSでビートたけしの「たけしのアート」という番組を毎回観ているのだが、今回の杉本博司の写真アートはなかなかよかった。私よりちょっと上の世代だが、アイデアの斬新さに感動した。博物館のジオラマを本物らしく写真に撮ったり、蝋人形を本物の肖像写真のように撮ったり、あるいは、電気の放電による人工的な稲妻をそのままフィルムに焼き付けたりと、人が思いつかないことを思いつくことがアートだと徹底しているところがすごい。その思いつきには哲学的な問いかけもあって、芸術とはコンセプトである、ということである。
考えてみれば、私なども、地道に実証的研究をやるタイプではなく、アイデア勝負で論を書いているところがある。アイデアがなければ何も書けないし書く気にもなれないのである。実は、アイデアとは事実の発見ではなく、解釈の発見である。解釈の発見に夢中になれるのは、今生きて入るこの世界が解釈によって面白くなる、という一種の快楽の追求である。地道な実証研究はどちらかと言えば、真理探求という王道であって、受苦的である。わたしはこの辛いのが嫌いなのだ。その意味では、いい加減な研究者である。
杉本博司の写真アートをみながら、斬新なアイデアをこのように具現化できたら気分いいだろうなあとそこに妙に感心したのである。
少数民族の神話を問答で歌うということにこだわって、折口信夫などの理論を使って論じられないかとこの間考えていて、これは私のアイデアだと思っていたが、すでに星野紘さんが同じ思いつきをすでに書いていたのを読んだ。やはり誰かが考えているものである。ただ、星野さんも思いつき程度の文章として書いているだけで、その問いはまだそのままになっている。同じことを考えた私としては、それを継承しなければならないということである。こういう言語文化研究というのは、芸術のようなわけにはいかない。時間がかかるし、やはり私の苦手な地道な作業は必要なのである。
斬新な解釈の夢薄暑かな
今年度は研究日というものがなく、月曜から金曜まで授業が入り、土曜は学会、日曜は学校の行事が隔週で入る、という、何ともハードな日々である。この年齢になると、日々ゆっくりと過ごして、ライフワークの研究でもというのが普通なのだろうが、世の中そう甘くはない。どこの大学でもみなさん忙しそうだ。
それでも日々何とかこなしているのは、惰性と言うよりは、自分の研究にまだ不満だからで、まだやらなきゃいけないことがたくさんあるという気持ちがあるからだ。ほんとうにやれるかどうかは別にして、とりあえず、指で数えられるくらいの目標はある。あとは気力と体力が何処まで持つかである。
BSでビートたけしの「たけしのアート」という番組を毎回観ているのだが、今回の杉本博司の写真アートはなかなかよかった。私よりちょっと上の世代だが、アイデアの斬新さに感動した。博物館のジオラマを本物らしく写真に撮ったり、蝋人形を本物の肖像写真のように撮ったり、あるいは、電気の放電による人工的な稲妻をそのままフィルムに焼き付けたりと、人が思いつかないことを思いつくことがアートだと徹底しているところがすごい。その思いつきには哲学的な問いかけもあって、芸術とはコンセプトである、ということである。
考えてみれば、私なども、地道に実証的研究をやるタイプではなく、アイデア勝負で論を書いているところがある。アイデアがなければ何も書けないし書く気にもなれないのである。実は、アイデアとは事実の発見ではなく、解釈の発見である。解釈の発見に夢中になれるのは、今生きて入るこの世界が解釈によって面白くなる、という一種の快楽の追求である。地道な実証研究はどちらかと言えば、真理探求という王道であって、受苦的である。わたしはこの辛いのが嫌いなのだ。その意味では、いい加減な研究者である。
杉本博司の写真アートをみながら、斬新なアイデアをこのように具現化できたら気分いいだろうなあとそこに妙に感心したのである。
少数民族の神話を問答で歌うということにこだわって、折口信夫などの理論を使って論じられないかとこの間考えていて、これは私のアイデアだと思っていたが、すでに星野紘さんが同じ思いつきをすでに書いていたのを読んだ。やはり誰かが考えているものである。ただ、星野さんも思いつき程度の文章として書いているだけで、その問いはまだそのままになっている。同じことを考えた私としては、それを継承しなければならないということである。こういう言語文化研究というのは、芸術のようなわけにはいかない。時間がかかるし、やはり私の苦手な地道な作業は必要なのである。
斬新な解釈の夢薄暑かな
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