毒リンゴを食べないと…2011/05/01 23:58

 金曜は、休日だが某大学の大学院の授業。ところがだ、教室にいっても学生が来ない。何せ学生一人の授業だからこういうときには困る。30分近く待って、ひょっとしていつも行くラウンジかなと探したが見つからない。それで、今日は休みだろうとあきらめて家に帰ってきた。ところがだ、家に帰ったらメールが届いて、教室で待っていたけど先生が来ない、今日は休日ですが学校はあります、とある。とまたすぐメールが届いて、申し訳ありません、学校で先生を見かけたという人がいて、どうも行き違いのようです、とまたメールが届く。どうも、どっちが間違っていたのか、お互い違う教室で待っていたようだ。こんどからは携帯に連絡を入れるよう携帯の番号を教えておいた。まあ、嫌われたわけでもなさそうなのでよかったのだが、というところである。

 土曜日は研究会で出校。中国雲南に8世紀頃に栄えた南詔国の碑文を読んでいる。今日は明日の授業の準備。なにせ連休などというものはないのである。

 注文しておいた「風の谷のナウシカ」のコミック版全7巻が届いたので、金曜から読み始めた。読み終わって、映画のアニメよりはこっちの方が何倍も面白いというのが感想。もともと、「風の谷のナウシカ」アニメ映画の構想を、マンガの原作がないのでという理由で断られたので、それなら原作を書いてしまおうと宮崎駿が書き始めたということである。映画のアニメは、コミック版の物語の半分くらいのストーリーで、中途半端な終わり方をしている。これはまだコミックが完結していないうちにアニメを制作したためで、宮崎駿は、アニメの終わり方に自分で納得出来ずコミックの方をその後も書き続けたのである。そして、その終わり方は、アニメとは比べものにならないくらいこみいって、深いものになっている。

 アニメは、腐海という毒そのものの自然が人間に対立し自然を回復していく、というようにとらえられている。その腐海の聖なる守り主が王蟲である。ナウシカは、人間と腐海との間に立って人間の破滅を救おうと犠牲になるが、王蟲の力によって生き返る。コミック版を読むとこの物語はいかにも単純で楽観的なものであるかがよくわかる。コミック版では、腐海と人間は対立するのではない。むしろ、それは別の何者か(文明を築いた人間)の意図によってセットにされているのである。ナウシカはその神の如き企みを解明していきながら、地上の人間を滅ぼしていく粘菌も人間も同じ生命の一部であり、光も闇もある、と悟っていく。こここでのナウシカは、シャーマンであり、人間のために戦う戦士であり、知恵者である。光と闇を分離するためにこの世を創造しようとする傲慢な何者かの企みに抵抗していくのである。

 宮崎駿は、このコミック版の終わりに当たってマルキシズムを捨てたと書いている。つまり、一神教的な価値観によって支配される世界ではなく、支配される側の個々の細胞(生命)に多様な可能性を認めるアニミズム的世界観に立った、ということであろう。その細胞の一部が人間であって、文明による環境汚染もそういった細胞の闇の問題として受け入れる、という、矛盾を許容する間口の広い考え方に立ったということのようだ。これは、「もののけ姫」にも、受け継がれている。 

 物語の展開力ははるかにコミック版のほうがすごい。ただ、アニメには、音や視覚効果そして動く映像の迫力がある。映画のアニメに、コミック版のようなストーリーを詰め込んだら、たぶんヒットしないだろう。その意味で、アニメはシンプルにして、とりあえずの感動作にしたということのようだ。さて、アニメの「風の谷のナウシカ」を授業で語らなければならない私としては、漫画を読んでしまって少し困ってしまった。ナウシカはやっぱり漫画版だぜ、と言いたくなってしまったからだ。

 これも授業の準備としてディズニー映画の「魔法にかけられて」を観る。いわゆるディズニーのセルフパロディという映画で、特に「白雪姫」のパロディである。アニメと実写映像の合体したミュージカル映画で、アニメのお姫様が現代のニューヨークに追いやられてしまうというものである。

 けっこう面白かった、よく出来ている。ディズニーもなかなかやるなという感じである。グリム童話で、白雪姫が生き返るのは、棺を運んでいた従者がけつまずいて喉のリンゴがとれる、あるいは、棺に入っている白雪姫の世話に嫌気を起こした従者が背中をたたいたらリンゴが外れた、ということになっている。ディズニーアニメの「白雪姫」では、王子の真実のキスによって白雪姫は生き返る。「魔法にかけられて」でも最後にこの「真実のキス」が出てくる。現代ニューヨークに現れた継母がやはり毒リンゴを姫に食べさせてしまうのである。倒れた姫にやはり姫を追ってニューヨークにやってきた王子がキスをする。が、目が覚めない。そこで、姫が心惹かれたバツイチの離婚専門の弁護士がキスをすると、という筋立てである。なかなか心憎いでしょう。ところで、王子はアニメの世界に帰るが、その時、弁護士の恋人であったキャリアウーマンの現代女性と帰る。キャリアウーマンはおとぎ話の世界にあこがれていたのである。

 私は学生にアニメや映画をみたら、その物語を自分なりに定義しなさい、と課題を課すことを考えている。「白雪姫」物語の私の定義は、やや皮肉に、「毒リンゴを食べないと幸せになれない女の子の物語」である。

       この世の闇も光も若葉かな