アスカに振られないシンジ2011/05/23 23:18

 先週土曜は勤め先の校舎で研究会、その前の金曜はやはり学会の委員会が夕方あったのだが、さすがに疲れてキャンセルした。某大学の大学院の授業を終えたから都心に出なくてはならないので、いつものように勤め先からなら寄れるが、さすがに郊外からでは行く気になれなかった。何せ、某大学の駅から電車に乗り、わが家のある成城学園前を通って都心に出るのである。駅で降りてわが家に帰った。

 大学院の方は、去年まで在籍していた学生が(めでたく博士号を取得した)今度から聴講に来るという。これで二人になったというわけだ。うれしいようなうれしくないようなというところである。二人だとそれなりに気楽さがなくなる。一人だから手を抜いているわけではないが、やはり一人だと教える方も相手と話し合いながら融通が利いて楽は楽なのだ。二人だと、二人との相談になるから融通さが二分の一になる。そのぶん気楽さも少なくなるというわけだ。

 今週の「アニメの物語学」は「新世紀エヴァンゲリオン」である。1995年放映だが、この作品は見ている学生も多い。このアニメは、神学的な壮大なストーリー(大きな物語)と主人公の少年の自己承認をめぐる自問自答といった小さな物語とが同時進行し、結果、小さな物語に収斂されて終わる、という構造になっている。

 三つバージョンがあって、一つはTV版、二つ目はその翌年に公開された劇場版、そして2007年に公開された新劇場版である。決まって話題になるのは、TV版の終わり方で、主人公の碇シンジがカウンセリングを受けているかのような場面が長々と続く。自分はいったい何なんだと、自問自答しているのである。そして、自分はこのままでいいんだと納得し、登場人物たちから「おめでとう」と言われて終わるのである。大きな物語としては「人類補完計画」という、人類を一つの個体生物に融合し母体回帰させる試みが実現する。一方、碇シンジの補完計画という設定で小さな物語が語られたというわけだ。

 この終わり方がかなり批判され、監督は劇場版ではがらりと変えてきた。「人類補完計画」で人は滅び一つの生命体に融合する。アスカとシンジだけが融合を拒否し人として残る。ところが、シンジはアスカの首を絞めようとするが出来ない。涙を流して苦しむ。アスカをそれを見て一言「キモチワルイ」と言って物語が終わる。

 二つの終わりの場面を学生に見せたが、学生の感想は様々だ。それなりにはまって見ていた学生は、やはりTV版には批判的だった。が、劇場版を受け入れたかというとそうではない。はじめて見たという学生は、TV版の方がいいという。劇場版は気分良くない、と言う。っともな反応だろう。

 宇野常寛は、TV版は「自ら設定した自己像(自己愛)に、無条件で全承認が与えられる(母親的承認が与えられる)状態のことに他ならない」と述べ、劇場版は、「人は時に傷つけあいながらも他者と向き合って生きていくしかないのだ、というシビアだが前向きな現実認知に基づいた結末」として評価する。ところが、多くの「おたく」はこの結末を受け入れられなかった。

 そこで、「凡庸な主人公に無条件でイノセントな愛情を捧げる少女(たいていセカイの運命を背負っている)がいて、彼女はセカイの存在と引き換えに主人公への愛を貫く。そして主人公は少女=セカイによって承認され、その自己愛が全肯定される」という物語を作り出すに至る。それが「セカイ系」だという。つまり、「セカイ系」のアニメの主人公である男の子とは、「エヴァンゲリオン」劇場版の最後で、アスカに振られないシンジの役どころなのだというのである。

 「セカイ系」を「エヴァンゲリオン」の劇場版の最後からの後退として批判する宇野常寛の論理はなかなか分かりやすい。私も納得してしまう。ただ、やはり、劇場版の終わり方は、宇野の言うような「人は時に傷つけあいながらも他者と生きていくしかないのだ」というのとは、違う気もするのだ。女子学生たちがいうように、シンジはキモチワルイのだ。シンジは前向きに生きて行けるんだろうか。二人残されたはいいが、アスカに介護されながら生きていくしかないんじゃないだろうかという気もする。新劇場版は、まだ最後のところまでは公開されていない。いったいどうなるんだろうか。