梅雨の卒業式2011/05/30 00:17

 今日は卒業記念式典。つまり二ヶ月遅れの卒業式である。だが、台風による大雨。どうも卒業生達は祟られているのか。でも、袴を着たたくさんの卒業生が集まった。全員ではないけれど、よく集まった方だと思う。良い卒業式であった。季節外れの袴姿ではあったが、みんなうれしそうなので、こちらも楽しくなった。

 さすがに、社会人になってもまれて顔つきが学生の時とは違っている。やはり、社会にでることは大変なことなのだなと彼女たちの顔を見て思った。夕方から学科の歓送迎会をかねた懇親会。実はこれも二ヶ月遅れである。

 土曜は雑務で出校だったので、今週も休みなしである。帰ってから明日の準備。明日からまた授業なのだ。

 卒業生達への教員のスピーチでも放射能の事が話題になった。確かに、困った問題である。早く解決して欲しいが、長期化しそうだ。当初はこれほどひどくはならないだろうと思っていた。たぶん多くがそう思ったに違いないが、そうでもなかったということだ。それにしても、東電の組織体質はあまりにもひどい。こういう会社は早く解散させた方がよい。少なくとも、原発を管理運営する資格がないことはあきらかだ。当初、私は原発は安全をきちんと確保した上で維持するのもやむを得ないと考えていたが、結局、原発を運営する能力が日本の電力会社にも国家にもない、ということがわかってくると、日本では、当面、原発を縮小し、再生可能代替エネルギーにシフトしていくしかないなと考えるようになった。

 ただ、原発について人間が手を触れてはいけないものだというような、今の反原発の主張はあまり好きではない。原子力を神の領域を犯したというような、プロメテウスの火のように見なすのは、原子力の神話化であって、問題がある。原子力は果たして食べてはいけない禁断の実なのだろうか。

 原子力は、快適な生活を追求する人間の欲望の象徴であろう。人間はこの欲望を肯定することで、文明を作ってきた。産業革命以降、この欲望を中産階級としての市民が追求できるようになったとき、近代社会が成立したのだ。この欲望を独占する支配階級との戦いが革命でもあった。

 と考えたとき、欲望とは現在のわたしたちの精神の自由を確保した動力の一つである。が、この欲望は一方で、原発などのかなりなリスクを伴う文明を生み出した。原子力の文明への使用が禁断の実を食べたことだとすれば、すでに人間が欲望をもった時点で禁断の実を食べていたのである。だから、これは人間の業のようなものである。人間は矛盾に満ちた存在なのだ。

 そのように考えた場合、原発は人間の業そのものである。その意味で、否定したり抑圧することは困難である。というより無理である。だからこそ、否定し抑圧する論理は、神学的にならざるを得ない。仮に、国家がこの否定と抑圧の論理を行使すれば、ファシズムになる。

 人間の欲望は、否定と抑圧ではなく、うまくコントロールしながらその暴走を抑えていく、というのが賢明なやり方であろう。その意味で、原発は、コントロールする対象として冷静に対処していくべきだろう。神の領域に追いやって、触れてはならないものとしてタブー化すべきではない。矛盾に満ちた人間は、必ずタブーを破るし、独裁国家が、逆に、神秘化された原子力を恫喝の武器とする懸念もある。

 大事なのは冷静さなのだと思う。どこまでがコントロール出来る限度なのか、その判断を客観的に下すことや、事故が起こり得るとして被害を食い止め得る対策、放射能の除去等の技術開発などをすすめながら、想定されるリスクに耐え得ないなら、作ってはならないということである。

 今の日本の原発が、冷静に考えた場合のリスク計算に耐えうるものなのかどうか、何の材料も持っていないので何も言えない。しかし、確かなのは、福島の原発事故の対応でわかったように、今の日本の電力会社や国家の官僚組織は、信頼できないということである。これだけでも相当なリスクである。一挙に原発をなくすのは非現実的だとしても、縮小していくのは現実的な選択ということではないか。

梅雨の日の邂逅 久しぶりだね